22. 夜の森を抜けて
森へ踏み込んだ途端、月明かりは密生した枝葉に遮られ、足元さえ見えなくなった。
アリアナはユアンに手を引かれ、木々の間を縫うように走った。落ち葉に隠れた木の根へ何度もつまずきかけるが、そのたびに繋がれた手が力強く引き上げてくれる。指を絡めているわけでもないのに、その手のひらだけが、暗闇の中で唯一確かなものに思えた。
背後からは、追っ手たちの声が近づいてくる。
「二人とも森へ入ったぞ!」
「遠くへは行けない。二手に分かれろ!」
男たちの声に交じり、猟犬の吠える音まで聞こえてきた。
「犬まで連れているなんて、用意がよすぎませんか?」
「最初から汽車を止め、僕たちを森へ追い込むつもりだったんだろうね」
息を切らしながら答えるユアンの声は平静だったが、握る手には普段より強い力がこもっている。その力に、彼なりの必死さが表れている気がして、アリアナも繋いだ手を握り返した。
前方に倒木が迫り、ユアンが先に飛び越える。続こうとしたアリアナの足が、湿った苔に滑った。
「うわっ!」
「アリアナ!」
腰を抱かれ、身体が宙へ浮く。
ユアンはアリアナを抱えるようにして倒木の向こうへ降ろした。触れた腕から、激しく脈打つ鼓動が伝わってくる。それが自分のものなのか、彼のものなのか、一瞬分からなくなるほど近い距離だった。
「怪我は?」
「ありません。でも、そろそろ離していただけます?」
「名残惜しいな」
「追われているときまで、ふざけないでください」
「こうでも言わなければ、怖がっていることが君に知られてしまいそうだから」
思いがけない言葉に、彼を見上げた。暗がりのため表情までは読み取れない。それでも、腰へ回された腕がわずかに震えていることには気づいた。
ユアンも怖いのだ。
侯爵家の跡取りであろうと、何事にも動じない放蕩者として知られていようと、恐怖を感じないはずがない。彼はただ、いつもの軽口でそれを隠しているだけなのだ。
当たり前の事実に触れたことで、アリアナの胸にあった緊張が少しだけ形を変えた。強がる彼を抱きしめてしまいたいという、柄にもない衝動さえ込み上げてくる。
「私も怖いです」
「君がそれを認めるとは意外だな」
「失礼ね。怖いものくらいあります」
「例えば?」
「今は、後ろから追ってくる武装した男たちです」
「僕に嫌われることではなく?」
「どうして、あなたに嫌われるのを怖がらなくてはいけないのよ」
「残念。まだそこまでではないらしい」
軽口を交わすあいだも、ユアンの指先はアリアナから離れなかった。むしろ答えを探るようにそっと動き、指の間へ滑り込んでくる。
触れ合う面積が少し増えただけなのに、心臓が急に速さを増した。
「あなたは、世の女性が一人残らず自分を好きでなければ、死んでしまう病気なの?」
「重病かもしれないね。特に、君に嫌われることだけは耐えられそうにない」
ユアンは悪びれもせずに微笑むと、アリアナの指へ自分の指を深く絡めた。
「……そういう軽口で、何人の女性を惑わしてきたのですか?」
「失礼だな。本気で言っている相手は、目の前にいる一人だけだよ」
「信じられません」
アリアナはつんと顔を背けたものの、絡められた指をほどくことはしなかった。
外すタイミングを逃しただけだと自分に言い聞かせる。それでも、握り返される力に頼もしさを覚えているのも事実だった。
「今夜はただ、僕の重病につきあってくれればいいよ」
「都合のいい病気ね」
呆れ交じりに息を吐くと、ユアンの唇へ満足げな笑みが浮かんだ。
わずかに空気が緩んだところで、二人は再び走り出した。
森の奥へ進むにつれ、追っ手の声は左右へ分かれていく。猟犬の鳴き声も、先ほどより遠ざかっていた。
やがて前方から、水の流れる音が届いた。
「川がある」
「川ではありません。たぶん、古い灌漑水路です」
「分かるの?」
アリアナは息を整えながら、湿った風の匂いを確かめた。
「この辺りに群生している白樺と、水路脇に露出した白い石灰岩には覚えがあります。ここはもう、ストーンハースト侯領の中だわ」
近くにあった木の幹へ手を触れると、苔の下に古い刻印が残っていた。円の内側へ三本の麦穂を配した、ストーンハースト侯爵家の紋章だ。
「ここはアルダーの森だわ。ということは、水路に沿って北へ進めば、使われていない羊飼い小屋があるはず。その先の旧牧道は、工場の東側へ続いています」
「僕の領地なのに、君のほうが詳しいね」
「十年以上暮らしていたんです。あなたが王都の夜会で令嬢たちを口説いていた頃にも、私はこの森を走り回っていましたから」
「子供時代の話にまで、僕の女性関係を持ち込まないでくれないか」
「日頃の行いです」
アリアナは水路へ足を踏み入れた。
水深は踝ほどしかなかったものの、夜の水は身を切るように冷たい。二人は足跡と匂いを途切れさせるため、しばらく流れに逆らって進んだ。
その途中、不意に繋いでいたユアンの手から力が抜けた。
振り返ると、彼は水路脇の木へ片手をつき、苦しそうに眉を寄せている。
「ユアン様?」
「何でもない。少し足を滑らせただけだ」
「嘘をつかないで」
近づいて目を凝らすと、ユアンの上着の脇腹付近が黒く濡れていた。水ではない。布へ触れた指先に、鉄錆のような匂いを持つ液体がつく。
「血が出ているじゃない!」
「汽車から飛び降りたとき、少し前に作った傷が開いたらしい。大した傷ではないよ」
「これのどこが大したことではないのですか?」
アリアナが睨みつけると、ユアンは困ったように笑った。
「君が無事だったから、それでいい」
あまりにも当然のように告げられ、胸が強く締めつけられる。
こんなときにまで調子の良いことばかり口にする彼を腹立たしく思うのに、同じくらい大切に思う気持ちが込み上げてきた。愛おしいとさえ思いかけたことに自分で戸惑い、アリアナは誤魔化すように眉を寄せる。
「よくありません。羊飼い小屋まで、あと少しです。肩を貸しますから、歩いてください」
「君に支えてもらうほどでは――」
「婚約者の命令です」
「その言葉を、こんなに早く使いこなすようになるとは思わなかったな」
ユアンは軽口を叩きながらも、差し出された肩を拒まなかった。
腕をアリアナの肩へ回し、互いの身体を支えながら水路沿いを進んでいく。密着した脇腹から伝わる体温と重みが、彼が本当に傷ついていることを嫌でも実感させた。
同時に、こんな状況でなければ決して許さなかったであろう距離の近さに、アリアナの頬は密かに熱を持った。




