21. 掴んだ手
鉄道員に扮する男が上着の内側へ手を入れた瞬間、ユアンが素早くテーブルを蹴り上げた。地図が宙へ舞い、跳ね上がった天板が男の腕へ激突した。手からこぼれた短銃が床を滑り、駆け込んできた護衛の足元で止まる。
「えっ、何が起きたの!?」
騒ぎで目を覚ましたオリビアが息を呑む。
デレクは立ち上がると、咄嗟に彼女を庇うように前へ出た。
「オリビア嬢とデレク君を、後方の客車へ!」
ユアンの指示を受け、護衛が二人を扉の外へ促す。
「アリアナも一緒に行って!」
「あなたを一人にできません!」
「こういうときくらい、素直に言うことを聞いてくれ!」
「私はいつだって素直だわ!」
廊下では別の護衛たちが応戦しているらしく、金属のぶつかる鋭い音が続いている。
そのとき、汽車が不自然に速度を落とし始めた。
窓の外へ目を凝らしても、駅の灯りは見当たらない。月明かりの下に広がっているのは、森と、草に覆われた斜面だけだった。
「線路脇にも仲間がいる」
ユアンは窓から前方の様子を確かめる。
「偽の停止信号を出して、ここで汽車を止めるつもりだ」
「止まったら、囲まれるということ?」
「ああ。連中が狙っているのは、僕と君だ」
ユアンは車外へ通じる扉を開ける。冷たい夜風が激しく吹き込み、帽子をさらおうとする。
汽車は速度を落としているものの、まだ完全には止まっていない。
「飛び降りるしかなさそうだ」
「本気ですか?」
「完全に止まる前なら、線路脇の斜面へ降りられる。僕たちが汽車から離れれば、連中も追ってくるはずだ。オリビア嬢たちは、護衛と一緒に次の駅まで逃げられる」
背後で、客室の扉が大きく軋んだ。
アリアナは車外へ目を向ける。線路脇には柔らかな草に覆われた土手が続き、その先には暗い森が広がっている。
ドレス姿であれば、考えるまでもなく不可能だっただろう。
アリアナは帽子を深くかぶり直し、ジャケットのボタンを上までしっかり留めた。
「分かりました。行きます」
「怖くない?」
「怖いに決まっています。でも、捕まるほうが嫌です」
強がって答えたものの、窓の外を流れていく暗い斜面を見れば、足が竦みそうになる。速度が落ちているとはいえ、汽車はまだ走っているのだ。一歩踏み出す場所を誤れば、無事では済まない。
ユアンはそんなアリアナの顔を見つめたあと、静かに右手を差し出した。
「手を貸して」
「あなたが先に飛び降りるのでしょう?」
「ああ。だから、その前に」
アリアナが戸惑いながら手を重ねると、ユアンは指を深く絡め、強く握り返した。
手袋越しでも分かるほど、その手は熱かった。
「今度こそ、僕から離れないで」
「先に手を離すのは、あなたじゃない」
「一度だけだよ」
ユアンの親指が、確かめるようにアリアナの手の甲をゆっくりとなぞる。
「君を受け止めるために、今だけ手を離す。けれど、合図をしたら、僕だけを見て飛んでくれ。必ずもう一度、この手で君を掴むから」
冗談を交えない低い声が、列車の轟音を縫って胸の奥まで届いた。
握られた手から伝わる熱に意識を向けると、荒れていた呼吸が少しずつ整っていく。汽車から飛び降りるのが怖くないわけではない。それでも、暗い斜面の先にユアンが待っていると思えば、足を踏み出せるような気がした。
「もし、掴み損ねたら?」
「何があっても、君だけは守る」
「答えになっていません」
「なら、約束する。君が手を伸ばすかぎり、僕は何度でも掴むよ」
真っ直ぐな眼差しを受け、アリアナの胸が強く締めつけられた。
期限つきの婚約者に向けるには、あまりにも重い言葉だ。
「あなたを、信じます」
口にした瞬間、ユアンの瞳がわずかに揺れた。
「それは光栄だな」
軽く笑った声は、いつもより少し掠れていた。
背後の扉が大きく軋み、木板に亀裂が走る。もう時間がない。
それでもユアンはすぐには手を放さなかった。絡めた指へもう一度力を込め、その温度を覚えさせるように握りしめる。
「次に手を繋ぐまで、少しだけ待っていて」
「早くしてください」
「ああ。すぐ迎えに行く」
二人の指が、ゆっくりとほどけていく。
最後まで触れ合っていた指先が離れた瞬間、そこだけが夜気に晒されたように冷たくなった。けれど、不思議と先ほどまでの恐怖は薄れている。
扉がとうとう破られた。
「二人を捕まえろ!」
男の怒声が響くのと同時に、ユアンが開け放たれた客室の扉から身を躍らせる。
草の斜面へ転がり落ちながらも、すぐに体勢を立て直し、速度の落ちた汽車と並ぶように走った。
「アリアナ!」
追っ手の足音が背後へ迫る。
アリアナはほかの何も見ず、暗闇の中から差し出されたユアンの手だけを見つめた。
先ほどまで自分の手を包んでいた、あの手だった。
車外へ通じる足掛けを蹴り、躊躇わずに身を投げる。
身体が一瞬、夜の空中へ投げ出された。
次の瞬間、伸ばされたユアンの腕が、約束どおりアリアナの身体を抱き止めた。
勢いを殺しきれず、二人は縺れ合ったまま草の斜面を転がっていく。ユアンは腕の中へアリアナを抱え込み、自分の身体を下にして、何度も地面へ背中を打ちつけていた。
やがて柔らかな草の上で止まり、アリアナは詰めていた息を吐いた。
目を開けると、すぐ上にユアンの顔がある。彼は片腕でアリアナの頭を庇い、もう一方の腕で腰をしっかりと抱いていた。
互いの呼吸が乱れ、胸が触れ合うほど近い。
「怪我は?」
問いかける声には、自分の痛みなど少しも気にしていないような切迫感が滲んでいた。
「だ、大丈夫です」
「本当に?」
ユアンの手が、確かめるようにアリアナの頬へ近づく。しかし、汽車から飛び降りた直後でさえ約束を思い出したのか、指先はわずかな距離を残して止まった。
その躊躇いが、今はもどかしい。
アリアナは自分でも理由が分からないまま、止まった彼の手へ頬を寄せた。
「今は、触れてもいい状況よ」
ユアンの瞳が、驚いたように揺れる。
やがて大きな手のひらが、壊れ物を扱うようにアリアナの頬を包んだ。
「無事でよかった」
掠れた声が、ひどく近くで響く。
アリアナの胸が別の意味で苦しくなった、そのときだった。
汽車が停止する耳障りな金属音に続き、斜面の上から男たちの怒声が聞こえてくる。
ユアンの表情が瞬時に引き締まった。
「追ってきた。走れる?」
「この格好を選んで正解だったみたい」
「ああ。君の先見の明には、心から感謝するよ」
ユアンは素早く立ち上がり、アリアナの手を取った。
二人は追っ手の声を背に、月明かりも届かない森の奥へと走り出す。




