↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/49

28. 火は糸を選ばない2

「どうして、ユアン様がここにいるの?」


「銃声が聞こえたのに、大人しく待っていられると思う?」


「傷が開いてしまいます!」


「君を失うことに比べれば、縫い直せる傷なんて安いものだ」


 叱るべきなのに、その言葉を聞いた途端、胸が締めつけられて何も言えなくなる。


「いくよ。せーので回そう」


「無茶をしたら許しませんからね」


「君にだけは言われたくないな」


 二人は並んでバルブを握った。


「せーの!」


 力を合わせると、固着していたバルブが耳障りな音を立てて回り始める。


 次の瞬間、頭上の水管から激しい水が噴き出した。


 滝のような水が倉庫へ降り注ぎ、炎を叩き潰していく。黒煙と水蒸気が立ち上り、視界が真っ白に染まった。


 アリアナの帽子も髪も、一瞬で濡れる。隣にいるユアンも頭から水を被り、前髪を額へ張りつかせていた。


「また、ずぶ濡れですね」


 思わず指摘すると、ユアンは前髪を鬱陶しそうに払いのけながら苦笑した。


「君と出会ってから、水難続きだな」


「私のせいじゃないわ」


「一度目は池で、二度目は雨代わりの散水管か。三度目は、君が一緒に入ってくれることを期待しても?」


「次は井戸へ突き落としますよ」


「二人きりなら、それも悪くない」


 呆れながらも、アリアナの唇から笑いがこぼれた。


 やがて炎は勢いを失い、最後の赤い火も水の中へ消えていった。


 安堵した途端、ユアンの身体が傾く。


「ユアン様!」


 アリアナは慌てて腕を回し、その身体を受け止めた。水を吸った衣服は重く、傷を庇いながら支えるのは容易ではない。


「無茶をしないと約束したのに」


「君が戻るまで待つとは約束したけれど、大人しくしているとは言っていない」


「同じことです!」


「随分と怒っているね」


「当たり前でしょう。あなたに何かあったら、私は――」


 そこまで言って、言葉に詰まった。


 彼に何かあったら、自分はどうなるのだろう。


 契約上の婚約者を失って困るだけではない。事件の手がかりを失うからでも、侯爵家との協力関係が壊れるからでもなかった。


 もっと個人的で、認めてしまえば後戻りのできない何かが、胸の奥で大きくなり始めている。


「君は?」


 ユアンが静かに続きを促す。


 水滴の伝う顔は青白い。それでも、アリアナを見つめる瞳には逃げ場を奪うほどの熱があった。


「とても困ります」


「それだけ?」


「今は、それで納得してください」


 ユアンは少しだけ残念そうに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。


「分かった。今はね」


 傷へ響いたのか、ユアンの表情が苦痛に歪む。


 アリアナは彼の腕を肩へ回し、今度こそしっかりと支えた。


「救護室へ戻ります」


「その前に、無事かどうか確かめてもいい?」


「見れば分かるでしょう」


「触れなければ分からないこともある」


 ユアンの手が、アリアナの頬へ伸びかけた。しかし、いつものように触れる寸前で止まる。


 こんなときにまで許可を待つ仕草が、ひどく愛おしく思えた。


「今は、触れても構いません」


 答えると、濡れた手のひらがそっと頬を包み込んだ。


 ユアンの親指が、頬についた煤を拭う。彼の指は冷えているはずなのに、触れられた場所だけが熱を持った。


「無事でよかった」


 掠れた声を聞いた瞬間、アリアナは衝動のままユアンの胸へ額を預けた。


 抱きしめたわけではない。ただ身体を支えるため、ほんの少し寄りかかっただけだ。そう自分に言い聞かせても、ユアンの腕が背中へ回ると、離れたくないという気持ちが込み上げてきた。


「アリアナ?」


「少しだけです」


「何が?」


「こうしているのは、少しだけですから」


「では、動かずにいるよ」


 からかう響きのない穏やかな声だった。


 倉庫には水の落ちる音が響き、駆け回る警備員たちの声も聞こえている。それでもユアンの腕の中だけは、不思議なほど静かに感じられた。


 やがて、捕らえられた男の笑い声がその静けさを破った。


「随分と余裕だな、侯爵家のお坊ちゃん」


 アリアナはユアンから離れ、声のしたほうへ振り返る。


 眉に傷のある男は床へ押さえつけられながらも、口元へ嘲るような笑みを浮かべていた。その近くでは、ほかの三人とホール事務長も拘束されている。


「火を消したくらいで、勝ったつもりか?」


「どういう意味?」


 アリアナが問いかけても、男は笑みを深めるだけだった。


「俺たちが狙っていたのは、この倉庫だけじゃない」


 ユアンの腕が、庇うようにアリアナの肩へ回る。


「ほかに何を仕掛けた?」


「自分たちで考えろ。もっとも、気づいた頃には手遅れだろうがな」


 男はそれきり口を閉ざした。


 アリアナは水浸しになった倉庫を見回した。


 運び込まれた工具箱、床へ転がる薬品瓶、濡れた縄。その中に、一枚の紙が落ちている。


 拾い上げると、ストーンハースト一帯を描いた簡略な地図だった。


 アークライト工場には赤い印がつけられている。さらに、工場から北西へ離れた場所へ、小さな黒い印が記されていた。


「ここは……古い揚水場だわ」


 かつて町へ水を供給していた施設だが、新しい水路が完成してからは使われていない。人目を避けるには都合のよい場所だった。


「次の標的でしょうか」


 グレイ工場長が険しい顔で尋ねる。


 ユアンはアリアナから地図を受け取り、黒い印の脇に記された小さな文字へ目を凝らした。


「いや。時刻が書かれている」


 記されていたのは、今日の日付と正午を示す数字だった。


「作戦を終えた者たちの合流場所だろう。工場を燃やしたあと、ここで残りの報酬を受け取り、別々に逃げるつもりだったんだ」


「では、ワインレッドのドレスを着ていた女性も来るかもしれない?」


「可能性は高い。彼女は夜会でも、この男へ金を渡していた。単なる実行役より、依頼主に近い立場にいるはずだ」


 捕らえられた男の笑みが、初めてわずかに強張った。その変化を、アリアナは見逃さなかった。


「当たりのようね」


 アリアナが地図を握りしめると、男は忌々しそうに顔を背けた。


 そのとき、倉庫の外から複数の馬蹄の音が響いた。


 ほどなく警備員が駆け込んでくる。


「工場長! ストーンハースト侯爵家の騎兵隊が到着しました!」


 ユアンが安堵したように息を吐いた。


「父が間に合わせてくれたようだね」


「これで、揚水場を包囲できます」


「ああ。今度こそ一人も逃がさない」


 ユアンは地図から目を上げ、アリアナを見つめた。


「ただし、君は残ってくれ」


「私も行きます」


「駄目だ」


「どうしてですか?」


「君は工場を守った。似顔絵もあるから、女性の確認は兵士たちに任せられる。これ以上、君が危険を冒す理由はないよ」


「でも――」


「僕も残る」


 予想外の言葉に、アリアナは目を瞬いた。


「あなたは行かないの?」


「この傷では足手まといになる。それに、君を一人にしないと約束したからね」


 ユアンは困ったように微笑み、濡れた指先でアリアナの手を取った。


「事件を解決するのは、僕たちだけでなくてもいい。託せる相手が来たのだから、今は信じて任せよう」


 アリアナは反論しかけたものの、その顔に残る疲労を見て言葉を呑み込んだ。


 彼もまた、限界まで戦ったのだ。


「分かりました。騎兵隊に、似顔絵と地図を渡します」


「ありがとう」


「ただし、あなたは今度こそ救護室から出ないこと」


「君も一緒にいてくれるなら」


「仕方がありませんね」


 答えると、ユアンの指がアリアナの指へ絡んだ。


 倉庫を包む煙は少しずつ薄れ、朝の光が差し込み始めている。


 長い夜の終わりは、もうすぐそこまで来ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。