32. 帰りたかった場所
昼を過ぎる頃には、工場内の混乱も落ち着きを取り戻していた。
ユアンは医師から外出を止められていたが、短時間なら歩いてもよいという許可を無理やり取りつけたらしい。杖を手に旧邸へ現れ、当然のようにアリアナへ迫った。
「約束を果たしてもらいに来たよ」
「約束?」
「君の好きだった場所を案内してくれるんだろう?」
「怪我人が出歩くものではありません」
「医師から許可はもらった」
「無理やりでしょう?」
「交渉の結果だよ」
アリアナが疑いの目を向けても、ユアンは涼しい顔で微笑んでいる。困ったもので、そんな強引さすら、少し嬉しく感じてしまう自分がいた。
結局、遠出をしないことを条件に、二人で町を歩くことになった。
アリアナが選んだのは、工場から麦畑を抜け、牧草地の間を通る古い道だった。
十年前より家が増え、道も広くなっている。それでも、風に揺れる麦穂や、遠くで草を食む羊の姿は記憶にある景色と変わらない。
「ここを、よく通ったの?」
「ええ。丘の向こうに牧場があるんです。子供の頃は、毎日のように遊びに行っていました」
「幼馴染の彼に会うため?」
何気ない口調だったが、杖を握る手へ少しだけ力が入ったのを、アリアナは見逃さなかった。
この場所がそうさせたのか、今回ばかりは、素直になってみようと思えた。
「気になるのですか?」
「婚約者としてはね」
「偽装ですけれど」
「それを毎回つけ加えなくてもいいんじゃないかな」
「大切なことです」
「僕にとっては、忘れたいことだよ」
そう告げる横顔からは、いつもの笑みが消えていた。
事件は解決し、法案の採決も予定どおり行われる。法案が成立すれば、約束どおり婚約を解消できる。
自由になれるはずなのに、その日が近づいていると考えるだけで、胸の奥がざわざわする。
もしかしたら、ユアンも同じ気持ちなのだろうか。
隣を歩く彼をそっと窺う。視線に気づいているはずなのに、ユアンは何も言わず前を向いたままだった。
横顔に落ちる午後の光が、彼の輪郭をやわらかく縁取っている。それにしても、やっぱり綺麗な人だと思う。こんな顔で微笑まれれば、女性たちが放っておかないのも仕方がない。現に自分だって、その一人なのだから。
ただし、今与えてくれるこの優しさは、事件を解決するために交わしている、期限つきの甘い言葉に過ぎない。ユアンにとって、アリアナはどうせその他大勢のひとりに過ぎない。
恋愛の沼に引きずり込まれまいと、その縁でかろうじて踏みとどまるたび、冷ややかな思考が胸をかすめる。
それでも、どこかで彼を信じたいと願う気持ちを捨てきれない。
揺れ動くふたつの感情の狭間で、アリアナの心は終始落ち着かなかった。
考えごとをしているうちに、しばらく二人とも無言のまま歩いていたらしい。ふと隣を見ると、ユアンが足を止めていた。
「疲れたのですか?」
「少しだけ」
「でしたら、あの木陰で休みましょう」
道沿いの大きな楡の木へ向かい、二人は根元に置かれた古い長椅子へ腰を下ろした。
ユアンの顔色を確かめようと覗き込むと、逆に真っ直ぐ見つめ返される。
「近いですよ」
「君から近づいてきたんだ」
「顔色を見ただけです」
「それで、診察の結果は?」
「少し青白いです。工場へ戻ったほうがいいかもしれません」
「君と歩けなくなるなら、急に元気になった気がする」
「ほんとに?」
「本当だよ」
「では、もう少しだけですからね」
「優しいな、僕の婚約者は」
「怪我人にだけです」
口では突き放しながらも、アリアナは彼の脇腹を気にして、身体を支えられる距離へ座り直した。
肩がかすかに触れ合う。
離れようと思えば、いくらでも離れられた。それでもユアンは距離を詰めず、アリアナもまた、触れた肩を動かさなかった。
「すごく静かな場所だね」
「退屈でしょう?」
「君がいるから退屈ではないよ」
「そういうことを、すぐに言うんだから」
「本当のことなのに」
ユアンの声は穏やかだった。その声を聞いていると、胸の奥のざわめきが少し凪いでいく。
風が麦畑を渡り、金色の穂を波のように揺らしていく。遠くから牛の鳴き声と、荷馬車の車輪が土を踏む音が聞こえてきた。
やがて一台の荷馬車が通り過ぎようとしたその時、御者台の青年がアリアナの姿に気づいたように手綱を引いた。慌てたように馬車が速度を落とし、静かに止まる。
御者台に座る青年に、アリアナは目を見張った。
日に焼けた肌に、少し癖のある栗色の髪。かつての記憶よりずっと肩幅は広くなり、頬の輪郭も精悍な大人の男のものへと変わっている。
けれど、驚いた拍子に大きく見開かれた榛色の瞳だけは、一緒に駆け回っていたあの頃のままで、アリアナの胸の奥に、懐かしい記憶の温もりが一気に蘇っていた。
「アリアナ?」
十年間、何度も聞きたいと願っていた声だった。
「お久しぶりね、サイモン」
長椅子から立ち上がり名を呼ぶと、青年の顔へ懐かしい笑みが広がる。
「本当にアリアナなのか? 戻ってきたって、工場の連中が話していたけど……」
「昨日、着いたの」
「ずっと会いたかった。おかえり、アリアナ」
夢にまで見た言葉が飛び出し、胸が温かくなる。
ところが、想像していたような激しい高鳴りは、いつまで経っても訪れなかった。
これまでアリアナは、彼を見ただけで十年間の空白が消え、昔の自分へ戻れるのだと思っていた。実際、目の前にいるサイモンは、懐かしく、大切な人であることに変わりはない。それでも彼は、ずっと大事にしまい込んでいた記憶の中の少年ではなかった。
アリアナもまた、十年前の少女ではない。
そんな当たり前すぎる事実に、今さら気付く。
「私も会いたかったわ」
微笑むと、サイモンは嬉しそうに荷馬車を降りた。
手綱を結ぶ左手の薬指に嵌められた銀色の指輪が、陽光を受けて輝く。
アリアナの視線に気づいたのか、サイモンが照れくさそうに指輪へ触れる。
「三年前に結婚したんだ。手紙で知らせようと思ったんだけど、王都にいる男爵令嬢になった君へ、どんなふうに書けばいいのか分からなくて」
「そうだったんだ」
胸の奥へ、針を刺されたような痛みが走った。
けれど、それは恋する相手を失った絶望とは少し違っていた。自分だけが大切に抱えていた過去へ、静かに終わりを告げられた寂しさに近い。
そのとき、荷馬車の奥から幼い声が聞こえた。
「お父さん、だあれ?」
積まれた籠の陰から、小さな女の子が顔を覗かせる。サイモンと同じ栗色の髪を二つに結び、丸い瞳でアリアナたちを見つめていた。
「昔からの友達だよ。あ、でも」
サイモンは罰が悪そうに、頭を掻いた。
「こちらの方は、アークライト男爵家のアリアナお嬢様だよ」
サイモンが言い直した瞬間、アリアナの胸の中で何かが小さく、けれど確実にはじけた。
「ほら、おいで」
優しい表情になった彼は、娘を荷馬車から抱き下ろす。
「娘のリリーだ。妻は今、二人目の子を身ごもっていてね。今日は代わりに、この子を連れて配達へ来たんだ」
「初めまして、リリー」
アリアナが腰を屈めて微笑むと、少女は父親の脚へ隠れながらも、小さく頭を下げた。
「昔、あなたのお父さんとしょっちゅう泥だらけになって遊んでいた、お友達よ」
「おともだち……?」
リリーが丸い瞳をさらに大きくして呟いたので、アリアナは「そうよ」と微笑みかけた。
「じゃあ、そのきれいなお兄ちゃんも、おともだち?」
リリーの視線がユアンへ向けられる。
アリアナが答えるより先に、ユアンは長椅子から立ち上がった。
「ユアン・ウィリンガムです」
「ウィリンガム……」
この地を治める侯爵家の名に気づき、サイモンの表情が緊張する。
ユアンは杖をつきながらも、いつもの優雅さを崩さず、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「アリアナの婚約者です」
その言葉が、アリアナの胸へ静かに落ちた。
契約上の関係を説明しようと思えば、できたはずだった。ところがサイモンを前にしても、偽りの婚約だと否定する言葉は、出てこなかった。
「そうか。婚約したんだ」
サイモンは一瞬驚いたあと、心から嬉しそうに笑った。
「おめでとう、アリアナお嬢様」
「ありがとう」
自然と返事が口からこぼれた。隣でユアンが小さく息を呑む気配がしたものの、そちらを見ることができなかった。
「君なら、きっと幸せになると思っていた」
「サイモンも、幸せそうね」
「ああ。忙しいけど、毎日楽しいよ」
その表情に、嘘はなかった。
幼い頃の面影を残しながらも、彼はアリアナの知らない十年間を歩き、自分の居場所と大切な家族を手に入れていた。
寂しさはある。それでも、彼が幸せであることを、心から嬉しいと思えた。
その気持ちに気づいた瞬間、アリアナはようやく理解した。
自分が恋しく思っていたのは、今のサイモンではなかったのだ。
工場の裏庭で遊び、牧場を駆け回った楽しい思い出。貴族社会の冷たさも、家の期待も知らなかった頃の自由な自分。そのすべてがサイモンという人へ結びつき、彼のもとへ帰れば昔の生活を取り戻せると、ずっと思い込んでいた。
けれど、過去へ帰ることはできない。
帰る場所は、これから自分で選ぶものなのだ。
「今度、妻にも会って欲しいな。君の話は何度もしているんだ」
「ええ。ぜひ紹介して」
再会を約束すると、サイモンはリリーを抱え、再び荷馬車へ乗り込んだ。
「あ、いまさらだけど。結婚おめでとう」
「まだ、先の話だけど。でも、ありがとう」
「なに言ってんだよ。婚約したってことは、結婚するんだろ? 絶対、幸せになれよ」
少し照れた様子のサイモンが手綱を握り、ガラガラと車輪の音を響かせながら荷馬車がゆっくりと動き出す。
「良い一日を!」
アリアナは去っていく馬車に声をかける。
「おう」
「バイバーイ」
リリーが小さな手を振り、アリアナも振り返す。荷馬車が麦畑の向こうへ消えるまで見送り、ようやく長く息を吐いた。
「大丈夫?」
隣から尋ねる声は、驚くほど優しかった。
「ええ。少し寂しいですけれど、大丈夫です」
「無理をしなくてもいいよ」
「無理はしていません。ただ、ようやく分かったんです」
「何が?」
「私は彼に会いたかったのではなく、昔の自分へ戻りたかったのかもしれません」
ユアンは何も否定せず、静かに続きを待っていた。その静けさが、アリアナの言葉を急かさず、ゆっくりと形にしていくための余白をくれる。
「でも、戻れない。サイモンも私も、もうあの頃の子供ではないもの」
「戻れないことを、後悔しているの?」
しばらく考えたあと、小さく首を横へ振った。
「いいえ。だって、王都へ行かなければ、あなたとは出会わなかったでしょう?」
口にした途端、ユアンの瞳が大きく揺れた。
その姿を見て、自分が何を言ったのかに気づき、慌てて視線を逸らす。頬にじわりと熱が集まってくるのを感じながら、必死で言葉を継ぎ足した。
「今のは、深い意味ではありません」
「それは無理があるんじゃないかな」
「事件を解決するうえで、あなたとの出会いが必要だったという意味です」
「僕は、事件がなくても君と出会いたかったけどな」
逃げるように逸らした視線の先へ、ユアンが静かに回り込む。彼の顔がふっと近づき、逃げ場を塞ぐように、けれど強引にはならない絶妙な距離で止まった。
「あの夜会に参加しなくても、池へ落とされなくても、僕はどこかで君を見つけたかったと思っている」
真剣な声音に、アリアナの心臓が大きく跳ねた。
「そんなこと、今だから言えるんです」
「そうだね。それでも、今の僕がそう願っていることだけは本当だよ」
ユアンは手を差し出した。
いつものように、アリアナが選ぶのを待っている。
数日前まで、サイモンのそばへ帰ることだけを夢見ていた。この故郷へユアンと並んで立つ未来など、想像したこともなかった。
けれど今、アリアナが手を伸ばしたいと思ったのは、目の前にいる男性だった。
ユアンの手へ自分の手を重ねる。
「工場へ戻りましょう。お医者様に叱られる前に」
「もう少し、君と歩きたい」
「傷が治ったら、いくらでも案内します」
「それは、次の約束だと思っていい?」
「ええ。次の約束よ」
ユアンの指が、確かめるようにアリアナの指へ絡む。しっかりと握られたその手のひらから伝わる体温が、麦畑を渡る風よりもずっと近くで、アリアナの心を温めていた。
二人は麦畑の間を通る道を、来たときよりもゆっくりと歩き始めた。
帰りたかった場所は、過去の中にあるのではない。
隣を歩く人とともに、これから作っていくものなのかもしれない。
そんな気付きを得たアリアナは、かつてないほど穏やかな気持ちでユアンの隣を歩くのだった。




