31. 姉の温もり
事件が収束した翌朝、アリアナは工場に隣接する旧邸の一室で目を覚ました。
アークライト家が王都へ移り住むまで暮らしていた家であり、現在は商会から派遣された者たちの宿泊所として使われている。かつて自分の寝室だった部屋には見覚えのない家具が置かれていたが、窓の位置も、朝日が差し込む角度も、十年前と変わっていなかった。
顔を洗い、昨夜のうちに泥を落としてもらった仕事着へ袖を通す。膝や袖口には落としきれない染みが残り、ジャケットの一部は擦り切れていたが、裾の長いドレスよりも、今のアリアナには落ち着く装いだった。
窓を開けると、冷たい風とともに、機械油と綿糸の混じった空気が流れ込んでくる。遠くでは始業を知らせる鐘が鳴り、工場へ向かう職人たちの声が聞こえていた。
昨日火災に遭った東倉庫では、すでに片づけが始まっている。商品の損害は大きかったものの、建物と織機は無事だった。負傷者も出ていない。
法案を潰すための一連の計画を企てたロズウェル卿は拘束され、王都の屋敷からは実行犯への支払いを記した帳簿も見つかったという。夜会でワインレッドのドレスを着ていた女をはじめ、関係者への取り調べも始まっている。
もう、工場が襲われる心配はない。
「本当に終わったのね」
口にしてみても、まだ実感が湧かなかった。
わずか数日前まで、アリアナの悩みといえば、気乗りのしない夜会で母が紹介してくる男性を、いかに失礼のないようにかわすかという程度だった。
それが今では、悪名高い侯爵令息と偽装婚約を結び、走る汽車から飛び降り、工場へ火を放とうとした男を荷役用の網で捕らえたのである。
人生は、どこで思いがけない方向へ転がるか分からない。
もっとも、それらをすべて不幸な出来事だったと言い切れないことが、今のアリアナをいっそう悩ませていた。
無意識に指先が唇へ触れかけた、そのときだった。
扉が勢いよく開く。
「アリアナ!」
室内へ飛び込んできたオリビアに抱きしめられ、息を詰めた。
「オリビアお姉様、苦しいわ」
「これくらい我慢して!」
震えを帯びた声に気づき、アリアナは言い返すのをやめた。
いつも身なりへ人一倍気を配るオリビアは、王都を発つ際、深い紅茶色の旅行用ドレスをまとっていた。落ち着いた色合いながら、腰には細い飾り紐を結び、襟元には繊細なレースをあしらった、姉らしい洒落た装いだったはずだ。
そのドレスは今、見る影もないほど汚れていた。
裾には乾いた泥がこびりつき、右袖には黒い煤が残っている。腰の飾り紐はほどけかけ、丁寧に巻かれていた髪も崩れ、何本もの後れ毛が頬へ張りついていた。
何より、目元が赤い。
アリアナたちを乗せずに汽車が動き始めてから、オリビアがどのような夜を過ごしたのか。その姿を見ただけで、聞かなくても分かる気がした。
「姉様こそ、どうしたの。そのドレス……」
「ドレスなんて、どうでもいいのよ」
オリビアがそんなことを言うのを、初めて聞いた。
姉の腕から力が緩む。けれど身体を離す代わりに、オリビアはアリアナの頬を両手で包み、額や肩へ傷がないか忙しなく確かめ始めた。
「顔は無事ね。頭は打っていない? 腕は動く? 足はある? どこか痛いところは?」
「少し擦りむいただけよ。大きな怪我はしていないわ」
「本当に?」
「本当よ。お姉様こそ、手を見せて」
アリアナはオリビアの手を取り、裏返した。掌には薄い擦り傷があり、爪の間には黒い汚れが入り込んでいる。
「これ、どうしたの?」
「捜索隊へ持たせる荷物を運ぶときに、木箱で擦っただけ。大したことじゃないわ」
「お姉様が木箱を運んだの?」
「人手が足りなかったんだから、仕方がないでしょう」
平然と答えようとしているものの、オリビアの唇はかすかに震えていた。
「あなたたちを置いたまま汽車が動き出したあと、次の駅へ着くまで何もできなかったの。窓の外は真っ暗で、どこで飛び降りたのかも分からなくて……」
その先を口にしようとして、声が途切れる。
アリアナの頬を包んでいた指が震え、オリビアの瞳へ涙がにじんだ。
「もし、あなたが帰ってこなかったらって、ずっと考えていたわ」
「お姉様……」
「私が一緒に行くと言ったのに、守るどころか置いていかれて。本当に腹が立ったのよ。あなたにも、ユアン卿にも、それから何もできない自分にも」
「ごめんなさい」
「謝らないで。無事に帰ってきたのなら、それでいいから」
オリビアはアリアナの額へ自分の額を重ね、確かめるように目を閉じた。
幼い頃、アリアナが工場の裏庭で転び、膝を擦りむいたときも、オリビアはこうして泣きながら抱きしめてくれた。いつもの調子でアリアナをからかいながらも、必死になって傷を洗い、母を呼びに走ってくれた記憶が鮮明に蘇る。
十年が経ち、二人を取り巻くものがどれほど変わっても、姉の腕の温かさだけは変わっていなかった。
アリアナもオリビアの背中へ腕を回し、汚れた旅行着ごと強く抱きしめる。
「お姉様も無事でよかった」
「私は汽車から飛び降りたりしていないもの」
「それでもよ。お姉様やデレクさんがどうなったのか、私もずっと心配していたわ」
どこか後ろめたさを抱えながら、小さく息を吐く。
姉のためについた嘘であって、本当でもあった。
正直、ユアンの傷や工場爆破の危険が迫る中、常に姉の無事を祈っていたわけではない。それでも、姉が無事でいてほしいという想い自体に嘘偽りはなかった。
「嘘つき」
思わず肩をビクリとさせると、アリアナを抱きしめるオリビアの腕に力が籠もる。
「でもあなたのそれは、優しい嘘だから許してあげる」
「ありがとう、オリビアお姉様」
互いの体温と鼓動を確かめるように、しばらく抱き合った。
やがてオリビアは鼻をすすり、アリアナの肩から顔を上げる。涙を指先で拭ったあと、いつもの勝ち気な光を瞳へ戻した。
「とにかく、次に汽車から飛び降りるときは、先に私へ相談しなさい」
「相談したら許してくれるの?」
「許すも何も、私も一緒に飛ぶためよ」
「じゃあ、絶対に相談しない」
いつもの調子が戻ってきたことに安堵し、アリアナは小さく笑った。
開いた扉のそばには、革の鞄を抱えたデレクが立っている。姉妹が落ち着くまで、声をかけずに待っていてくれたらしい。
「本当にご無事でよかったです」
ようやく口を開いたデレクの声にも、深い安堵がにじんでいた。
「お二人が汽車から飛び降りたと聞いたときは、もう駄目かと思いました。オリビア様は次の駅へ到着するなり駅員室へ乗り込んで、侯爵家へ連絡を取るよう迫って……」
「迫ったのではなく、迅速な対応をお願いしただけよ」
「あまりの剣幕に、駅長が泣きそうな顔をしていましたよ」
「泣かせてはいないわ」
「胸倉を掴みかけていましたけれど」
「掴んでいないなら問題ないでしょう?」
反省の色など微塵もないオリビアを見て、アリアナは思わず吹き出した。
「お父様にも電報を送ったの?」
「もちろんよ。事件が解決したことも知らせたわ。『すぐに迎えに行く』という返事が来たから、今日中にはこちらへ着くんじゃないかしら」
「うわぁ……」
父と顔を合わせたら、どれほど叱られるだろう。
アリアナが密かに覚悟を決めていると、オリビアの目が意味ありげに細められた。
「それで、ユアン卿は?」
「侯爵家から来たお医者様に診てもらっています」
「そうではなくて、二人の仲はどうなったの?」
「どうもなっていないわ」
「デレク。嘘をついている人間は、どんな顔をするか覚えておいて。何なら、今のアリアナを描きとめておいてくれてもいいのよ」
「僕を巻き込まないでください」
デレクは困ったように視線を逸らしたものの、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「ユアン様とは、本当に何もないわ」
「そう。では、私が入ってきたとき、どうして唇へ触れていたの?」
「これは、乾燥していただけよ」
「ずいぶんと都合のよい乾燥ね。汽車から飛び降りると、唇だけが乾くのかしら?」
「森を抜ける時、風が冷たかったの!」
「ユアン卿が温めてくださったのではなくて?」
「お姉様!」
顔へ熱が集まり、アリアナは声を上げた。
姉妹の中で一番目ざといオリビアのことだ。これ以上話せば、庭の小部屋で交わした口づけどころか、羊飼い小屋で触れ合った手の熱まで見抜かれそうだった。
「それより、デレクさんの似顔絵が役に立ちました」
アリアナは強引に話題を変えた。
「眉に傷のある男を見つけられたのは、デレクさんのおかげです。本当にありがとうございました」
「僕は、見たものを描いただけです」
デレクは照れたように頬を染める。
「犯人を見つけたのも、工場を守ったのもアリアナ様です。でも、僕の絵が少しでもお役に立てたのなら、これ以上嬉しいことはありません」
「少しどころではありませんわ。あなたの絵がなければ、犯人へ辿り着けなかったし」
「聞いた、デレク? あなたはもっと自信を持つべきなのよ」
オリビアが本人以上に胸を張った。
「王都へ戻ったら、今回の功績を社交新聞へ売り込んであげる。『顔だけの貧乏画家、凶悪犯逮捕に貢献』という見出しはどうかしら」
「オリビア様、僕は静かに絵を描いていたいです」
「そこを遠慮するから、いつまでも貧乏なのよ」
「貧乏のままでも、どうにか食べていけています。それに――」
デレクは一度言葉を切り、オリビアへ柔らかな眼差しを向けた。
「僕のミューズであるオリビア様がそばにいてくださるなら、それだけで僕は幸せですから」
オリビアの動きが止まった。
いつもなら周囲を振り回してばかりの姉が、目を見開いたまま言葉を失っている。やがて頬から耳まで鮮やかに赤くなり、慌てたようにアリアナを振り返った。
「聞いた?」
「聞いたわ」
「今の言葉、忘れないで。何ならデレクに紙へ書かせて、署名もさせましょう」
「僕の気持ちを契約書にしないでください」
「だって、あとから言っていないなんて言われたら困るでしょう? こういう時、セシリアお姉様なら、すぐにあなたにペンと紙を渡して書かせると思うし」
「確かに」
自分のことは我慢するくせに、妹達には妙に過保護になるセシリアの顔が思い浮かび、アリアナは苦笑交じりに頷いた。
「言いませんよ。紙に書くまでもなく、一生かけて証明してみせます」
デレクがきっぱり宣言する。
「本当に?」
「本当です」
デレクが笑い、オリビアは照れ隠しのように彼の腕へ自分の腕を絡めた。泥と煤で汚れたドレスのまま、それでも誇らしげに胸を張っている。
「それなら、新聞の見出しを変えないとね。『顔も才能もある画家、男爵家令嬢の献身によってついに大成』はどう?」
「結局、新聞には載せるんですね」
「もちろんよ。私の見る目が正しかったと、王都中へ知らせなくてはならないもの」
「事件の功績はどこへ行ったの?」
アリアナの指摘に、オリビアは悪びれもせず笑った。
「生臭い事件より、愛の物語の方が、ずっと読者受けがいいに決まっているじゃない」
少し前まで涙を浮かべていた姉が、すっかりいつもの調子に戻ったのを眺め、張り詰めていたアリアナの胸もようやくほどけていく。
事件は本当に終わったのだ。
大切な人たちは無事で、またこうして笑い合えている。
アリアナは十年ぶりに戻った懐かしい部屋で、ようやく心から笑うことができた。




