34. そうであって欲しい
法案成立を祝う家族の集まりの途中、セシリアが少し休みたいと言い、アリアナとオリビアは姉を二階の私室まで送った。
妊娠中の身体に加え、夫との離縁へ向けた話し合いも始まったばかりだ。自由への道が開かれたからといって、それまでに蓄積した心身の疲れまで、すぐに消えるわけではない。
セシリアを長椅子へ座らせ、アリアナが背中へクッションを入れる。オリビアは慣れた手つきで呼び鈴を鳴らし、白湯を頼んだ。
「ありがとう。二人とも、もう下へ戻っていいのよ」
「もう少し、お姉様のそばにいるわ」
アリアナが心配して声をかけると、オリビアがすかさず口を挟んだ。
「それなら、ユアン卿との婚約をどうするつもりなのか教えて」
「オリビアお姉様。今は私のことなんていいでしょう」
横目で睨んでも、オリビアは平然としている。
「だって、気になるじゃない。世間ではすっかり『王都を救った勇敢な婚約者同士』よ。お父様もお母様も、侯爵様だってそうよ。みんなこのまま本当の結婚へ話を進める気満々じゃない」
「周囲が勝手に盛り上がっているだけよ」
「あら、アリアナ」
クッションへ身体を預けていたセシリアが、小さな笑みをこぼした。頬にはまだ疲労の影が残っているものの、瞳には以前より柔らかな光が宿っている。
「私も気になっていたのよ。下ではお父様とお母様の手前、あまり深く聞けなかったけれど、あなたは本当のところ、ユアン卿をどう思っているの?」
「セシリアお姉様まで……」
姉二人から挟み撃ちに遭い、アリアナは言葉に詰まった。
「私たちになら、本音を話せるでしょう?」
「そうよ。何があっても味方になるのが姉妹なんだから、思っていることを全部吐いてしまいなさい」
オリビアも調子よく笑い、アリアナの背中を軽く叩いた。
「失礼いたします」
ちょうどよいタイミングで、二人の侍女が白湯と湯気の立つハーブティーを運んできた。手際よくテーブルへ並べ、深々と一礼して退室する。
扉が閉まったことで、ほんの一瞬だけ逃げ場が生まれた。しかし、顔を上げれば、セシリアとオリビアは揃って答えを待ち構えている。まるでヒナが餌を待つのと同じ様子に思えてしまい、アリアナは思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「二人とも、そんな目で見つめないで。何も話すことなんてないんだから」
ハーブティーの入ったカップを両手で包み込み、温もりに頼るように息を吹きかける。
「法案が成立したでしょう」
セシリアが穏やかに切り出した。
「契約どおりなら、あなたが望めば婚約を解消できるわ」
「そうね」
ユアンからは、婚約について話し合うため、明日アークライト邸を訪れたいという伝言が届いている。何を告げられるのかは分からない。もしかしたらユアンも、契約どおり婚約を終わらせるつもりなのかもしれないと、覚悟はしている。
「アリアナは、今もまだ解消したいの?」
オリビアに尋ねられ、カップを包む手に力が籠もる。
事件が起こる前なら、迷わず頷いていただろう。法案が成立したら婚約を解消し、ストーンハーストへ帰る。それ以外の未来など考えていなかった。
ところが今は、ユアンのいない未来を想像するだけで、胸の奥へ妙な空白が生まれてしまう。
「分からないわ」
正直に答えると、オリビアは意外そうに眉を上げた。
「そこまで迷っているなら、もう好きなんじゃないの?」
今度はすぐに否定できなかった。
走る汽車から飛び降りる前、必ずもう一度この手で掴むと言ってくれたこと。傷を負ってもアリアナを優先し、いつもこちらの意思を尊重してくれること。冗談ばかり口にしながら、ときおり見せるひどく真剣な眼差し。
思い出すたび、胸の奥が温かくなる。
「惹かれているとは、思う」
認めた途端、顔へ熱が集まった。
「でも、好きだから結婚できるとは限らないでしょう?」
「まあ、そうね。特に相手がユアン卿では難しいわね」
オリビアはあっさり同意し、菓子皿から焼き菓子を一つ取った。
「どうして、そこで即座に頷くの?」
「だって、社交界でも有名な遊び人だもの。顔だけで選ぶなら文句なしだけれど、その顔のよさを、これまで散々ほかの女性へ使ってきた男でしょう?」
「姉様は、どうして何でも顔を基準にするの?」
「顔以外の部分を判断するには時間がかかるけれど、顔は見ればすぐに分かるからよ」
オリビアは悪びれず、焼き菓子を口へ運んだ。
「デレクを選んだことは今でも自慢よ。彼は顔も絵の腕も、ついでに性格もいいもの」
「性格がついでなの?」
「結果的に全部よかったのだから、問題ないでしょう?」
姉の迷いのなさが、今は少し羨ましかった。
「ユアン様についての噂は、本当なのかしら」
アリアナは、自分でも情けなくなるほどか細い声で尋ねた。
「女性と何度も浮き名を流したという意味なら、本当よ」
オリビアは表情を改めた。
「社交新聞に掲載されただけでも、未亡人に舞台女優、貴族令嬢、それから有名な不運な者。噂になった相手は、一人や二人ではないわ」
「そんなに……」
次々と挙げられる名前に、胸の奥へ、重いものが沈んでいく。
舞台女優や華やかな未亡人ならまだしも、不運な者――つまり、夜の街の女性たちとまで噂になるなんて、自分が抱いていた「ユアン様を信じたい」というささやかな願いが、途端に甘い夢のように思えてくる。
同時に、彼がほかの女性へ、自分に向けるのと同じ笑みを見せていた。優しく名前を呼び、触れてよいかと尋ね、あの低く甘い声で心地よい言葉を囁いている。
そのことを想像するだけで、胸の内側へ黒い感情が広がっていくのをとめられない。
「でも、少し妙なのよね」
思案するように呟いたオリビアの声に、アリアナは顔を上げた。
「何が?」
「ユアン卿と別れた女性たちが、ほとんど彼を悪く言わないことよ」
「どういうこと?」
「社交界では、付き合っている最中より、別れたあとのほうが噂は広がりやすいでしょう? 贈り物を惜しまれた。結婚すると言ったのに捨てられた。別の女性とも同時に付き合っていた。恨みがあれば、いくらでも悪い話が出てくるものよ」
オリビアは指を折りながら例を挙げた。
「ところが、ユアン卿については、そういう話をほとんど聞かないの。むしろ彼を悪く言う人がいると、『あの人は約束しなかっただけで、嘘はつかなかった』と庇う女性までいたらしいわ」
「約束しなかっただけ……」
「結婚をちらつかせて騙したことはない、という意味でしょうね。約束した援助や贈り物を惜しんだこともなく、女性の側から別れを切り出されても恨まない。終わった関係について、自分から吹聴することもないそうよ」
「それでも、女性と遊んでいたことに変わりはないでしょう?」
アリアナは思わず強い口調で言い返した。
「お金を渡して、別れた女性の悪口を言わなければ、何人の女性と関係を持っても誠実だということになるの?」
「ならないわ」
オリビアは即座に肯定した。
「私も彼を擁護するつもりはないわ。どれほど相手と合意していようと、次々と女性を替えてきたのなら、その事実は残る。アリアナが嫌だと思うなら、無理に物分かりよく受け入れる必要はないんじゃない?」
真っ当な答えを返され、アリアナは口を閉ざした。
自分と出会う前のことなのだから、気にするべきではない。そう割り切れれば楽だった。
しかし、ユアンが別の女性に愛を囁いていたと考えるだけで嫌だった。もし結婚したら、誰かの香水が彼の服から香ったり、帰宅が少し遅れたりしただけで、自分は過去の女性たちを思い出してしまうかもしれない。
何も起きていないのに疑い、疑ってしまった自分を嫌いになる。
そんな結婚生活を何年も続けることなど、できるとは思えなかった。
「人気のある男と付き合うなら、自分に自信を持つしかないわね」
オリビアは何でもないことのように言った。
「ほかの女性がどれほど美しくても、最後に選ばれるのは自分だと思えれば、必要以上に怯えずに済むでしょう?」
「お姉様は自信があるから、そんなことを言えるのよ」
「もちろん、あるわ」
オリビアは迷いなく胸を張った。
「デレクがどれほど美しい女性を描いても、その絵を完成させたあと、最初に見せに来るのは私だもの」
「私は、お姉様みたいにはなれないわ」
アリアナは膝の上で指を握りしめた。
「ユアン様が私を選んでくれたとしても、いつか飽きるのではないか、もっと魅力的な女性を見つけるのではないかと考えてしまう。そうやって疑い続ける自分も嫌なの」
黙って話を聞いていたセシリアが、お腹を撫でる手をとめた。
「それなら、今のまま結婚してはいけないわね」
穏やかな声だったが、言葉には迷いがなかった。
「何を不安に思っているのかを、先ずは本人へ伝えなければだめよ。それでもし、あなたの不安を面倒だと切り捨てるような人なら、結婚しても幸せにはなれないわ」
その通りだと思い、アリアナは小さく頷いた。
自分は物わかりのいい妻を演じられるほど器用ではない。
夫の心を繋ぎ止められないまま笑ってやり過ごすなんて、自分にはきっと耐えられない。傷つくことを恐れて胸の内に秘めたままでは、いつか自ら破滅を選んでしまいそうな気がする。
「ほかにも、妙な噂があるわ」
オリビアが新しい焼き菓子へ手を伸ばしながら言った。
「ユアン卿は、王家のために裏の仕事をしているのではないか、という噂よ」
「王家のために?」
「彼は顔が広すぎるでしょう? 貴族の夜会だけでなく、劇場や酒場、賭博場にも出入りしている。舞台女優や未亡人、事情通の令嬢や、それこそ夜の街の女性たちとも親しい。だから、放蕩者を装いながら王家のために情報を集めているのではないか、と言う人もいるの」
その言葉に弾かれて、アリアナはベルニエ仕立店での出来事を思い出した。
ユアンが懐から取り出した王家の紋章入りの協力要請書。老舗の店主さえ顔色を変えた、国王の権威を示す赤い蝋印。
駅や市場で働く子供たちを〈目ざとい子猫たち〉と呼び、情報を集めていた事実もある。単なる遊び人が、あれほど手際よく極秘の調査を進められるものだろうか。
「きっと、そうなのよ」
ユアンを疑わずに済む理由が見つかり、思わず身を乗り出す。
「ベルニエ仕立店へ行ったとき、ユアン様は王家の紋章が入った書状を持っていたの。店主へ調査への協力を求められる、正式なものよ。普通の侯爵令息が、簡単に持てる書状ではないでしょう?」
「今回の事件について、内々に王家から協力を得た可能性もあるわ」
セシリアが慎重に指摘した。
「でも、ユアン様は、私が知らないうちに用意していたの。それに、王都中へ情報を集められる協力者がいるわ。きっと以前から、王家のために働いていたのよ」
口にするほど、点と点が繋がっていくように思えた。
「噂になった女性たちも、協力者だったのかもしれない。恋人のふりをして情報を受け渡していたなら、別れたあとに誰もユアン様を悪く言わないことにも説明がつくわ」
胸へ沈んでいた重いものが、少しずつ軽くなっていく。
もし放蕩者という評判そのものが、王家の仕事を隠すために作られたものだったなら。
ユアンが女性たちを騙し、次々と弄んできたわけではないのなら。
事件の中で見せてくれた誠実な姿だけを信じても、間違いではないのかもしれない。
「そうであれば、私はユアン様を信じられるわ」
自分へ言い聞かせるように呟くと、姉二人はすぐには答えなかった。
その沈黙が、アリアナの胸へ小さな不安を呼び戻す。
「何よ。二人とも」
「可能性はあると思うわ」
先に答えたのはオリビアだった。
「ただし、王家のために働いているという話も噂にすぎない。どこまでが仕事で、どこからが私生活なのかは、私たちには分からないわ」
「でも、ユアン様が放蕩者だという話だって、結局は社交界の噂でしょう?」
「そうね」
オリビアはあっさりと認めた。
「だから、どちらか一方だけを都合よく信じるのは危険よ」
アリアナは言葉に詰まった。
「放蕩者という噂は嘘で、王家の密命だけが本当。そうだったら、アリアナにとって一番嬉しいのよね」
図星を指され、胸が痛んだ。
「悪いことではないわ」
セシリアが優しく言葉を添える。
「好きな人には、信じられる人であってほしいもの。ただ、期待だけで相手の過去を作り替えてしまったら、本当のことを聞いたときに、かえって深く傷つくかもしれないわ」
ユアンの浮ついた過去がすべて任務だったという証拠はない。
それでもアリアナは、そうであってほしいと願わずにはいられなかった。
事件の中で知ったユアンと、社交界で語られる放蕩者が、どうしても同じ人物だと思えない。その違いを埋める答えが王家の密命であるなら、どれほど救われるだろう。
「本人へ聞くしかないのね」
「そういうことよ」
オリビアは三つ目の焼き菓子を手に取り、さも簡単な問題であるかのように頷いた。
アリアナは窓の外へ目を向ける。
夜空には雲がかかり、月の輪郭を曖昧にしていた。
その向こうにあるものを、自分の願いだけで決めつけるわけにはいかない。それでもアリアナは、雲が晴れた先に、自分の信じたい光があることを願っていた。




