24. おかえりの、その先
東の空が白み始めるにつれ、赤煉瓦造りの工場の輪郭がはっきりと浮かび上がってきた。
アリアナにとって、すべての始まりである場所。それなのに、王都へ移り住んでからの十年間、一度も戻ることができなかった。
新興貴族としてアークライト男爵家の令嬢にふさわしい振る舞いを身につけるため、息つく暇もないほど教育に追われ、純粋に故郷へ帰る時間がなかった――というのは、あとから塗り重ねた建前にすぎない。
慣れない貴族社会へどうにか馴染もうと足掻く家族を前にして、「昔の暮らしに戻りたい」などと我が儘を口にできるはずがなかったのだ。
何より、幼いアリアナ自身も、きらびやかな世界へ密かに憧れを抱いていた。
優雅に翻る美しいドレス、おとぎ話に出てくるような素敵な王子様、絢爛豪華な夜会で踊る紳士淑女たち。自分もいつか、その世界の一員になれるのだと胸を躍らせていた頃がある。
しかし、十七歳で華々しく社交界へデビューして間もなく、その憧れは冷たい現実によって打ち砕かれた。
平民から男爵位を得て成り上がったアークライト家は、常に陰口と好奇の視線に晒されていた。繊維産業で成功を収め、商会の名を冠した布地が流行の発信源になったといえば聞こえはよい。だが、王室へ最高級の生地を安価で納めていることさえ、歴史ある貴族たちにとっては「金で爵位を買った成り上がり」の卑しい迎合に映るらしい。
たとえこの先、アークライト家の娘が王子と婚姻を結ぶようなことがあったとしても、本当の意味で上流社会の一員として受け入れられることはないのだろう。
彼らが内心で蔑みながらも表面上の付き合いを保っているのは、国王が父の商才を高く評価し、王妃がアークライト家の織りなす布地を愛好しているからにすぎない。あるいは、新興貴族の娘についてくる莫大な持参金に目がくらんでいるだけだ。
そうした社交界の醜悪な裏側を知ってから、アリアナは自分の身勝手さを自覚しつつも、置き去りにしてきた故郷を恋しく思うようになった。
近づいてくる懐かしい景色を見つめるアリアナの隣で、ユアンが静かに問いかける。
「故郷の空気はどう?」
「澄んでいて、少し冷たいですわ。それから、かすかに機械油と綿糸の匂いがします」
「君の原点だね」
ユアンはアリアナと肩を並べ、遠くに見える煙突群を目を細めて眺めていた。
「ユアン様にとっても、原点のひとつではありませんか?」
「そうだね」
ユアンは低く答え、朝日を浴びるストーンハーストの街並みへ視線を巡らせた。
「ここには父が治める領地があり、領民たちの暮らしがある。いずれ僕が背負うことになる責任の重さを、初めて実感した場所だ」
いつもの軽薄な笑みは影を潜め、その眼差しには侯爵家の嫡男としての覚悟が宿っているように見えた。
「王都の華やかな夜会で交わされる、うわべだけの挨拶よりも、この油の混じった空気のほうが、よほど誠実に思えるときがある」
ユアンが不意にアリアナへ向き直り、柔らかく目を細める。
「だから、君がこの街を愛している理由もよく分かるよ」
「ユアン様……」
「行こう」
「はい。私の故郷で、好き勝手はさせませんわ」
「頼もしい相棒だ」
繋いだ手をしっかりと握り直し、アリアナは工場へ続く道を歩き始めた。
◇
正門へ続く道には近づかず、ユアンを連れて麦畑の脇を進んだ。夜勤を終えた者や早番の職人が行き交い始める時間である。工場内に敵の協力者がいる可能性を考えれば、誰に姿を見られるか分からなかった。
「正門を避けるの?」
「昔、染色場で使う薪を運び入れていた裏門があります。今はほとんど使われていないはずです」
「また、僕の知らない道だ」
「だから、私を連れてきて正解だったでしょう?」
振り返って得意げに言うと、ユアンはわずかに目を細めた。
「君を危険な目に遭わせたこと以外はね」
軽口ではなく、本気で悔いているような声だった。
アリアナは返事をせず、彼の腕を自分の肩へ回し直した。ユアンは歩けると主張しているものの、先ほどから呼吸が浅い。夜明けの光の下で見る顔は血の気を失い、額には薄く汗が浮かんでいる。
「もう少しです。着いたら、まず傷を診てもらいますからね」
「その前に、工場の安全を確かめないと」
「傷口を開いたまま歩き回るつもりですか?」
「君がもう一度、手当てをしてくれるなら悪くない」
「今度そんな冗談を言ったら、工場の医務員に任せます」
「それは困るな。急に傷が痛くなってきた」
わざとらしく眉を寄せる横顔を睨みながらも、アリアナは支える腕へ力を込めた。冗談を言えるだけの余裕が残っていることに、胸の奥で安堵している自分がいる。
裏門は、記憶にある場所へ今も残っていた。蔦に覆われ、鉄製の扉には赤錆が浮いているものの、南京錠だけは新しい。
「閉まっていますね」
「鍵は?」
「ありません。でも、塀の一部が崩れている場所を知っています」
アリアナが周囲を見回して歩き出そうとすると、ユアンに腕を引かれた。
「待って。そこまでしなくても、これくらいなら開けられる」
ユアンは髪へ隠すように差していた細い金属の飾りを抜き、南京錠の鍵穴へ差し込んだ。
「そんなものまで持ち歩いているのですか?」
「身だしなみには気を使う性分でね」
「髪を整える道具には見えませんけれど」
「僕ほど女性から人気があると、寝室や衣装部屋へ閉じ込められることもあるんだよ」
何度か金属の触れ合う音がしたあと、南京錠が小さく外れた。
アリアナは開いた錠と、涼しい顔で怪しげな金属を髪の中へ戻すユアンを交互に見た。
「一体、どんな人生を送ってきたの?」
「君が婚約を解消するまでには、少しずつ話すよ」
「解消する前提なら、聞く必要はないと思いますけれど」
「君がすべてを聞き終える頃には、解消したくなくなっているかもしれない」
「ずいぶんな自信ですこと」
「君のことに関しては、自信というより希望に近いかな」
意味を尋ねるより先に、ユアンは扉を押し開けた。錆びた蝶番が軋み、二人がどうにか通れるほどの隙間が生まれる。
敷地へ足を踏み入れた途端、懐かしい匂いがアリアナを包み込んだ。
染料のわずかに酸っぱい香り。機械油と石炭、それから洗った羊毛に残る獣の匂い。それらが混じった工場特有の空気は、王都で開かれる夜会で香る香水よりもずっと心を落ち着かせてくれる。
「懐かしい」
思わずこぼれた呟きに、ユアンが隣から問いかけた。
「好きなんだね、ここが」
「ええ。子供の頃は、お父様について毎日ここで遊んでいました。織機の下へ潜り込んで、何度叱られたか分かりません」
「今の君を見ていると、容易に想像できるよ」
「今は、それほど無鉄砲ではありませんから」
「走っている汽車から飛び降りたばかりの人が言っても、説得力がないな」
言い返しかけたとき、ユアンの身体がふらついた。
とっさに抱き留めたものの、アリアナだけでは支えきれず、二人揃って壁へ手をつく。ユアンの重みがのしかかり、頬へ彼の熱い息が触れた。
「ユアン、本当に大丈夫?」
思わず敬称を忘れて名前を呼ぶと、彼の瞳がわずかに見開かれた。
「もう一度、呼んでくれない?」
「今はそれどころではありません」
「これを逃したら、次はいつ聞けるか分からないから」
額が触れそうな距離で見つめられ、アリアナは息を詰めた。ユアンの顔は青白いのに、こちらを見つめる瞳だけは熱を帯びている。
「その傷で倒れたら、何度でも呼びます」
「それなら、もう少し倒れていようかな」
「すぐに起きてください」
アリアナが肩を押すと、ユアンは低く笑った。しかし、その笑みはすぐに苦痛へ歪む。
やはり、これ以上歩かせるべきではないようだ。
「医務室へ行きます。異論は認めません」
「その前に、東倉庫を見ておきたい」
「どうして?」
ユアンは答える代わりに、工場の奥へ視線を向けた。
煉瓦造りの建物の東側に、荷下ろし用の広場がある。本来なら貨物列車が到着するまで使われない場所だが、今朝は倉庫の前に幌付きの荷馬車が止まり、何人かの男たちが行き来していた。
「あんなに早くから、何をしているのかしら」
「荷物を受け入れる準備にしては、少し大がかりに見えるね」
工場へ届くはずの木箱は、まだ王都から輸送されている途中のはずだ。それなのに、荷馬車には縄や滑車、運搬用の台車まで積まれていた。
「汽車に乗っていた私たちを襲った以上、敵も計画が知られていることには気づいたはずです。それでも、木箱を運び込むつもりなのかしら」
「いや。あの荷馬車は、木箱を受け取るためだけに用意されたものではないのかもしれない」
ユアンは痛む脇腹を片手で押さえながら、険しい目で荷馬車の周囲を観察していた。呼吸はかすかに乱れているが、その眼差しには鋭さが残っている。
「どういうことですか?」
「僕たちが列車でストーンハーストへ向かっていると知られた時点で、向こうも計画を繰り上げた可能性がある。東倉庫から何かを持ち出そうとしているのかもしれない」
「何かって……」
「罪を擦りつけられるような帳簿や書類、あるいは工場に残しておけない証拠。単純に、価値の高い資材を奪って逃げる可能性もあるね」
アリアナは息を呑んだ。
もしそうなら、偽物へすり替えた木箱が到着するのを待つまでもなく、敵の工作は最終段階へ入っていることになる。
東倉庫は、高級絹織物や上質な綿布、染料などを保管する重要区画だ。二階には事務所も併設されている。もし、仕入れや出荷の帳簿類が保管されているその事務所で火災や爆発が起きれば、どの商品がどれだけ失われたのかさえ、正確に証明できなくなってしまうだろう。
どっちにしろ、最悪な計画が進んでいることは間違いなさそうだ。
「急がなくちゃ」
「君だけでも先に医務室へ――」
「傷を負っているのは、あなたのほうです」
アリアナはユアンの腕を自分の肩へ回し直し、その身体をしっかりと支えた。
「ここまで来た以上、最後まで付き合っていただきます。ただし、倒れないこと。それが条件です」
「つれないな。ここで休んでいろと言ってくれると思ったのに」
「そう言って、素直に休む方ですか?」
「君がそばにいてくれるなら」
「でしたら、休ませません」
ユアンは一瞬驚いたように目を見開いたあと、降参したように笑ってアリアナへ体重を預けた。
二人は物陰へ移動し、広場を行き来する男たちへ目を凝らす。
「あれは、工場の人たちではありません」
「分かるの?」
「帽子が違います。うちでは機械へ巻き込まれないよう、つばの狭い作業帽を支給しています。それに、あの人たちが着ている上着は袖が長すぎるわ」
「外から雇われた運搬人かもしれない」
「その可能性はあります。でも、工場の荷物を出し入れするときは、必ず責任者が立ち会う決まりです」
ところが広場には、アリアナの知る工場の人間が一人も見当たらない。
十年のあいだに顔ぶれが変わった可能性はある。それでも、倉庫の責任者らしき者さえいない状況で、外部の人間だけに準備をさせるとは考えにくかった。
「普通の受け入れ作業ではなさそうだわ」
「工場内の情報を、敵へ流している者がいるんだろうね」
「ええ。それも、輸送の手順だけでなく、倉庫の管理体制まで詳しく知っている人です」
工場で働く者の顔が次々と脳裏へ浮かび、アリアナの胸が重くなる。幼い頃から知っている職人たちの中に、工場を陥れようとする者がいるとは思いたくなかった。
しかし、ここで感情に流されれば敵を見落としてしまう。
「このまま工場長のところへ行きます。グレイ工場長は、お父様が誰よりも信頼している人です」
「案内してくれる?」
「もちろんです。ですから、今度こそ倒れないでください」
「君が手を繋いでくれるなら、努力するよ」
「支えるためですからね」
念を押しながら差し出した手を、ユアンが握る。
初めは手のひらを重ねただけだった。それなのに彼の指がゆっくりと動き、いつの間にかアリアナの指の間へ入り込んでいた。
森の中と同じ繋ぎ方に、胸の奥がかすかに疼く。
「支えるだけなら、指を絡める必要はあります?」
「このほうが離れにくい」
「本当に?」
「僕の精神的な安定にも役立つ」
「それは知りません」
呆れた声を出しながらも、アリアナはその手を振りほどかなかった。




