23. ただいま
古い羊飼い小屋は、アリアナの記憶にある姿よりも荒れていた。
屋根の一部が崩れ、扉も半ば朽ちている。それでも風を避け、傷の手当てをするには十分だった。
アリアナはユアンを壁際へ座らせると、窓へ古い布を掛け、外から中を見通せないようにした。火を使えば追っ手へ居場所を知らせてしまうため、崩れた屋根の隙間から差し込む月明かりだけを頼りにするしかない。
「上着を脱いでください」
「ずいぶん積極的だね」
「置いていきますよ」
「すぐに脱ぎます」
ユアンが上着とベストを脱ぐ。布の向こうに覗く肌と引き締まった身体を意識してしまい、アリアナは慌てて血の滲む脇腹部分へ視線を集中させる。
「これも脱ぐんだよね?」
彼がシャツへ手をかけたところで、声をかけた。
「脱がないでください」
「脱げと言ったり、脱ぐなと言ったり、なかなか難しい注文だな」
「傷口に布が張りついているんです。無理に腕を抜こうとすれば、せっかく塞がりかけた傷が開いてしまうかも知れないから」
シャツの右脇に血を吸った布が肌へ貼りついている。この状態で頭から脱がせれば、布が患部を擦り、出血がひどくなるかもしれない。
少し前の傷が開いたと、ユアンは言っていた。
「まさか女性に刺されたの?」
緊張の連続で疲れているせいか、思った事が口から滑り落ちてしまう。
「女性の手傷か。なかなかドラマチックな想像だけど、残念ながら男に刺された傷だよ。もっとも、相手に愛がなかったとは言い切れないけど」
ユアンは痛みを紛らわすように軽口を叩き、唇の端に歪んだ微笑を浮かべた。
「無駄口を叩かないでください。……ハサミを使うから、動かないで」
呆れたように小さく息を吐き出し、仕事着のポケットへ手を入れ、小さな裁縫鋏を取り出す。
「そんなものまで持ち歩いているの?」
「糸がほつれたときに使うんです。それに、こういうときにも役に立つでしょう?」
「まさか、その鋏で傷を縫うつもりではないよね?」
「そんなわけないでしょう。シャツを開くんです」
アリアナはユアンの隣へ膝をつき、裂けた布の状態を確かめた。幸い、血が滲んでいるだけで、生地そのものへの損傷は少ない。
「布を切ってしまうと、あとで直すのが大変です。でも、縫い糸だけを解けば、傷へ触れずにシャツの前身頃と後ろ身頃を必要な部分だけ開けられます」
「こんな暗がりで、布と糸を見分けられるの?」
「誰に聞いているんですか?」
アリアナは少しだけ胸を張り、鋏の先を脇縫いへ差し入れた。
肌を傷つけないよう、片方の手でシャツをわずかに浮かせる。指先へユアンの体温を感じるたびに鼓動が乱れそうになったが、今はそれどころではない。
「動かないでくださいね」
「君の顔が近いせいで、動く余裕もないよ」
「口は閉じていてください」
布地まで切らないよう、縫い糸だけを一本ずつ選び、慎重に鋏を入れていく。小さな音とともに糸が切れ、脇の縫い合わせが少しずつほどけていった。
やがて、シャツの前身頃と後ろ身頃が左右へ分かれ、血に濡れた傷の周囲が露わになる。
張りついた部分は無理に剥がさず、肌を傷つけないよう布をそっと離していく。
ユアンの腹部が、痛みに耐えるようにわずかに強張った。
「痛む?」
「君の顔が近すぎて、傷どころではない」
「真面目に答えてください」
「かなり痛い」
「最初から、そう言えばいいのよ」
現れた傷は、思っていたより深い。しかも、長く走ったせいで傷口が開き、出血が続いていた。素人目に見ても、縫合が必要な傷である気がした。
「本当に、君は縫い目に詳しいんだね」
「人の傷より、布の縫い目を解くほうが得意ですから」
アリアナは切り開いたシャツの端を傷へ触れない位置へ折り返す。
「これなら、手当てが終わってから縫い直せます。あなたが大人しくしていれば、ですけれど」
「服も僕も直してくれるなんて、頼もしい婚約者だ」
「服は直します。あなたを直せるかどうかは、保証できませんわ」
「それは残念だな」
軽口を返す声に安堵しながらも、アリアナは表情を緩めなかった。傷口から滲む赤い血を見れば、無事だった喜びより、彼が負傷しているという事実のほうが重く胸へ迫ってきた。
「血が出てるから、とりあえず当て布をしておかないと」
アリアナは首へ巻いていた布を外し、傷口へ押し当てた。
ユアンの身体がわずかに強張る。
「少し我慢してください」
傷へ布を巻くため、ユアンの背中へ腕を回す。
必然的に身体が近づき、頬が彼の胸元へ触れそうになる。薄闇の中で、ユアンが息を呑む気配がした。肌越しに伝わる心音が先ほどより速く感じられるのは、傷の痛みだけが理由ではないのかもしれない。
こんな時なのに、そのことが少し嬉しくて勝手に頬が緩む。
そんな自分を不謹慎だと密かに叱り、唇を噛んで布を握る腕を彼の背中に回す。しかし、必要以上に触れないようにしているせいか、布をうまく背中側へ渡せない。
「少し前へ屈んでください」
「これ以上近づいたら、別の意味で危険だと思うけれど」
「まだ冗談を言う余裕があるなら、置いていっても大丈夫そうですね」
「それは困る」
ユアンは素直に身体を屈めた。
アリアナの頬へ、彼の少し湿った髪が触れる。吐息が耳元をかすめた途端、指先が震えそうになった。
触れ合う場所のすべてが熱を持っているようで、ただ傷の手当てをしているだけとは思えなくなる。それでもアリアナは呼吸を整え、布の端を固く結んだ。
「できました。しばらく激しく動かないでください」
「追っ手が諦めてくれるなら、そうしたいところだね」
身体を離そうとしたところで、ユアンの手がアリアナの腕へ触れた。
強く掴まれたわけではない。引き留めてもよいか確かめるような、控えめな触れ方だった。
アリアナが振り払わずにいると、彼の指はゆっくりと手首へ下りてくる。その指先の熱さに、心臓が大きく跳ねた。
「どうして、そこまでして僕を助けてくれるの?」
「あなたが怪我をしたからです」
「それだけ?」
低い声で問われ、アリアナは顔を上げた。
薄闇の中で、ユアンの青い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。逃げ道を塞ぐような強さはない。それでも、曖昧な答えを許さない静けさがあった。
彼の瞳に映る自分の姿を見つけ、アリアナは息をひとつ整えた。
「あなたが怪我をしていると分かったとき、怖かったから」
口にしてから、自分の言葉に驚く。
「その理由は、私にも分かりません」
ユアンはすぐには答えなかった。
やがて、アリアナの手首に触れていた指が手のひらへ移る。今度は指を絡めることも、強く握ることもせず、ただ静かに掌を重ねてきた。壊れやすいものを扱うような、優しい触れ方だった。
「今はそれで十分だよ」
「何がです?」
「理由が分からないままでいいってこと」
ユアンの声は穏やかだった。夜風よりもなお静かなその声に、アリアナの警戒心が少しずつ解けていく。
「僕も、君が汽車から飛び降りたとき、息が止まるほど怖かった。契約上の婚約者だからというだけなら、あんな気持ちにはならなかったと思う」
握られているわけでもないのに、重ねた手のひらが熱い。その熱は、傷の手当てで火照った肌の温度とは、まるで違う種類のものだとアリアナにも分かった。
何か答えようとしたものの、言葉が見つからない。
ユアンも返事を求めず、ただ手を重ねたままでいる。言葉のない時間さえ心地よく感じられ、そのことにますます戸惑った。
そのとき、小屋の外で枝を踏む音がした。
二人は同時に顔を上げる。
「この辺りを探せ!」
追っ手の声が、すぐ近くから聞こえてきた。
ユアンは音を立てずに立ち上がり、アリアナを背後へ庇う。だが、傷が痛むのか、その身体がわずかに傾いた。
咄嗟に彼の腕を支える。
「裏に、飼料を運び出すための小さな扉があったはずです」
「まだ使える?」
「十年前の記憶が正しければ」
「君の記憶を信じるよ」
ユアンにジャケットとベストを押し付けると、手探りで小屋の奥へ進んだ。
積み上がった古い板を静かに退けると、腰ほどの高さしかない木戸が現れる。アリアナが錆びた留め金を外した途端、湿った夜気が流れ込んできた。
表の扉へ、男たちの足音が近づいている。
「君が先に行って」
「あなたが先です。怪我人でしょう」
「こういうときまで譲らないんだね」
「今さら気づいたの?」
ユアンは小さく笑い、身を屈めて木戸を抜けた。アリアナもそのあとへ続き、外から目立たないよう静かに扉を閉める。
二人が小屋の裏手に広がる藪へ身を隠した直後、表の扉が乱暴に蹴破られた。
「誰もいないぞ!」
「まだ遠くへは行っていないはずだ。探せ!」
声が別の方向へ遠ざかるのを待ち、アリアナはユアンの耳元へ口を寄せた。
「ここから一度森に戻って、旧牧道へ出ます。工場までは歩いて二時間ほどです」
触れそうな距離で囁くと、ユアンの頬がわずかに強張った。
「その身体で歩ける?」
「それは僕の台詞だよ」
「私は怪我をしていないもの。全然平気よ」
「汽車から飛び降りたばかりだ」
互いに譲らず見つめ合ったあと、アリアナは小さく息を吐いた。
「では、二人とも無理をしすぎないようにしましょう」
「ようやく意見が一致したね」
今度は、どちらからともなく手を差し出した。
重なった指をしっかりと絡め、二人は追っ手の声から離れるように森の奥へ進んでいく。繋いだ手の中で、ユアンの指が一度だけ、確かめるようにアリアナの指を握り直した。
その小さな仕草が、言葉よりも雄弁に何かを伝えている気がした。
◇
夜が明け始める頃、木々の向こうに見覚えのある煙突が浮かび上がった。
広い麦畑と牧草地。その先には、赤煉瓦造りのアークライト・ファブリックの工場がある。まだ始業前だというのに、煙突からは細い煙が立ち上り、朝の空へ溶けていた。
「ストーンハーストだわ」
懐かしい景色を前に、アリアナは足を止めた。
十年間、何度も夢に見た故郷だった。ところが胸へ込み上げてきたものは、思い描いていたような単純な喜びではない。
隣には、王都で出会ったばかりの男がいる。衣服は泥に汚れ、脇腹にはアリアナが巻いた布があり、それでも繋いだ手を離そうとはしない。
ユアンは故郷の景色ではなく、アリアナの横顔を見つめている。
夜明けの淡い光の中で向けられる眼差しには、いつもの軽口も余裕もなかった。飾りをすべて剥がしたような真っ直ぐさに、胸が落ち着かなくなる。
「おかえり、アリアナ」
静かに告げられた言葉が、胸の奥へ深く染み込んだ。
故郷へ帰れば、最初にその言葉をかけてくれるのはサイモンだと思っていた。けれど今、アリアナの帰りを迎えてくれたのはユアンだった。繋いだ手のぬくもりが、その事実を何よりも確かなものにしている。
「ただいま」
そう答えた声は、自分で思っていたよりも柔らかかった。




