20. いざ、ストーンハーストへ
北行きの急行列車が王都を離れる頃には、空はすっかり暮れていた。
一行が乗り込んだのは、各客室に直接出入り口が付いているタイプの一等客室だ。護衛たちは前後の客室へ分かれ、異変があればすぐに駆けつけられるよう配置されていた。
窓の外では、闇に沈んだ田園風景が後方へ流れていく。車輪が線路の継ぎ目を踏む規則的な音と、機関車の低い響きが、床や座席を絶えず震わせている。
デレクは似顔絵を複写するため、先ほどからクロッキー帳へ鉛筆を走らせていた。その隣では、オリビアが作業を邪魔するように彼の肩へ寄りかかり、安らかな寝息を立てている。
デレクはオリビアを起こさないよう身体を動かさず、少し窮屈そうに鉛筆を器用に動かしている。困っているようにも見えるが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
案外、お似合いなのかも知れない。
両親が手を焼くオリビアだが、アリアナからすれば、貴族と呼ばれるようになっても自分らしさを貫く姉は誇らしい存在だ。
だからできれば幸せになって欲しい。
デレクの肩にすっかり体重を預けているオリビアを見つめながら、アリアナは密かに胸を温めていた。家柄や体裁ばかりを気にする王都の貴族たちとは違い、目の前の二人の間には、飾らない確かな空気が流れている。
もしデレクが義理の兄になるなら、きっと笑顔でいられそうな気がする。
ふと、隣から注がれる視線に気づいて顔を横に向ける。
ユアンが膝の上にストーンハースト侯爵領の地図を広げたまま、柔らかく目を細めてアリアナを見つめていた。
「微笑ましい光景だね。君が良い妹なのが伝わってくるよ」
「……ただ、姉がご迷惑をおかけしていないか心配なだけですわ」
アリアナは小さく咳払いをして誤魔化すと、ユアンの膝の上にある地図へ視線を落とした。先ほどまでの穏やかな空気から一転、二人の間には再び緊張感が走り始める。
「木箱は、明朝ストーンハースト中央駅へ到着する予定だ。父の部下には、運搬を止めず、受け取りに来た者を追うよう伝えてある」
「中身は、本当にすべて入れ替えたのですよね?」
確認せずにはいられず、アリアナは何度目かになる問いを口にした。
北駅で発見した三つの木箱には、工場で使う交換部品ではなく爆弾が入っていたらしい。鉄道警備隊の技師が慎重に解体し、安全な場所へ運び出してくれたものの、発見できなかった場合を考えると、今でも背筋が凍る。
「ああ。重い鋼鉄部品の代わりに、ほぼ同じ重量になるよう屑鉄や木材を詰めてある。持ち上げたときの重心まで不自然にならないよう、念には念を入れたよ」
「それなら、途中で乱暴に扱われても爆発する危険はありませんね」
ようやく少し安心し、アリアナは車窓の闇へ視線を向けた。
夜の静けさに包まれた客室には、列車の規則的な振動と、デレクが走らせる鉛筆の音だけが響いている。オリビアの穏やかな寝息が、緊迫した状況には不似合いなほど長閑だった。
「問題は、あの男女がどこに潜んでいるかだね」
「工場を監視できる場所なら、東側の丘かもしれません。以前は牧草地でしたが、今は使われていない納屋がいくつか残っています」
「詳しいんだね」
「生まれ育った場所ですから」
ストーンハーストへ近づくにつれ、懐かしさが胸の奥から込み上げてくる。
サイモンは今も、あの牧場で暮らしているのだろうか。十年前と変わらない笑顔で、アリアナを迎えてくれるだろうか。
「楽しみ?」
不意に尋ねられ、アリアナはユアンへ目を戻した。
「何がです?」
「故郷へ帰ることが」
「もちろんです。こんな事情でなければ、もっと楽しみにできたと思いますけれど」
「会いたい人もいる?」
胸が小さく跳ねた。
「どうして、そんなことを聞くのですか」
「君がストーンハーストの話をするとき、ときどき、とても優しい顔をするから」
ユアンの声は穏やかだったが、その眼差しからは、いつもの軽薄さが消えている。
「それに、オリビア嬢から聞いた。君は幼馴染を一途に想っているらしいね」
何と答えればよいのか分からず、窓へ視線を戻した。
脳裏に浮かんだのは、愛嬌のある笑顔と、いたずらっぽく輝く瞳を持つサイモンの姿だった。牧場の柵へ並んで腰掛け、二人で将来について話したこともある。
あの頃は、きっと互いに同じ気持ちを抱いていた。何でも言い合える心地よさと、幼い頃から当たり前のように育んできた淡い情愛。父が男爵位を授からず、自分が王都へ移り住むこともなければ、今頃は彼と穏やかな家庭を築いていたのかもしれない。
それなのに今は、横にいる男から向けられる静かな眼差しにも、胸を乱されている。
「……昔からの知り合いがいるだけです」
そう答えることに、長年抱いてきたサイモンへの想いを裏切るような後ろめたさがあった。
「男性?」
「事件とは関係ありません」
「否定はしないんだね」
わずかに低くなった声音が気にかかり、アリアナはユアンの顔を窺った。
彼はすでに地図へ目を落としていたが、紙の端を押さえる指には、先ほどよりも強く力が入っているように見える。
もしかして、嫉妬しているのだろうか。
そんなはずはないと、すぐに打ち消す。
ユアンは女性の敵と呼ばれるほどの遊び人であり、誰か一人の女性へ心を傾けるような男ではない。だから、自分の幼馴染に嫉妬する理由などないはずだ。
アリアナがそう結論づけたところで、客室の扉が二度叩かれた。
「切符を拝見いたします」
濃紺の鉄道員服を着た男が入ってくる。
帽子を目深にかぶり、片手には切符を切るための鋏を持っていた。扉の向こうには護衛の姿も見えたため、アリアナも疑わなかった。
ところが、男が腕を伸ばした瞬間、その袖口が目に入り、わずかな違和感を覚えた。
「お待ちください」
アリアナの声に、客室にいる全員の動きが止まる。
「どうかなさいましたか、お客様?」
鉄道員が顔を上げた。
アリアナは男の襟元から袖口へ、注意深く視線を走らせる。
「その制服は、どこで支給されたものですか?」
「何を仰っているのか、意味が分かりません」
「北部鉄道の制服には、アークライト工場で織った濃紺のサージが使われています。機関車の火の粉が飛んでも燃え広がりにくいよう、難燃加工を施した特注品です」
男の目が、わずかに細くなった。
「本物の袖口には、夜でも駅員同士を見分けられるよう、銀糸が一本だけ織り込まれています。でも、あなたの制服にはそれがない」
客室の空気が一瞬で張り詰める。
「それに、ボタンも違います」
アリアナは男の胸元を指した。
「北部鉄道の紋章には、翼の内側へ車輪が刻まれている。あなたのボタンにあるのは、ただの翼です」
男が一歩後ろへ下がる。
同時に、前方の客車から複数の足音が響いてきた。
「あなたは鉄道員ではないわ!」
アリアナが叫ぶのと、男が上着の内側へ手を入れるのは、ほぼ同時だった。




