33. 自由になった夜
ストーンハーストまで迎えに来た父から、アリアナとオリビアは揃ってこっぴどく叱られた。
「お父様ったら、少しも容赦してくれなかったわね」
長い説教からようやく解放されて旧邸の廊下に出ると、オリビアは耳をさすりながら、心底参ったように大きなため息をついた。
父が怒った理由は、一つや二つではない。
娘たちだけで危険な事件の調査へ加わったこと。工場を守るためとはいえ、敵を欺く危険な策へ身を投じたこと。そして何より、十分な連絡も寄こさず、騒動の渦中へ飛び込んだことだった。
父は二人の姿を目にした瞬間、まず何度も無事を確かめた。だが、その顔へ安堵が広がったのは、ほんの束の間だった。次の瞬間には雷のような怒号が落ち、その声は離れた工場の廊下にまで響き渡った。
「だいたい、ユアン卿まで『僕が彼女たちをそそのかしました』なんて庇うから、余計にお父様の火へ油を注ぐことになったのよ」
「でも、怪我をしたユアン様を長く立たせておけなかったから、お説教は三分の一くらい短くなったと思うわ」
「それはそうね。そこだけは感謝しておくわ」
文句を言いながらも、オリビアの表情にはどこか晴れやかな色が浮かんでいた。
アリアナも同じだった。叱られている最中は今すぐ逃げ出したかったが、あれほど激しく怒られたのは、父が本気で二人の身を案じていたからだ。家族のもとへ無事に戻れたからこそ受けられる小言だと思えば、腹立たしさよりも温かいものが胸へ残った。
その後、父やオリビアとともに、工場内に残された問題の処理へ取りかかった。
事務長ホールの部屋からは、製品を横流ししていた証拠となる偽造帳簿や、裏の取引相手を記した記録が見つかった。さらに、今回の破壊計画へ関与していたことを示す書類まで残されていた。
「この工場を支えてくれている男だと思っていたが、まさか裏で、ここまで工場を食い物にしていたとはな」
父は深く眉間へ皺を刻み、押収された帳簿を睨んでいた。
信頼していた人間に裏切られた痛みは、怒りだけでは表しきれないのだろう。帳簿を持つ父の指には、紙が折れそうなほど力がこもっている。
そんな父にかける言葉も見つからず、アリアナはオリビアと共に黙々と証拠品の整理に没頭した。
ホールに関する証拠の押収が済むと、次に問題となったのは、東倉庫に残された商品の扱いだった。
燃えカスとなったものは処分するしかない。しかし、火災そのものは免れたものの、煤と煙の匂いが染みついた高価な絹織物や上質な綿布が残されている。未開封だった染料は外箱が汚れ、そのまま正規の商品として売り出すことは難しかった。
アリアナは一枚の反物を広げ、指先で手触りを確かめた。
生地そのものは傷んでいない。丁寧に洗浄して染め直せば、十分に使えるはずだ。けれど、アークライト商会の最高級品として顧客へ届けることはできない。
「安全性を確かめて洗浄したあと、ストーンハースト領内の修道院や孤児院へ寄付するのはどうかしら?」
父とオリビアが、同時にアリアナを見る。
「あちらの修道院には縫製や染色を教える作業所があるわ。修道女様たちなら、一度煤がついた布でも濃い色へ染め直して、子供たちの服や寝具へ仕立ててくださるはず。未開封の染料も、作業所で使うくらいなら問題ないと思うの」
「いい考えね。あの方たちの手仕事なら間違いないもの」
オリビアも満足そうに頷き、帳簿へ寄付分の記録を書き加えた。
「売り物にはできなくても、捨ててしまうよりずっといい使い道だわ」
父も反物を確かめてから、ゆっくりと頷く。
「工場の技師に安全を確認させよう。問題がなければ、そのとおりに手配してくれ」
「はい、お父様」
煤でわずかに黒ずんだ綿布と、棚へ並べられた染料を眺めながら、アリアナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
横流しや破壊計画という醜い陰謀に利用されかけた品々が、巡り巡って誰かを温める衣服へ生まれ変わる。まるで、一度途切れかけた工場の未来が、新しい糸によって織り直されていくようだった。
長年工場の内側へ潜んでいた毒を取り除き、ストーンハースト工場に平穏が戻る兆しが見え始めた翌日、アリアナは父やオリビアたちとともに王都へ戻った。
◇
王都では、すでに事件の全容が明らかになり始めていた。
眉に傷のある男と、リディア・ヴェイルを名乗っていた女の供述。ホールが渡した工場の内部情報。ロズウェル家の屋敷から押収された、実行犯への支払い記録。
それらの証拠により、アリアナとユアンの誘拐、そしてアークライト工場への破壊工作が、女性の財産権を認める法案を潰すために、ロズウェル卿率いる強硬な反対派によって企てられたものだと判明した。
事件は連日、社交新聞の紙面を賑わせた。
『世紀の大逆転――夜会の恥と嘲られた二人が、議会を守る盾となった日』
池へ突き落とされた放蕩者と、夜会で醜聞を起こした成り上がり男爵家の令嬢。
つい先日までそのように書き立てられていた二人が、今では議会を揺るがす陰謀を暴いた、勇敢な婚約者同士として持ち上げられている。
世間の評価など、実に勝手なものだとアリアナは少し不満に思った。
それでも、事件によってロズウェル卿をはじめとする強硬派が議会から排除され、法案の採決は予定どおり行われた。
既婚女性の財産権および離婚請求権を拡大する法案は、わずか数票差で可決された。
強硬な反対派が取り除かれた以上、もっと余裕を持って可決されるものだとアリアナは考えていた。だが、ロズウェル卿の陰謀へ加担していなかった議員の中にも、女性が独自の財産と権利を持つことへ抵抗を示す者は多かったらしい。
この国の意識は、一つの事件だけで簡単に変わるものではない。
それでも、確かな一歩を踏み出したことに変わりはなかった。
あのとき、諦めずに動いて本当によかった。
王都の男爵邸へ戻ったアリアナは、自室のテーブルへ広げていた新聞を静かに畳んだ。
窓からは穏やかな陽光が差し込み、遠くから王都の賑わいが聞こえてくる。悪夢のように激しかった日々が嘘のように、屋敷には平穏な時間が戻っていた。
けれど、アリアナの胸には、事件を解決した達成感とは別の引っかかりが残されている。
ストーンハーストでユアンと交わした言葉。そして、形ばかりのはずだった婚約の行方。
世間は二人を、偉業を成し遂げた勇敢な婚約者として祝福している。両家もまた、このまま本当の婚姻へ話を進めたいと考えているようだった。すでに受け取ってしまった祝い品の問題もある。
問題は、ユアンと一緒にいると、つい彼の言葉を信じそうになることだ。仕事も、財産も、未来も、アリアナ自身のものだと認めてくれた。命の危険が迫れば身体を張って守り、それでいて、彼女の決断を奪おうとはしなかった。
しかし、頼もしく誠実な一面を知ったからといって、彼が社交界を数々の浮名で賑わせてきた事実まで消えるわけではない。
女性の敵と呼ばれてきた男と、本当に生涯をともにしてよいのだろうか。
心を溶かすような微笑みと甘い言葉に毒気を抜かれ、まんまと流されそうになっているだけではないのか。
ストーンハーストから戻り、慣れ親しんだ生活へ馴染めば馴染むほど、アリアナの中で警戒心が膨らんでいった。危険の中で生まれた高揚を、恋だと思い違えている可能性だってあるからだ。
法案が成立した今、アリアナには婚約を解消する自由がある。
待ち望んでいたはずの自由なのに、それを行使する場面を想像すると、胸の奥が重く沈んだ。
◇
女性の権利に関する法案について、国王の裁可が下りた夜、アークライト邸では家族だけのささやかな祝宴が開かれた。
「これでセシリアも、正式に離縁を申し立てられる」
父ベンジャミンは、王室から届いた裁可書の写しをテーブルへ置いた。
「持参金の返還と、生まれてくる子供の養育についても、すでに弁護士へ手続きを進めさせている。すぐにすべてが解決するわけではないが、伯爵家の言いなりになる必要はなくなったということだ」
母は何も言わず、隣に座るセシリアの手を握った。
夫の屋敷を離れ、正式に実家へ戻ることを決めたセシリアの顔には、まだ深い疲労が残っている。それでも、夫のもとにいた頃より、頬へわずかに血色が戻っていた。
アリアナは、詳しい事情をまだ姉から聞いていない。ただ、「離縁することにした」と短く報告されただけだ。しかし、セシリアについて話すときの両親の硬い表情と、姉のやつれた姿を見れば、決して容易な決断ではなかったことくらい想像できた。
「ありがとう、お父様、お母様」
セシリアが頭を下げると、細い声が微かに震えた。
「私……本当に、身勝手なことばかりで……」
「馬鹿を言うな」
父のベンジャミンは怒鳴るわけでもなく、静かに、けれど強い響きを込めて言葉を遮った。
「娘が傷つき、苦しんでいるのを黙って見過ごす親がどこにいる。お前が踏み出すと決めたのなら、我が家は全力でそれを支えるだけだ。むしろもっと早く、お前を連れ戻すべきだった」
父の声が詰まる。
セシリアは静かに首を横へ振り、母に握られた手へ、もう片方の手を重ねた。
「これからのことを、自分で決められる。それだけで十分です」
その言葉を聞いた途端、アリアナの胸が熱くなった。
逃げる場所などないと諦めていた姉が、ようやく自分の人生を自分で選べるようになる。
父とストーンハースト侯爵が守ろうとしていたのは、法律の条文だけではない。セシリアのように、声を上げることさえ許されなかった女性たちの人生だったのだ。
「本当に、よかったわ」
アリアナが声を漏らすと、セシリアは柔らかく微笑んだ。
「ええ。それに、二人にもお礼を言わなくてはね」
「やめてよ。私はデレクと仲良く旅行をしていただけだもの」
オリビアが少し気まずそうに肩をすくめると、セシリアはふふっと小さく笑い声を漏らした。
「そんなわけないでしょう? あなたがどれほど心配して動き回ってくれていたか、お母様から聞いたわ。……アリアナも、本当にありがとう」
「嫌だ、お姉様。私は何もしていないわ」
「汽車から飛び降り、工場の火を消して、犯人まで捕まえたのでしょう?」
「改めて並べられると、私も少し無茶をしたような気がしてきたわ……」
「少しどころではないわよ」
オリビアが呆れたように口を挟んだ。
「ユアン卿と二人で森へ消えたと聞かされた、私の気持ちも考えてちょうだい。無事に見つかったと思えば、今度は工場で抱き合っていたなんて、呑気すぎるわ」
「抱き合っていないわ!」
アリアナは椅子から跳ね上がりそうな勢いで否定した。頬へ一気に熱が集まり、耳の先まで赤くなっていくのが自分でも分かる。
「あれは、怪我をしたユアン様を支えていただけよ。救護室へ連れていく途中で肩を貸しただけで、やましいことなんて何もないわ」
「あら。でも、目撃した人たちは『アリアナお嬢様がユアン卿を力強く抱きしめて、愛を確かめあっていた』って証言していたそうよ?」
「尾ひれがつきすぎているわ!」
オリビアが悪戯っぽく笑う。その隣では母まで口元へ手を添え、小さく肩を揺らしていた。
父だけは気まずそうに唸り、逃げるようにワイングラスへ手を伸ばす。
「本当に、抱き合ってなんていません。怪我人を支えていただけです」
「そういうことにしておいてあげるわ」
「セシリアお姉様まで!」
セシリアの穏やかな笑い声が、家族の集う食堂へ広がった。
アリアナが王都へ移り住んで以来、家族がこれほど心安らかに笑い合った夜は、ほとんどなかったかもしれない。
姉が自分の人生を取り戻し、工場の危機も去った。すべてが望んだ方向へ動き始めている。
それなのに、アリアナの胸には小さな棘が刺さったままだった。




