25. 工場内に仕掛けられた罠1
グレイ工場長は、始業前の点検を行うため、主棟の機関室にいた。
アリアナが姿を現すと、白髪交じりの大柄な男は、手にしていた点検表を床へ落とした。
「アリアナお嬢様?」
「久しぶりね、グレイさん」
「本当に、アリアナお嬢様なのですか?」
「少なくとも、幽霊ではないわ」
冗談めかして答えたものの、記憶より深く皺の刻まれた懐かしい顔を見ていると、喉の奥が熱くなった。
グレイはアリアナの泥だらけの姿を上から下まで確かめ、次に寄り添うように立つユアンへ目を移した。その脇腹に巻かれた布へ血が滲んでいるのを認めた途端、表情が険しくなる。
「一体、何があったのです?」
「詳しい話は、誰にも聞かれない場所でします。まず、彼の傷を診てもらいたいの」
「すぐに救護室を開けさせます。医師も呼びましょう」
「それから、東倉庫にいる人たちのことは?」
「ああ、あれは今朝早く、王都本店から電報が届きましてな。交換部品を積んだ荷物が到着するため、外部の運搬業者へ受け入れ準備をさせるようにと」
「電報を受け取ったのは誰です?」
「事務長のホールです。私も控えを確認しましたが、男爵の署名がありました」
やはり、工場内へ偽の指示が送り込まれていたようだ。
アリアナがユアンへ視線を向けると、彼も同じことを考えたらしく、目が合っただけで小さく頷いた。
「グレイ工場長」
ユアンが一歩前へ出る。
「彼らには何も知らせず、予定どおり作業を続けさせてください。ただし、信頼できる者を二人だけ選び、目を離さないように。誰と話し、どこへ立ち入ったのかも記録してほしい」
「あなたは……?」
「ユアン・ウィリンガムです」
名を聞いたグレイの背筋が伸びた。ストーンハースト侯爵家の嫡男の名を知らない領民はいない。
「それでは、この方が新聞に載っていた噂の……」
「私の婚約者です」
こんな田舎まできっちり社交新聞が届けられていることに苦笑いしながら、アリアナは言葉を挟んだ。
ユアンが驚いたようにこちらを見る。婚約は偽装であり、今ここで強調する必要などなかったかもしれない。それでも、彼を社交新聞に醜態を晒した放蕩者として見られることが、なぜか我慢ならなかった。
「新聞に書かれているような方ではないわ。私を守って、怪我が酷くなっちゃったんです」
言い切った途端、急に恥ずかしくなり、アリアナは視線を逸らした。
グレイは何度か目を瞬かせたあと、ユアンへ深々と頭を下げる。
「お嬢様をお守りくださり、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではありません。むしろ、危険へ巻き込んだのは僕のほうです」
「違います」
反射的に否定すると、ユアンの眼差しが再びこちらへ向けられた。その目があまりに優しく細められたため、まともに見返すことができない。
「ともかく、今は手当てが先です」
「さっきから、そればかりだね」
「当たり前でしょう。あなたが倒れたら困るもの」
「君が困るの?」
「調査が進まなくなります」
「そこは期待した答えと違うな」
残念そうに言いながらも、ユアンの口元は嬉しそうに緩んでいた。
◇
救護室は、アリアナが幼い頃に使っていたままの場所にあった。
白い壁と薬品棚、簡素な寝台が二つ。窓辺には、消毒のために煮沸された包帯が干されている。
ユアンを寝台へ座らせ、アリアナは水差しと清潔な布を用意した。医師が到着するまでの応急処置にすぎないが、傷へ巻いた布はすでに血を吸いきっている。
「また脱いでください」
「故郷へ戻ってから、君はずいぶん大胆になったね」
「では、グレイ工場長を呼んできます」
「自分で脱ぐから、ここにいてほしい」
すぐに態度を改めたユアンが上着とベストを脱ぎ、裂けたシャツを持ち上げる。
アリアナが布を解くと、傷口からはまだ少量の血が滲んでいた。水で濡らした布を当てるたび、ユアンの腹部がわずかに強張る。
「痛いなら、そう言ってください」
「君が心配そうな顔で触れてくれるなら、少しくらい痛いほうが得かもしれない」
「そんなことを言っていると、本当に痛くしますよ」
「それも悪くない」
「重病ですね」
「君に関してだけはね」
冗談だと受け流すべきなのに、頬が熱くなってしまう。
口が軽いのは、女性とのやり取りに慣れているからで、遊び人だという何よりの証拠よ。
自分にしっかり言い聞かせ、彼の顔を見ないよう傷の周囲を拭い、新しい布を手に取った。背中へ回すために身を寄せると、ユアンの手がアリアナの腰へ伸びかけ、途中で止まる。
触れてよいか迷っているのだと気づき、胸がかすかに疼いた。
「支えるだけなら、構いません」
「今の言葉は忘れないようにするよ」
「傷の手当てをするときだけです」
念を押した途端、腰へ大きな手のひらが添えられた。引き寄せられたわけではない。それでも、シャツ越しに伝わる熱を意識してしまい、包帯を結ぶ指先がわずかに乱れる。
すぐ近くから、ユアンの低い声が落ちてきた。
「さっき、僕を婚約者だと言ってくれたね」
「実際、そういう契約でしょう」
「新聞に書かれたような人間ではないとも言ってくれた」
「あれは、形ばかりだとしても、自分の婚約者が女性にだらしないと思われたりするのが嫌だっただけです」
「僕を庇ってくれたわけではない?」
アリアナは結び終えた包帯の端を整えながら、答えを探した。
汽車から飛び降り、森を走り、傷を負っていても自分を守ろうとした彼を、根拠のない噂だけで判断されたくなかった。そう思ったことまで否定すれば、嘘になる。
「少しくらいは、庇ったのかもしれません」
「少しくらいでも、十分だよ」
嬉しそうな声に誘われて顔を上げる。
互いの鼻先が触れそうなほど、ユアンの顔が近くにあった。彼の瞳がアリアナの目から頬へ下り、やがて唇の辺りで止まる。
庭の小部屋で塞がれた唇の感触が、不意に蘇った。
逃げるべきだと思うのに、身体が動かない。ユアンの腰へ回していた腕にも、いつの間にか力が入っていた。
「アリアナ」
囁く声は、問いかけのように優しかった。
あのときとは違う。今度は危険を避けるためでも、声を封じるためでもない。
彼の顔がわずかに近づいた、そのときだった。
廊下から慌ただしい足音が響き、救護室の扉が強く叩かれた。




