28. 火は糸を選ばない2
「どうして、ユアン様がここにいるの?」
「銃声が聞こえたのに、大人しく待っていられると思う?」
「傷が開いてしまいます!」
「君を失うことに比べれば、縫い直せる傷なんて安いものだ」
叱るべきなのに、その言葉を聞いた途端、胸が締めつけられて何も言えなくなる。
「いくよ。せーので回そう」
「無茶をしたら許しませんからね」
「君にだけは言われたくないな」
二人は並んでバルブを握った。
「せーの!」
力を合わせると、固着していたバルブが耳障りな音を立てて回り始める。
次の瞬間、頭上の水管から激しい水が噴き出した。
滝のような水が倉庫へ降り注ぎ、炎を叩き潰していく。黒煙と水蒸気が立ち上り、視界が真っ白に染まった。
アリアナの帽子も髪も、一瞬で濡れる。隣にいるユアンも頭から水を被り、前髪を額へ張りつかせていた。
「また、ずぶ濡れですね」
思わず指摘すると、ユアンは前髪を鬱陶しそうに払いのけながら苦笑した。
「君と出会ってから、水難続きだな」
「私のせいじゃないわ」
「一度目は池で、二度目は雨代わりの散水管か。三度目は、君が一緒に入ってくれることを期待しても?」
「次は井戸へ突き落としますよ」
「二人きりなら、それも悪くない」
呆れながらも、アリアナの唇から笑いがこぼれた。
やがて炎は勢いを失い、最後の赤い火も水の中へ消えていった。
安堵した途端、ユアンの身体が傾く。
「ユアン様!」
アリアナは慌てて腕を回し、その身体を受け止めた。水を吸った衣服は重く、傷を庇いながら支えるのは容易ではない。
「無茶をしないと約束したのに」
「君が戻るまで待つとは約束したけれど、大人しくしているとは言っていない」
「同じことです!」
「随分と怒っているね」
「当たり前でしょう。あなたに何かあったら、私は――」
そこまで言って、言葉に詰まった。
彼に何かあったら、自分はどうなるのだろう。
契約上の婚約者を失って困るだけではない。事件の手がかりを失うからでも、侯爵家との協力関係が壊れるからでもなかった。
もっと個人的で、認めてしまえば後戻りのできない何かが、胸の奥で大きくなり始めている。
「君は?」
ユアンが静かに続きを促す。
水滴の伝う顔は青白い。それでも、アリアナを見つめる瞳には逃げ場を奪うほどの熱があった。
「とても困ります」
「それだけ?」
「今は、それで納得してください」
ユアンは少しだけ残念そうに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
「分かった。今はね」
傷へ響いたのか、ユアンの表情が苦痛に歪む。
アリアナは彼の腕を肩へ回し、今度こそしっかりと支えた。
「救護室へ戻ります」
「その前に、無事かどうか確かめてもいい?」
「見れば分かるでしょう」
「触れなければ分からないこともある」
ユアンの手が、アリアナの頬へ伸びかけた。しかし、いつものように触れる寸前で止まる。
こんなときにまで許可を待つ仕草が、ひどく愛おしく思えた。
「今は、触れても構いません」
答えると、濡れた手のひらがそっと頬を包み込んだ。
ユアンの親指が、頬についた煤を拭う。彼の指は冷えているはずなのに、触れられた場所だけが熱を持った。
「無事でよかった」
掠れた声を聞いた瞬間、アリアナは衝動のままユアンの胸へ額を預けた。
抱きしめたわけではない。ただ身体を支えるため、ほんの少し寄りかかっただけだ。そう自分に言い聞かせても、ユアンの腕が背中へ回ると、離れたくないという気持ちが込み上げてきた。
「アリアナ?」
「少しだけです」
「何が?」
「こうしているのは、少しだけですから」
「では、動かずにいるよ」
からかう響きのない穏やかな声だった。
倉庫には水の落ちる音が響き、駆け回る警備員たちの声も聞こえている。それでもユアンの腕の中だけは、不思議なほど静かに感じられた。
やがて、捕らえられた男の笑い声がその静けさを破った。
「随分と余裕だな、侯爵家のお坊ちゃん」
アリアナはユアンから離れ、声のしたほうへ振り返る。
眉に傷のある男は床へ押さえつけられながらも、口元へ嘲るような笑みを浮かべていた。その近くでは、ほかの三人とホール事務長も拘束されている。
「火を消したくらいで、勝ったつもりか?」
「どういう意味?」
アリアナが問いかけても、男は笑みを深めるだけだった。
「俺たちが狙っていたのは、この倉庫だけじゃない」
ユアンの腕が、庇うようにアリアナの肩へ回る。
「ほかに何を仕掛けた?」
「自分たちで考えろ。もっとも、気づいた頃には手遅れだろうがな」
男はそれきり口を閉ざした。
アリアナは水浸しになった倉庫を見回した。
運び込まれた工具箱、床へ転がる薬品瓶、濡れた縄。その中に、一枚の紙が落ちている。
拾い上げると、ストーンハースト一帯を描いた簡略な地図だった。
アークライト工場には赤い印がつけられている。さらに、工場から北西へ離れた場所へ、小さな黒い印が記されていた。
「ここは……古い揚水場だわ」
かつて町へ水を供給していた施設だが、新しい水路が完成してからは使われていない。人目を避けるには都合のよい場所だった。
「次の標的でしょうか」
グレイ工場長が険しい顔で尋ねる。
ユアンはアリアナから地図を受け取り、黒い印の脇に記された小さな文字へ目を凝らした。
「いや。時刻が書かれている」
記されていたのは、今日の日付と正午を示す数字だった。
「作戦を終えた者たちの合流場所だろう。工場を燃やしたあと、ここで残りの報酬を受け取り、別々に逃げるつもりだったんだ」
「では、ワインレッドのドレスを着ていた女性も来るかもしれない?」
「可能性は高い。彼女は夜会でも、この男へ金を渡していた。単なる実行役より、依頼主に近い立場にいるはずだ」
捕らえられた男の笑みが、初めてわずかに強張った。その変化を、アリアナは見逃さなかった。
「当たりのようね」
アリアナが地図を握りしめると、男は忌々しそうに顔を背けた。
そのとき、倉庫の外から複数の馬蹄の音が響いた。
ほどなく警備員が駆け込んでくる。
「工場長! ストーンハースト侯爵家の騎兵隊が到着しました!」
ユアンが安堵したように息を吐いた。
「父が間に合わせてくれたようだね」
「これで、揚水場を包囲できます」
「ああ。今度こそ一人も逃がさない」
ユアンは地図から目を上げ、アリアナを見つめた。
「ただし、君は残ってくれ」
「私も行きます」
「駄目だ」
「どうしてですか?」
「君は工場を守った。似顔絵もあるから、女性の確認は兵士たちに任せられる。これ以上、君が危険を冒す理由はないよ」
「でも――」
「僕も残る」
予想外の言葉に、アリアナは目を瞬いた。
「あなたは行かないの?」
「この傷では足手まといになる。それに、君を一人にしないと約束したからね」
ユアンは困ったように微笑み、濡れた指先でアリアナの手を取った。
「事件を解決するのは、僕たちだけでなくてもいい。託せる相手が来たのだから、今は信じて任せよう」
アリアナは反論しかけたものの、その顔に残る疲労を見て言葉を呑み込んだ。
彼もまた、限界まで戦ったのだ。
「分かりました。騎兵隊に、似顔絵と地図を渡します」
「ありがとう」
「ただし、あなたは今度こそ救護室から出ないこと」
「君も一緒にいてくれるなら」
「仕方がありませんね」
答えると、ユアンの指がアリアナの指へ絡んだ。
倉庫を包む煙は少しずつ薄れ、朝の光が差し込み始めている。
長い夜の終わりは、もうすぐそこまで来ていた。




