29. 釣り上げられた魚
ストーンハースト侯爵家の騎兵隊が古い揚水場へ向かったあと、アリアナとユアンは救護室へ戻った。
工場の火は完全に消し止められ、東棟にいた職人たちの無事も確認されている。濡れた生地や糸の損害は決して小さくないものの、建物や織機まで失う最悪の事態は避けられた。
それでも、すべてが終わったわけではない。
ワインレッドのドレスを着ていた女を捕らえ、その背後にいる人物へ辿り着くまでは、安心できなかった。
アリアナは女性職人から借りた乾いた仕事着へ着替え、救護室の椅子へ腰を下ろした。身体は疲れきっているはずなのに、少しも眠気を感じない。
寝台には、医師から厳重に安静しているように命じられたユアンが横たわっていた。
「そんなに窓を見つめても、騎兵隊の帰りが早くなるわけではないよ」
「分かっています」
返事をしながらも、窓から目を離せなかった。
古い揚水場へ向かった騎兵隊から、まだ知らせはない。地図に記された時刻は正午だ。敵が早く到着している可能性もあれば、工場での失敗を知り、合流場所を変えている可能性もあった。
「今ごろ、逃げられていたらどうしよう」
「逃げられたとしても、手がかりは残る。捕らえた男たちもいるし、ホール事務長から話を聞くこともできるよ」
「でも、あの女性が依頼主に近いなら、絶対に捕まえたいわ」
「君が自分で捕まえに行かなくてよかった」
安堵するような言葉に、アリアナは窓辺から振り返った。
「私は行きたかったわ。こうして待つのはやっぱり落ち着かないもの」
「行こうとしたら、寝台へ縛りつけてでも止めるけどね」
「怪我人のあなたに、できるとは思えませんけれど」
「そのときは、グレイ工場長に縄を借りるよ」
「逆にあなたをベッドに縛りつけるわ」
「じゃあ、婚約者同士で仲良く半分ずつ使おう」
「絶対に嫌です」
呆れて言い返すと、ユアンは満足したように笑った。
火災を阻止した直後とは思えないほど穏やかなやり取りだった。こうして軽口を交わしていると、張り詰めていた心が少しだけ和らいでいくのを感じる。
今までユアンと関係を持った女性も、こんな風に彼の軽口に毒気を抜かれ、いつの間にか心を許してしまったのだろうか。
ふと頭をよぎった不穏な思いに、アリアナは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
彼はいつだって身軽で、食えない笑みを浮かべながら、その美貌と巧みな言葉で人の警戒心をスルリとほどいてしまう。王都の舞踏会で噂されていた数々の浮名も、ただの誇張ではないのかもしれない。
(……でも)
小さく息を吐き出し、唇をかみしめた。いま目の前にいるのは、危機をともに乗り越えてきた頼もしい相棒で、形ばかりとはいえ婚約者でもある。
アリアナは窓辺を離れ、寝台の脇へ椅子を寄せた。
「傷は痛みますか?」
「君が近くに来たら、少し楽になった」
「傷の具合を聞いているのよ」
「それなら、かなり痛い」
ユアンは素直に答え、包帯を巻かれた脇腹へ手を添えた。
「もう一度、医師を呼びますか?」
「大丈夫。傷が開いたわけではないから。君が無事に戻ってきたと分かった途端、気が緩んだらしい」
「私を助けるために、救護室を抜け出したからでしょう」
「助けたというより、一緒にバルブを回しただけだ。あの男を捕らえ、火を消す決断をしたのは君だよ」
まっすぐに称えられ、アリアナは返事に困った。
社交界では、工場や布について話しても興味を持ってもらえないことが多かった。女性が事業へ口を出すものではないと笑われ、父親の知識を受け売りしているだけだと決めつけられたこともある。
男の人がすることに、控えめに微笑んでうなずくことだけが求められていた世界。自分を抑制して息を殺していい子でいないと、白い目で見られる。
そんな貴族社会が大嫌いだった。
けれど、いま目の前にいる男は違う。アリアナが自分の判断で動き、工場を守り抜いたことを、何ひとつ軽んじることなく正当に評価してくれている。
「どうして、そんな顔をするの?」
「どんな顔ですか?」
「褒められ慣れていない顔」
言い当てられ、アリアナは唇を引き結んだ。
「社交界では、商会の話をする女性は可愛げがないそうですから」
「それを言った人間には、見る目がないね」
「あなたは女性なら誰にでも、そういうことを言うのでしょう?」
「また、その話に戻るのかい?」
ユアンは困ったように眉を下げたあと、寝台の上へ置いていた手をアリアナへ差し出した。
「僕が何を言っても、君は過去の噂を理由に疑う。どうすれば信じてもらえる?」
「普段の行いを改めてください」
「今は改めているつもりだよ」
「まだ数日でしょう」
「では、これから積み重ねていくしかないな」
差し出された手は、触れることを強いるのではなく、アリアナの判断を待っている。
ほんの数日前までは、女性との噂が絶えない放蕩者だと思っていた。実際、軽薄な言葉に腹を立てたことは一度や二度ではない。
それなのに今は、本心に従えば、彼の手を拒む理由を探すほうが難しい状況だ。
自分は貴族女性の中で、分別がある方だし、浮ついていないと思っていた。けれど結局は他の女性と同じ。見目麗しい男に甘い言葉をかけられるとまるで釣られた魚のように身悶えしてしまう類の女性なのだ。
最悪なのは、抵抗しても、釣り上げられてしまった以上、逃げられないということ。
アリアナは小さく息を吐き、そっと手を重ねる。すると、ユアンは壊れ物を扱うように優しく握り返してきた。
「これは、信じてもらうための最初の一歩だと思っていい?」
「怪我人を安心させるためです」
「それでも構わないよ」
親指で手の甲を撫でられ、胸の奥がくすぐったくなる。
しばらくそうしているうちに、張り詰めていた緊張が解け、急に疲れが押し寄せてきた。アリアナは椅子の背へ身体を預ける。
「少し眠ったら?」
「騎兵隊が戻るまで、起きています」
「戻ったら起こすよ」
「あなたも眠るでしょう」
「君の寝顔を眺めるという大切な役目があるから、眠れそうにない」
「それなら、なおさら眠りません」
そう答えたはずなのに、瞼は次第に重くなっていく。
最後に感じたのは、握られた手のぬくもりと、肩へそっと掛けられた毛布の重さだった。
◇
遠くから聞こえる馬蹄の音に、アリアナは目を覚ました。
窓の外を見ると、侯爵家の紋章を掲げた騎兵隊が工場の正門をくぐるところだった。その中央には、両脇を兵士に挟まれた一人の女がいる。
「捕まえたのね」
立ち上がろうとした瞬間、自分が寝台へ上半身を預け、ユアンの手を握ったまま眠っていたことに気づく。
ユアンは目を閉じている。眠っているように見えたが、アリアナが手を離そうとすると、指へわずかに力がこもった。
「起きているのでしょう?」
「たった今、目が覚めたところだよ」
「嘘つき」
「君の寝顔は見ていないから安心して」
「聞いていません」
「口元が少し――」
「それ以上言ったら、傷へ響くようなことをします」
ユアンは楽しそうに笑い、ようやく手を離した。
はやる気持ちで救護室を出ようとすると、彼も身体を起こす。
「どこへ行くつもり?」
「君と一緒に、捕まった女性を確認する」
「寝ていてください」
「歩くだけなら問題ないと、医師から許可をもらった」
「いつの間に?」
「君が眠っているあいだに」
「勝手なことばかりして」
「君に言われるとは思わなかったな」
医師から借りた杖を手にするユアンを、アリアナは止めきれなかった。結局、転ばないよう腕を貸し、二人で工場長室へ向かうことになった。
「無理をしたら、すぐに戻りますからね」
「君がこうして支えてくれるなら、もう少し無理をしてもいいかもしれない」
「戻りましょうか?」
「冗談だよ」
口ではそう言いながらも、ユアンはアリアナの腕へ身体を預け、どこか嬉しそうにしていた。




