19. 旅行ではありません
ユアンを伴って屋敷へ戻ったアリアナは、父の執務室で北駅の調査結果を報告した。
偽造された輸送伝票と三つの木箱。すでにストーンハーストへ向かった男女。そして、工場内に受け取り役が潜んでいる可能性まで聞かされた父ベンジャミンは、当然ながらアリアナの同行に強く反対した。
「馬鹿を言うな。お前は連中に狙われているんだぞ」
「だからこそよ。そもそも今回のことだって、私がいなければ偽造された商会印にも、荷物の重さにも気づけなかったわ」
「それと、危険な場所へ出向くことは別の話だ」
「工場の設備も、働いている人たちも、私なら分かるわ。何か細工をされていても、侯爵家の兵士たちより早く見つけられる自信だってあるし」
父が苦い顔で黙り込むと、ユアンが落ち着いた声で言葉を引き取った。
「僕の父にも、すでに知らせてあります。父が暗号電報でストーンハースト駅へ、信頼できる者を配置するよう手配してくれているはずです。それに――」
ユアンは一度言葉を切り、アリアナへ視線を向ける。
「アリアナ嬢から、絶対に目を離しません」
その眼差しが思いのほか真剣だったため、アリアナの胸がわずかに揺れた。
しかし、父は露骨に顔をしかめる。
「君が言うと、かえって不安になるのだが」
「お父様、その意見には賛成だわ」
すかさず父の味方をしたのに、なぜか肝心の父から睨まれた。
「言葉を慎みなさい。女たらしとの評判があるとはいえ、一応お前の婚約者で、侯爵家の跡取りなんだ」
「一応、ですか」
ユアンは傷ついたふりをして胸元へ手を当てたが、父の視線は冷たいままだった。
「その白々しい芝居をやめろ。社交新聞にすっぱ抜かれなければ、うちの娘の半径五メートル……いや五十メートル圏内にすら寄せる気はなかったのだからな」
「それは手厳しい。ですが閣下、僕と彼女の『運命の出会い』をそんな無粋な距離で測られては困ります。ただ、僕の愛は、五十メートル程度の距離なら簡単に飛び越えてしまうのですが」
ユアンは肩をすくめると、困ったような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「全く君という男は……」
「お父様、ユアン様と戯れてないで、早く許可して。時間がないの!」
「お前は、息子ではなく、娘なんだぞ」
父から咎めるように見られたものの、視線を逸らさなかった。
大好きな場所が危機にさらされているのに、女だからという理由で王都で待つことなどできない。工場には幼い頃から知っている職人たちがいて、その家族もいる。何もせずに残れば、必ず後悔するだろう。
父は長いあいだアリアナとユアンを見比べたあと、根負けしたように重い息を吐いた。
「アークライト家から護衛を四人つける。侯爵家からも、同じ人数を出してもらいたい」
「かしこまりました」
「アリアナは勝手な行動をせず、危険を感じたら必ず引き返すこと。それが条件だ」
「ありがとう、お父様」
アリアナが安堵して肩の力を抜いたとき、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「私とデレクも同行するわ」
いつの間にか開いていた扉から、オリビアが顔を覗かせている。その背後には、革の鞄を抱えたデレクも立っていた。
「お前は、どこから話を聞いていた?」
「私のデレクを連れていくと言った辺りから」
「ほとんど最初からではないか! アリアナだけでも手がかかるというのに、オリビア、お前まで……」
「細かいことはいいでしょう。とにかく、デレクを危険な場所へ一人で行かせるわけにはいかないから、私もついていくわ」
「お前は、デレクについていきたいだけだろう」
「あら。理由が二つあっても、別に困らないでしょう?」
父は返す言葉を失い、再び天を仰いだ。
アリアナとユアンは、予想どおりだと言わんばかりに顔を見合わせる。どちらからともなく笑いそうになり、二人揃って口元へ手を当てた。
同じ仕草をしていると気づいた瞬間、また視線が重なる。
ユアンの目元が楽しそうに和らぎ、アリアナはなぜか落ち着かなくなって先に顔を逸らした。
「人数が多いほうが、かえって目立たずに済むかもしれません。オリビア嬢には、アリアナの付き添いもお願いできます」
「そうよね。婚約したばかりの二人が一緒に旅行するなら、付き添いは絶対に必要だもの」
オリビアが意味ありげに微笑む。
「お姉様、これは事件の調査です。旅行ではありません」
「分かっているわ。少なくとも、今のところは」
「余計なことを付け足さないで」
こうして、父の許可を得たアリアナ、ユアン、オリビア、デレクに、両家の護衛を加えた一行が、夕方の急行列車でストーンハーストへ向かうことになった。
◇
出発の支度を終えたアリアナが玄関広間へ降りると、先に待っていたユアンが目を見開いたまま動きを止めた。
そこまで驚くような格好だろうか。
アリアナは不安になり、自分の身体を見下ろす。
身につけているのは旅行用のドレスではない。白いシャツに濃紺のベストとジャケットを重ね、同色の細身のズボンを穿いている。母譲りの自慢のシャンパンゴールド色の長い髪は一つに編み、平たい帽子の中へ収めていた。
どれも工場へ入る際に着ている、アリアナ専用の仕事着だ。
「何ですか、その顔は」
「驚いただけだよ」
「工場へ行くのに、裾の長いドレスでは動けません。機械へ巻き込まれる危険もありますから」
「なるほど。よく似合っている」
からかわれると身構えていただけに、率直な言葉を向けられると、かえってどう反応すればよいのか分からない。
ユアンの視線が、平たい帽子からジャケットの襟、細身のズボン、編み上げのブーツへとゆっくり下りていく。やがて再びアリアナの顔へ戻ってきた瞳には揶揄する色がなく、思いがけない熱が宿っているように見えた。
見つめられているだけなのに、シャツの下で肌が落ち着かなくなる。
「何ですか?」
「いや、僕の中で意外なほど簡単に、新しい扉が開いた気がしてね」
「え?」
アリアナは無意識に一歩後ずさった。
「冗談だよ。似合っていると思って見ていただけだ」
いつものように女性を惑わせる笑みを向けられ、アリアナは慌てて顔を逸らす。
「何度も言わなくても聞こえています」
「顔が赤いけれど?」
「急いで支度をしたせいです」
アリアナが完全に横を向くと、ユアンはそれ以上からかわなかった。
代わりに一歩近づき、アリアナの襟元へ手を伸ばしかける。思わず身を強張らせると、その指先は触れる寸前で止まった。
「襟が少し折れている。直しても?」
「そのくらい、自分でできます」
「鏡がないのに?」
指摘され、アリアナは渋々ユアンへ向き直った。
「では、お願いします」
「承知しました」
許可を得たユアンの指が、シャツの襟へそっと触れる。
布を整えるだけの仕草なのに、指の背が首筋をかすめるたび、そこから熱が広がっていくようだった。彼の顔があまりにも近く、見上げることができない。アリアナは行き場を失った視線を、ユアンの胸元へ落とした。
彼の呼吸に合わせ、上着の布が静かに上下している。
(落ち着きなさい、アリアナ。たかが襟元を整えられているだけじゃない)
跳ね上がる心臓の鼓動をどうにか静めようと、ユアンの胸元の布地に意識を集中させた。
目の前にあるのは、最高級の羊毛を密に織り上げたダークグレーのウールサージだ。毛羽立ちを抑えたしなやかな表面は美しく光を反射し、一目で上質な糸と熟練の職人技によるものだとわかる。
(この独特の斜文線……おそらく縦横とも二本ずつの引きそろえね。重厚なのにこのしなやかさが出せるのは、相当細い極上の羊毛を均一に紡いでいる証拠だわ……)
仕立屋の娘としての職業病が功を奏したのか、織り目の構造を頭の中で分解するうちに、徐々に胸の熱が引いていく。
(ボタンホールを手縫いしている糸も、普通の絹糸ではなく、撚りの強い高級な縫い糸が使われている。……つくづく、鼻につくほどお仕立てが良い衣服を着ている男だわ)
服の分析に没頭していると、不意に頭上から可笑しそうな吐息が降ってきた。
「僕の服の生地が、そんなに気になるかい?」
「っ……!」
襟元から手が離れると同時に、ユアンが喉を鳴らして笑っていた。見破られていたことに気づいたアリアナは、瞬時に頬を真っ赤に染め直す。
「終わったよ」
そう告げたくせに、ユアンはすぐには離れなかった。
アリアナがおそるおそる顔を上げると、すぐ近くで視線が重なる。互いの呼吸が触れそうな距離だった。
数日前、庭小屋の暗がりで唇を塞がれたときの感触が蘇り、胸が大きく脈打つ。
ユアンの視線が、アリアナの瞳から唇へ、ほんの一瞬だけ落ちた。
また口づけられるのだろうか。
そんな考えが浮かんだにもかかわらず、身体は動かなかった。逃げるべきなのか、それとも彼が何かするまで待ちたいのか、自分でも分からない。
ユアンがわずかに顔を近づける。
「二人とも、いつまで見つめ合っているつもり?」
オリビアの声に、アリアナは弾かれたようにユアンから離れた。
「見つめ合ってないし!」
「襟を直していただけです」
ユアンは涼しい顔で答えたが、口元にはわずかな笑みが残っている。
「ふうん。まあ、そういうことにしておいてあげる」
オリビアは二人を見比べ、楽しそうに目を細めた。隣に立つデレクは、見てはいけないものを見たように、気まずそうに天井へ視線を逃がしている。
アリアナは火照った首筋を隠すように襟へ触れた。
綺麗に整えられたそこには、つい先ほどまでユアンの指が触れていた熱だけが、いつまでも残っているように感じられた。




