30. 縫い目に隠された証拠
工場長室へ入ると、捕らえられた女が椅子へ座らされていた。
夜会で見た艶やかなワインレッドのドレスとは違い、今は灰色の旅行着をまとい、髪も簡素にまとめている。それでも、唇の左端にある小さなほくろと、こちらを見上げる挑戦的な目は、デレクが描いた似顔絵そのものだった。
「リディア・ヴェイル」
ユアンが名を呼ぶと、女は薄く笑った。
「それは仕立店で使った名前です。本名だと思っていらしたの?」
「では、本名を聞かせてもらおうか」
「言う必要があるかしら」
リディアと名乗った女は、捕らえられた状況でも少しも取り乱していない。
「こちらが押収した品です」
騎兵隊の隊長が、机の上へ彼女の所持品を並べた。財布、化粧道具、小型のナイフ、予備の切符、名前の記されていない鍵が三本。偽造した身分証も何枚かあったが、雇い主へ繋がる証拠は見つからなかったらしい。
「揚水場で何をしていたのですか?」
アリアナが尋ねると、女はつまらなそうに肩をすくめた。
「昔の建物を見るのが趣味なのよ」
「眉に傷のある男が、同じ場所を合流地点として記した地図を持っていました」
「知らない男ね」
「夜会でも一緒だったでしょう?」
「大勢の方がいらしたから、覚えていないわ」
どれほど問いかけても、女は知らぬ存ぜぬを通すつもりらしい。
アリアナは黙ったまま、女の姿を観察した。
身につけている灰色の旅行着は、身体を締めつけない実用的な作りで、裾も夜会用のドレスより短い。仕立てそのものは上等だが、逃亡に備えたためか、目立つ装飾はほとんど施されていなかった。
それでも、腰から左裾にかけての線だけが不自然に膨らんでいる。
手袋や財布、旅行鞄はすでに取り上げられていた。しかし、スカートの左側は右側よりも重く垂れ、女が身じろぎするたびに裾の揺れがわずかに遅れている。
「彼女の衣服は、すべて調べたのですか?」
アリアナが尋ねると、騎兵隊の兵士は気まずそうに視線を逸らした。
「手荷物と上着、外側のポケットは確認しました。しかし、我々は全員男です。婦人の身体や衣服の内側へ、不用意に触れるわけにはまいりませんので」
「外側を調べるだけでも、十分にいやらしく触られたわ」
女は吐き捨てるように言い、兵士たちを睨み回した。
「散々触っておいて、今さら紳士のふりをするなんて。それらしい理由をつけて女の身体をまさぐるのが、ストーンハースト領では騎兵隊のお仕事らしいって言いふらしてやるわ」
兵士の表情が強張った。
女は捕らえられた直後から、男性に身体を触れられたと騒ぎ立てていたのだろう。下手に調べれば、騎兵隊が女性へ不埒な真似をしたと訴えられかねない。兵士たちが踏み込んだ捜索を躊躇したことまで、女の計算だった可能性がある。
「その服を、もう一度調べさせてください」
アリアナの言葉に、女の目が初めて鋭くなった。
「今の話を聞いていなかったの? 男たちに触られるのは、もうたくさんよ」
「それほど男性に触れられるのがお嫌なら、私が調べます」
アリアナが一歩前へ出ると、女の表情からわずかに余裕が消えた。
「あなたが?」
「私は女性です。まさか、それでも不都合があるとは仰いませんよね?」
「男爵令嬢が、囚人の身体を探るつもり?」
「あなたの身体ではなく、服を調べるだけです。私は布と縫い目を見ることには慣れていますから」
アリアナがさらに近づこうとすると、ユアンの手が行く手を遮った。
「待って。武器を隠している可能性もある」
「両手は拘束されています。それに、何かあれば、あなたが助けてくださるのでしょう?」
「もちろんだ。だからこそ、君を近づけたくないんだけれど」
「それでは、いつまで経っても調べられません。この場にいる女性は、こちらの調べられたくないと主張する婦人と、調べたい私しかいませんわ」
アリアナが譲らずに見返すと、ユアンは短く息を吐いた。
「分かった。ただし、僕の手が届く場所から離れないで」
「最初から、そのつもりです」
ユアンは完全には納得していない様子だったが、アリアナのすぐ後ろへ位置を移した。何かあれば、すぐに引き寄せられる距離である。
兵士たちが女の拘束を確かめるのを待ち、アリアナはその前へ膝をついた。
「失礼します」
返事を待たず、スカートの布へ指を滑らせる。
灰色の表地は上質な梳毛織だった。旅に向いた丈夫な生地だが、左側だけ、布の落ち方が妙に硬い。腰から裾へ向かって手のひらを移動させると、裏側に細長い何かが隠されている感触があった。
探り当てると、女の身体が強張る。
「触らないで」
「外側のポケットだけを調べれば十分だと思わせて、ここへ隠したのね」
「何を言っているのか分からないわ」
アリアナはスカートの左裾を持ち上げ、裏地との境目へ目を凝らした。
「ここの縫い目だけ、糸の色が違います。とてもよく似た色を選んでいるけれど、元の糸よりわずかに青みが強い。それに、針目の間隔も揃っていません」
指先で縫い目を辿りながら、腰の辺りまで確かめる。
「仕立てたときからあった縫い目ではないわ。一度裏地を開き、何かを入れてから縫い直したのでしょう?」
女の唇から、完全に笑みが消えた。
「裁縫鋏を」
アリアナが手を差し出すと、兵士が戸惑ったように周囲を見回した。
「持っていないなら、私のものを使います」
仕事着のポケットから、小さな裁縫鋏を取り出す。羊飼い小屋でユアンのシャツの縫い目を解いたときと同じものだった。
「本当に、それ、便利だね」
背後から聞こえたユアンの声に、アリアナは振り返らずに答える。
「ユアン様のピンと同じですね」
「まあね。ただ僕のピンよりは、正しい使い方をしているみたいだけどね」
ユアンがくすりと笑う。その間にも、アリアナは鋏の先を糸と布の間へ慎重に差し入れ、裏地を傷つけないよう、縫い糸だけを一本ずつ切っていく。
「人の服を剥ぐなんて、趣味が悪いわ」
女の声から余裕が失われたが、手を止めなかった。最後の糸を切り、裏地を開くと、裾の折り返しに沿って細長い袋が縫いつけられていた。
中へ指を入れ、油紙に包まれた薄い帳面を引き出す。
「返しなさい!」
女が初めて声を荒らげ、拘束された手を振り回しながら立ち上がろうとした。
すぐにユアンがアリアナの肩を抱いて後ろへ引き、兵士たちが女を椅子へ押さえ戻す。
「騒ぐな」
「それは私のものよ! 返しなさい!」
女が暴れるほど、帳面が重要な証拠であることを自ら認めているようなものだった。
「怪我は?」
ユアンがアリアナの顔を覗き込む。
「大丈夫です。それより、帳面を」
肩へ添えられた手の熱を意識しないよう努めながら、アリアナは油紙を慎重に解いた。
中には、暗号めいた記号と数字が並んでいる。日付、支払われた金額、いくつもの人名の頭文字。アークライト家で夜会が開かれた日付の欄には、眉に傷のある男へ渡されたであろう金貨の額が記されていた。
「まだ何か入っています」
先ほど開いた裏地の中を、アリアナはもう一度確かめた。指先へ紙の角が触れる。
取り出したのは、小さく折り畳まれた一枚の指示書だった。
そこには、アリアナとユアンの誘拐に失敗した場合、直ちにアークライト家のストーンハースト工場の破壊へ切り替えるよう記されている。
末尾に署名はなかった。
しかし、開封された紙の端には赤い蝋が残り、一匹の蛇が巻きついた紋章が、欠けながらもはっきりと読み取れた。
「ロズウェル家の紋章だ」
ユアンの声が低くなる。
アリアナは帳面と指示書を見比べた。
夜会で、父へ法案への賛成を撤回するよう迫っていたロズウェル卿。その顔が、アリアナの脳裏へ鮮明に浮かんだ。
彼は法案に反対していただけではない。犯罪に手を染めてまで、成立を阻もうとしていたらしい。
指先に残る縫い糸の感触が、急に重みを増した。
男性兵士たちが踏み込めなかった、スカートの内側に隠された証拠。それを暴いたのは、アリアナが幼い頃から身につけてきた、布と縫い目を見る目だった。
「こんなもの、誰にだって偽造できるわ」
女は平静を取り戻そうとしていたが、その声には先ほどまでの余裕がなかった。
「確かに、紋章だけならね」
ユアンは帳面を受け取り、最後のページを開いた。
そこには金の受け渡しに使った銀行と、口座を示す番号が記されている。
「だが、支払い元まで偽装するのは難しい。この口座がロズウェル家、あるいは関係者のものだと確認できれば、十分な証拠になる」
「眉に傷のある男と、ホール事務長の証言もあります」
グレイ工場長が付け加えた。
ホールはすでに、カードゲームでこさえた借金の返済と引き換えに工場の輸送予定や鍵の型を渡したことを認めているという。直接やり取りしていたのは目の前の女だけだが、報酬の一部はロズウェル家と取引のある金融業者から支払われていたとすでに裏が取れている。
女はしばらく黙っていたが、やがてアリアナへ冷たい視線を向けた。
「あなたたちが、余計なものを見なければよかったのよ」
「余計なもの?」
「庭の小屋で、あの話を聞いたことよ。黙っていれば、こんな大ごとにはならなかった」
「黙っていたら、私たちを攫うつもりだったのでしょう?」
「あなた一人の自由と、国の秩序を比べれば、どちらが大切かは明らかだわ」
女の言葉に、アリアナの胸へ冷たい怒りが広がった。
「妻が自分の財産を持つことも、離縁を求めることも、あなたたちにとっては秩序を壊すことなのね」
「女が権利ばかり主張すれば、家は成り立たなくなる。あなたのお姉様だって、貴族の妻として我慢することを選んでいるでしょう?」
セシリアの静かな笑顔が脳裏に浮かんだ。
身重の身体で夫の裏切りに耐え、自分には逃げる場所がないのだと諦めていた姉。その苦しみを、当然の我慢として扱われることが許せなかった。
「姉は、選んだのではありません」
アリアナは女を正面から見据えた。
「選べる道を、最初から奪われていただけです。その理不尽を秩序と呼ぶのなら、壊してしまえばいいんだわ」
室内が静まり返る。
女は何か言い返そうとしたものの、言葉が出てこないらしい。唇を歪め、顔を背けた。
そのとき、ユアンの手がアリアナの背へ触れかけ、わずかな距離を残して止まった。
許可を求めているのだと気づき、アリアナは自分から半歩だけ彼へ近づいた。
手のひらが、そっと背中へ添えられる。
「僕の婚約者は、やはり頼もしいな」
「まだ偽装婚約期間です」
「今の話を聞いたあとでは、その言葉が少し寂しく感じるよ」
アリアナは返事をせず、女から取り上げた証拠へ視線を戻した。ただ、背中へ添えられた手から離れようとは思わなかった。
◇
証拠の内容は、暗号電報で王都で待つストーンハースト侯爵へ送られた。
返事が届いたのは、午後をだいぶ過ぎた頃だった。
アリアナは救護室でユアンと並び、グレイ工場長が持ってきた電報を読む。
『ロズウェル卿ヲ拘束。家宅捜索ニテ、同様ノ指示書ト支払イ記録ヲ発見。議会ニ報告済ミ。法案ノ採決ハ来週、予定ドオリ行ウ』
短い文章を何度も読み返し、アリアナはようやく息を吐いた。
「終わったのね」
「ああ。少なくとも、工場と法案を狙った計画は終わりだ」
身体から力が抜け、アリアナは隣にいるユアンの肩へ額を預けた。
彼の身体がわずかに強張ったものの、すぐに温かな腕が背中へ回る。
「お疲れさま、アリアナ」
「ユアン様も」
「僕はほとんど、君に助けられていた気がするけれど」
「私だって、あなたがいなければここまで来られませんでした」
「それなら、相棒としては合格かな」
「ええ。相棒としては」
含みを持たせて答えると、ユアンが少しだけ身体を離し、アリアナの顔を覗き込んだ。
「婚約者としては?」
「今後の努力次第です」
「解消すると言い切らなくなったね」
嬉しそうに笑う顔を見て、アリアナは自分の失言に気づいた。
「言葉の綾です」
「そういうことにしておこう」
いつもの台詞でかわされ、アリアナは抗議しようと顔を上げた。
しかし、間近にあるユアンの青い瞳と視線が重なり、言葉が止まる。
彼の視線が、アリアナの唇へゆっくりと下りていった。
今度は誰かが扉を叩く気配も、敵が近づく足音もない。二人の間を遮るものは、何もなかった。それでもユアンは、触れようとはしない。ただ、アリアナが何を望むのか、静かに待っている。
この距離から逃げることもできたけれど、離れる代わりに彼の上着をそっと掴む。
「今は、まだ駄目です」
「今は?」
「すべてが片付いて、法案が成立してからじゃないと」
「それまで待てば、許してくれる?」
「今後の努力次第ですわ」
精いっぱい平静を装って答えると、ユアンは残念そうに息を吐きながらも、どこか幸せそうに笑った。
「では、死ぬ気で努力しよう」
「死なれては困ります」
「君が困るなら、生きることにするよ」
ユアンの腕へ再び抱き寄せられ、アリアナは今度こそ抵抗しなかった。
工場の外では、事件の終息を知らせる声が響いている。
長い夜は終わった。
けれど、偽りから始まった婚約の行方だけは、まだ誰にも分からなかった。




