26. 工場内に仕掛けられた罠2
「お嬢様、失礼します!」
アリアナは弾かれたようにユアンから離れた。
腰へ添えられていた手が離れ、急に朝の空気を冷たく感じる。あと少し誰かが来るのが遅かった場合に起きていたことを考えた途端、頬がさらに熱くなった。
「入って」
どうにか平静を装って答えると、グレイ工場長が工場付きの医師を伴って入ってきた。グレイは二人の距離に一瞬だけ眉を上げたものの、何も言わずに一通の電報を差し出す。
「お嬢様、こちらをご覧ください。最初の電報に続いて、先ほど追加で届いたものです」
「追加の電報?」
「ええ。部品を載せた貨物列車に不具合が発生したため、到着は遅れるとのことでした。その代わり、先に派遣した技師へ東倉庫の点検を任せるようにと」
アリアナは電報を受け取り、記された文章へ目を走らせた。
王都から派遣された技師に東倉庫を開放すること。倉庫内の作業員を退去させ、点検が終わるまで火災報知用の水管を閉じること。工場長を含め、責任者の立ち会いは不要であること。
末尾には、父ベンジャミンの名が記されている。
「これは、いつ届いたのですか?」
「三十分ほど前です。発信元はアルダー信号所となっています」
アルダー信号所は、アリアナとユアンが汽車から飛び降りた場所に最も近い鉄道施設だった。
敵は二人が汽車から逃れたあと、信号所から工場へ新たな指示を送ったらしい。汽車での襲撃が失敗したため、木箱が到着するのを待たず、工場内で直接行動を起こすつもりに違いない。
「最初の電報では、木箱を検品せず東倉庫へ入れるよう指示していた。それが今度は、荷物の到着が遅れるから、火災報知用の水管を止めろと命じている」
ユアンの声から甘さが消え、鋭い響きが戻った。
「僕たちが貨物の細工に気づいたと判断し、予備の計画へ切り替えたんだろうね」
「予備の計画……」
「倉庫へ火を放つか、別の爆発物を仕掛けるつもりかもしれない。水管を止めさせようとしている以上、少なくとも火災を起こす意図はあると考えるべきだ」
アリアナの背筋を冷たいものが走った。
東倉庫には高価な布や染料が保管されている。布は燃えやすいため、一度火が回れば、倉庫だけでは済まないかも知れない。最悪、隣接する製織棟まで燃え広がり、大勢の職人が巻き込まれる可能性がある。
「グレイさん、水管は?」
「まだ閉じておりません。工場長の立ち会いは不要だという指示が、どうにも腑に落ちませんでしたので。東倉庫の内扉も施錠したままです。外から来た連中は、荷下ろし場で待たせています」
グレイの慎重さに、アリアナは胸を撫で下ろした。
「では、まだ倉庫の中には入られていないのね」
「ええ。ただ、連中は王都から派遣された技師だと言い張っております。事務長のホールは、電報に従って早く中へ入れろと急かしてきました」
「ホール事務長が?」
幼い頃の記憶を探ったが、すぐに顔が浮かんでこない。グレイに確認すると、ホールが工場へ入ったのは五年前で、主に王都本店との連絡や輸送記録を管理しているという。
偽造された輸送伝票、二通の電報、そして外部の人間を倉庫へ入れようとする事務長。
疑うには十分すぎる状況だったが、ホールが首謀者とは限らない。金で雇われただけかもしれず、本人も偽の指示を信じ込まされている可能性がある。
「すぐに東倉庫の連中を捕らえますか?」
グレイ工場長の問いに、アリアナは考え込んだ。
今すぐ捕らえれば、工場は守れる。しかし、内部の協力者も背後にいる雇い主も、危険を察して逃げる可能性もある。
「アリアナ、どうするの?」
ユアンに名を呼ばれて顔を上げると、彼は考えを促すように静かな眼差しを向けていた。アリアナの判断を信じて待っている。そのことが表情から伝わり、胸の奥へ小さな勇気が灯った。
「外から来た人たちは、そのまま待たせてください」
アリアナはグレイ工場長へ向き直った。
「ただし、東倉庫の内扉は絶対に開けないこと。武器を持たせた信頼できる者を、外から見えない場所へ配置してください」
「承知しました」
「それから、ホール事務長には、工場長が鍵を取りに行ったと伝えて。内扉を開けるには、グレイさんと事務長がそれぞれ管理している二本の鍵が必要なのでしょう?」
「ええ。倉庫荒らしを防ぐため、昔からその決まりです」
「でしたら、グレイさんが戻らないと知れば、敵は待ちきれなくなるはずです。自分から鍵を持って東倉庫へ向かうか、ほかの誰かへ連絡を取るでしょう」
「その動きを追うんだね」
ユアンの言葉に、アリアナは頷いた。
「外部の男たちが誰と接触するのかも分かります。倉庫へ侵入する直前まで待ち、内部の協力者ごと捕らえましょう」
「危険ではありませんか?」
「倉庫へ続く通路を封鎖し、職人たちは別棟へ避難させます。敵が何か持ち込んでいる可能性もありますから、火気を扱う工程は一時的に止めてください。ただし、不自然に見えないよう、蒸気管の点検を理由に」
グレイ工場長は感心したように目を細めた。
「立派になられましたな、お嬢様」
「まだ何も解決していないわ」
「それでもです。昔は織機の下へ潜り込み、私に首根っこを掴まれていたお嬢様が、工場の者を守るために指示を出しておられる」
幼い頃の失敗を持ち出され、わずかに頬を膨らませた。
「その話は、今しなくてもいいでしょう」
「僕は詳しく聞きたいな」
寝台から楽しそうな声が飛んでくる。
「あなたは治療に専念してください」
「その件ですが」
それまで傷を確かめていた医師が、厳しい顔で口を挟んだ。
「傷は筋肉まで達していませんが、縫合が必要です。出血も多い。これ以上動き回ることは認められません」
「工場内を少し歩くだけです」
「駄目です」
「ゆっくりなら――」
「駄目なものは駄目です」
医師の容赦ない返答に、ユアンが口を閉ざす。
アリアナは満足して頷いた。
「先生のお言葉に従ってください」
「君まで嬉しそうに言わないでくれないか」
「嬉しいのではありません。安心しているんです」
口にしてから、自分が何を言ったのかに気づいた。
ユアンの瞳が、驚いたようにアリアナを映す。やがて、からかうのではなく、ひどく大切なものを受け取ったように柔らかく細められた。
「君が安心できるなら、大人しくしているよ」
素直な返事に、かえって胸が落ち着かなくなる。
医師が縫合の準備を始めると、アリアナは邪魔にならないよう寝台から離れようとした。しかし、ユアンの手がそっと手首へ触れる。
「どこへ行くの?」
「治療の邪魔でしょう」
「ここにいてほしい」
「先ほどまで、少しくらい痛いほうが得だと言っていたではありませんか」
「あれは君が手当てをしてくれる場合の話だよ。針で縫われるのを楽しむ趣味はない」
あまりにも真面目な顔で言うものだから、呆れながらもその場へ残ることにした。
「手を握っていてほしいの?」
「頼んでもいい?」
いつもの軽口が返ってくると思っていたアリアナは、素直な問いかけに言葉を失った。
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
「今回だけですから」
「君の言う『今回だけ』は、少しずつ増えているね」
「嫌なら離します」
「絶対に離さないで」
ユアンはアリアナの指をしっかりと握った。
傷口へ消毒薬が注がれると、彼の手に強く力がこもる。針が皮膚を通るたび、眉がわずかに寄ったものの、呻き声ひとつ漏らさなかった。
アリアナはその横顔から目を逸らさず、彼の指を握り返した。
汽車から逃げ、森の中を走り抜けたときも、繋いだ手だけは離れなかった。
今度は自分が、彼を一人にしない番なのだと思った。
◇
治療を終えたユアンは寝台へ横になるよう命じられ、渋々それに従った。
グレイ工場長が東倉庫へ戻ろうとすると、ユアンは枕へ頭を預けたまま声をかける。
「グレイ工場長。もう一つ、頼みがあります」
「何でしょう」
「アルダー信号所へ、信頼できる者を向かわせてください。追加の電報を打った人物の特徴と、どこへ向かったのかを調べてほしい。ただし、相手には気づかれないように」
「承知しました」
「それから、王都にいる僕の父にも暗号電報を。工場の外へ人を配置して、逃げ道を塞いでもらいます」
グレイが頷き、救護室を出ていく。
扉が閉まると、アリアナは寝台の脇へ椅子を引き寄せた。
「本当に、ここで大人しくしていてくださいね」
「君は東倉庫へ行くの?」
「管理室から様子を見ます。工場の者も一緒ですから、危険なことはしません」
「さっきの約束を覚えている?」
「あなたから離れないこと、でしょう?」
「覚えていてくれたんだ」
「状況によるとも言いましたけどね」
ユアンが困ったように眉を下げる。
その表情を見ていると、アリアナの胸にも後ろめたさが生まれた。彼を一人にしたくないと思ったばかりなのに、事件を解決するためには離れなければならない。
迷った末、アリアナは寝台の上へ置かれたユアンの手を取った。
「すべて片づいたら、必ずここへ戻ります」
「本当に?」
「ええ。あなたを置いて、勝手に領地を見て回ったりしません」
「では、戻ってきたら案内してくれる?」
「名所なんて、ほとんどありませんよ」
「君が好きだった場所なら、それでいい」
ユアンの親指が、アリアナの手の甲を優しく撫でる。その触れ方があまりにも自然で、離れるために取ったはずの手を、なかなか放すことができなかった。
「約束します。だから、今は休んでいてください」
「ああ。君の帰りを待っているよ」
絡めていた指を、一本ずつ惜しむようにほどく。
サイモンと再会することばかりを思い描いていた故郷で、今はユアンを待たせ、また彼のもとへ戻ろうとしている。
そんな自分の変化を、アリアナはまだ認めることができなかった。
窓の外から、始業を知らせる汽笛が響く。工場へ続々と職人たちが集まり、静かだった建物に織機の音が満ち始めた。いつもと変わらない一日が始まったように見えて、その内側では、敵が最後の罠を仕掛けようとしている。
アリアナは偽の電報を握りしめ、窓の向こうに見える東倉庫を見据えた。
「必ず守ります。この工場も、働いている人たちも」
「ああ。一緒に守ろう」
寝台から返された声に背中を押され、アリアナは救護室の扉へ手をかけた。




