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27. 火は糸を選ばない1

 東倉庫を見下ろす管理室には、グレイ工場長と、彼が選んだ二人の職長が集まっていた。


 窓には薄い麻布が掛けられ、外から室内の様子を窺うことはできない。アリアナは布の隙間から、眼下の荷下ろし場を見つめていた。


 外部から来た男は四人。いずれも工場の職人を装っているものの、作業に慣れているようには見えなかった。荷車から縄や滑車を降ろす間も、手元より頻繁に周囲へ視線を巡らせている。


 そのうちの一人が横を向いた瞬間、アリアナの胸が強く鳴った。


「グレイさん。荷車のそばにいる、灰色の帽子をかぶった男が見えますか?」


「片方の眉に傷がある男ですな」


「あの男が、私たちの持っている似顔絵の人物です。夜会へ偽名で入り込み、小屋で密談していた男に間違いありません」


 王都で見た似顔絵より頬は痩せ、口元には無精髭が生えている。それでも、右の眉を斜めに断ち切る古い傷は、デレクの絵と一致していた。


「つまり、汽車を襲った者たちと同じ一味なのですね」


 グレイが声を低くすると、アリアナは小さく頷いた。


「おそらく。王都で木箱の細工に気づかれたと判断し、爆発物を紛れ込ませる計画を諦めたのでしょう。その代わり、工場へ直接火を放つつもりなのかもしれません」


 男たちは作業道具を運んでいるように見えるが、二つの箱だけは工具箱にしては不自然なほど慎重に扱っていた。そのうちの一つを作業員が地面へ置きかけた際、眉に傷のある男が血相を変えて手を伸ばしたのだ。


 少なくとも、衝撃を与えたくないものが入っているらしい。


「職人たちの避難は?」


「蒸気管の緊急点検という名目で、東棟から移動させました。事情を知っているのは、ここにいる者と、警備を任せた五名だけです」


「ありがとうございます」


 これで何か起きても、工場で働く者が巻き込まれる可能性は低い。


 それでも安心はできなかった。倉庫には、父と職人たちが心血を注いで作り上げた布や糸が積まれている。高価な商品というだけでなく、その一つ一つに、作り手の仕事と生活が結びついていた。


 アリアナが窓辺で手を握りしめていると、背後からグレイの気遣わしげな声が届いた。


「お嬢様は、救護室へお戻りになったほうがよいのではありませんか?」


「どうして?」


「ここは危険です。ユアン卿も、お嬢様が戻るのを待っておられるでしょう」


 アリアナの脳裏に、寝台へ横たわるユアンの姿が浮かんだ。


『君の帰りを待っているよ』


 別れ際にそう告げた声と、名残を惜しむようにほどかれた指の感触が、まだ手のひらに残っている。


「約束したからこそ、ここを片づけて戻らなくてはならないの」


 無事に彼のもとへ戻るためにも、敵の動きを見逃すわけにはいかなかった。


 ほどなく、広場へ一人の男が現れた。


 仕立てのよい上着をまとい、革張りの書類鞄を抱えている。髪をきっちりと撫でつけた細身の男は、周囲を気にしながら外部の作業員へ近づいていった。


「ホール事務長です」


 グレイの声へ、苦い響きが交じる。


 ホールは眉に傷のある男と言葉を交わしたあと、懐から鍵束を取り出した。東倉庫の内扉を開けるには、グレイ工場長とホール事務長がそれぞれ管理する二本の鍵が必要となる。


 つまり、グレイの鍵がなければ中へ入れるはずがない。


 ところが、眉に傷のある男が上着から取り出したのは、もう一本の鍵だった。


「あれは……」


「私の鍵と同じ形に見えます」


 グレイが腰へ下げた本物を確かめ、険しく眉を寄せる。


「いつの間にか型を取られていたのでしょう。私の鍵は、夜間には執務室の金庫へ保管していますので」


「工場の管理体制を熟知していなければ、できないことだわ」


 ホール一人の仕業なのか、それとも工場内に別の協力者がいるのか。今の段階では判断できない。


 二人がそれぞれの鍵を差し込み、内扉を開いた。


「まだです」


 飛び出そうとした職長を、アリアナは小声で制した。


「全員が中へ入るまで待ってください。荷車に人が残っていれば、外から火を放つかもしれません」


 職長が頷き、扉の脇に潜む警備員へ手信号を送る。


 眉に傷のある男を先頭に、外部の四人が箱を運び込んだ。最後にホールが周囲を見回し、倉庫の内扉を閉める。


 荷下ろし場には、もう誰も残っていなかった。


「今です」


「かしこまりました」


 グレイが合図を送ると、隠れていた警備員たちが一斉に動き出した。前後の通路を封鎖し、倉庫の扉へ駆け寄る。


 その動きに気づいたらしく、内側から男の怒声が響いた。


「罠だ! 火をつけろ!」


 直後、何かが割れる鋭い音がした。


 倉庫の隙間から、黒い煙が漏れ出す。


「もう火を?」


 アリアナは管理室を飛び出した。


「お嬢様!」


 グレイに呼び止められたものの、足を止めることはできなかった。


 階段を駆け下りるにつれ、鼻を刺すような刺激臭が強くなる。染料でも機械油でもない。王都本店の試験室で嗅いだことのある、揮発性の高い溶剤の匂いだった。


「扉から離れて!」


 警備員へ叫んだ直後、内扉が勢いよく開いた。


 火のついた布包みが通路へ投げ出される。警備員たちが身を引いた隙を狙い、眉に傷のある男が飛び出してきた。


 その手には、短銃が握られていた。


「動くな!」


 銃口を向けられ、アリアナは足を止めた。


 背後から追いついたグレイたちも動きを止める。銃を構えた男の向こうでは、床へ撒かれた溶剤に火が燃え移り、積まれた木箱の間を赤い炎が走っていた。


 まだ火勢は強くない。しかし、布地へ燃え移れば、一気に倉庫全体へ広がってしまう。


「外へ出してもらおうか、お嬢様」


 男の口元が歪んだ。


「ほかの連中は動くな。一歩でも近づけば、この女を撃つ」


「私を人質にして、逃げられると思っているの?」


「侯爵家の坊ちゃんが、あんたを守るためなら何でもすることは分かっている。あの男に追跡をやめさせるには、十分だろう」


 ユアンのことを持ち出され、アリアナの胸へ怒りが込み上げる。


 彼は傷を負っている。それでも、自分が人質になったと知れば、無理を押してでも助けに来るだろう。これ以上、彼を危険へ巻き込むわけにはいかない。


 アリアナは銃口から目を逸らさず、ゆっくりと両手を上げた。


「分かりました。言うとおりにします」


「お嬢様!」


「グレイさんは動かないで」


 男が警戒しながら近づいてくる。


 一歩、また一歩。短銃を構えた腕を伸ばしたまま、反対の手でアリアナを掴もうとした。


 その足が、床へ這わせてあった細い起動索を踏み越える。


 倉庫へ入る前、万一男たちが外へ逃げた場合に備え、アリアナは荷役用の網を通路へ広げさせていた。床と同じ色の麻布をかぶせ、脇のレバーを引けば、滑車が網を一気に巻き上げる仕組みである。


 男が網の中央へ踏み込んだ瞬間、アリアナは壁際の操作レバーへ手を伸ばし、力いっぱい引き下ろした。


 頭上で滑車が回り、張り詰めていた縄が勢いよく巻き取られる。床から跳ね上がった荷役用の網が、男の身体へ絡みついた。


「なっ――」


 男の腕が大きく跳ね、放たれた銃弾が天井へ逸れた。


「今よ!」


 警備員たちが一斉に飛びかかり、網に包まれた男を床へ押さえつける。短銃が弾き飛ばされ、石床の上を滑っていった。


 男は網の中で激しく暴れたが、重量のある荷物を吊り上げるための太い麻縄は、簡単には切れない。


 幼い頃、荷役作業を飽きもせず眺め、仕組みを覚えていたことが、思わぬ形で役に立った。


「火を消します!」


 アリアナは倉庫の壁際へ駆け寄った。


 火災に備え、天井には消火用の散水管が何本も走っている。手動弁を開けば、倉庫全体へ水が降り注ぐ仕組みだった。


 偽造された電報には、交換部品を運び入れる準備として、その散水設備を一時的に止めておくよう指示があった。敵は初めから、火を放った際に消火装置が働かないよう手を回していたのだ。


 赤いバルブへ手を掛けたところで、アリアナは一瞬だけ動きを止めた。


 弁を開けば、保管されている布も糸も水浸しになる。染料は滲み、高級な絹織物の多くが商品として使えなくなるだろう。


 これだけの品を失えば、商会は莫大な損害を受ける。法案の成立を前に父の力を削ぐという敵の目的も、ある程度は果たされてしまう。


 それでも、炎はすでに木箱へ燃え移っていた。このまま火勢が強まれば、消火に当たる者たちの命まで危険に晒される。


「商品は作り直せるけれど、命は戻らないもの」


 アリアナは両手で赤いバルブを掴み、力いっぱい回した。


 しかし、長く動かしていなかったハンドルは錆びつき、わずかに軋むばかりで動かない。


「お願い、動いて!」


 腕へ渾身の力を込める。炎が高く上がり、押し寄せた熱風が頬を焼いた。背後から逃げろと叫ぶ声が聞こえても、ここで手を離すわけにはいかなかった。


 そのとき、背後から伸びてきた大きな手が、アリアナの手へ重なった。


「一人で無茶をしないでくれ」


 ここ数日ですっかり聞き慣れた声に、心臓が大きく跳ねる。


「ユアン様?」


 振り返ると、救護室の寝台で休んでいるはずのユアンが立っていた。


 顔色は悪く、片手では脇腹を庇っている。それでも、アリアナの手へ重ねられたもう一方の手には、確かな力がこもっていた。


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