16. 生地と縫い目は嘘をつかない2
目の前に立つベルニエ仕立店は、格調高い木製の扉と洗練された陳列窓が目を引く、いかにも王都西区の高級店らしい佇まいだった。
扉へ手をかける前に、ユアンがアリアナを振り返る。
「店の中では、より一層婚約者らしく振る舞う必要がある。君の腰に触れたままでいいかな?」
契約通り約束を律儀に守ろうとする態度に、アリアナは一瞬言葉に詰まった。
「必要があるなら、構いません」
「許可をありがとう」
ドレス越しに腰へそっと添えられた手にわずかに力が籠もる。強引に引き寄せられたわけでもないのに、触れられた場所から熱が広がったような気がして、アリアナは落ち着かないまま店内へ足を踏み入れた。
店内には最高級の反物が整然と並び、上質なシルクと香木の匂いが淡く漂っていた。
「これはユアン卿。ようこそお越しくださいました」
奥から現れた白髪交じりの女性店主は、ユアンの顔を認めるなり、恭しく頭を下げた。
「このたびは、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます、マダム」
ユアンはアリアナの腰へ手を添えたまま、余裕に満ちた笑みを浮かべる。
「アークライト・ファブリック商会のお嬢様のご結婚となると、さぞかしステキなウェディングドレスを仕立てられるのでしょうね。長生きはするものですね。今から楽しみです」
店主は目を細め、心から祝福するような微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、マダム。わたくしも……いまからドレス選びがとても楽しみですわ」
アリアナは懸命に口角を上げ、いかにもはにかむような笑みを浮かべてみせた。
自分たちを心から祝福し、職人としての目を輝かせる老店主の純粋な善意。真相を伏せたままその優しさを受け取るのは、やはり罪悪感を覚えるものだった。
「彼女には、僕の隣で最高のドレスを身に纏ってほしいと思っています」
よくもまぁ、そんな嘘をと、呆れた心地で隣のユアンを見上げる。すると返ってきたのは、毒杯と知りながら飲み干してしまいそうなほど甘い微笑だった。
不覚にも、胸が大きく跳ねる。
動揺を悟られまいと、アリアナは慌てて店内の反物へ視線を移した。
「……ですがマダム、本日は別の件で少し確認したいことがありまして」
少しも動じる様子のないユアンは、アリアナの腰を抱く手にさらに優しく力を込め、店主の意識を巧みにドレスの話題から逸らしてみせた。
「本日は、僕の婚約者が特別な生地を探していてね。クロイツ商会から先月入荷した《夜葡萄》という最高級のシルクジャガードについて、店主の意見を伺いたいんだ」
夜葡萄の名が出た瞬間、マダム・ベルニエの目がわずかに見開かれた。この生地を知る者が王都でも限られていることを、十分に理解している反応だった。
「なんとお目が高い。ええ、確かに当店でも一反だけ扱いました。ですが、あれはすでに――」
「特別なご婦人のために、ドレスへ仕立てられたのでしょう?」
アリアナは店主の言葉を引き取り、一歩前へ出た。
「胸元には贅沢なレース刺繍が施され、腰から裾にかけて、流れるような立体的なドレープが作られていました。あの見事な仕立てを拝見して、どうしても詳しい話を伺いたくなったんです。差し支えなければ、そのときの仕立て帳簿を見せていただけないかしら?」
マダム・ベルニエの表情が一瞬だけ曇った。職人らしい頑なさを漂わせながら、アリアナへ深く頭を下げる。
「恐れ入ります。お召し物を褒めていただけるのは大変光栄ですが、ご注文主様のお名前を明かしたり、帳簿をお見せしたりすることは、たとえお得意様のご希望であってもお断りしております」
「もちろん、仕立屋としての守秘義務は理解しているよ、マダム」
ユアンはアリアナの腰から手を離すと、上着の内側から一通の書状を取り出した。
離れていった体温に安堵するはずが、腰の辺りだけが急に心細くなったように感じられる。そんな自分の感覚に戸惑っているうちに、ユアンは書状を店主へ差し出した。
「ただし、これは単なる興味からのお願いではないんだ」
書状へ押された赤い蝋印を見た瞬間、アリアナは息を呑んだ。一輪の百合を囲む双頭の獅子。紛れもなく、この国の王家を示す紋章である。
「それは……」
漏れかけた声を呑み込み、アリアナは口を硬く結んだ。
いつの間に、王家の書状など用意していたのだろう。
法案に関する不正な動きを暴くための私的な調査だとばかり思っていた。しかし、王家の紋章が押された書状を携えているということは、少なくともユアンの行動が王家の承認を得ている証になる。
数日前、池に落とされていた放蕩者と、王家の権威を背負って老舗の店主と対峙する男が、どうしても同じ人物には思えない。
底知れないものを感じ、アリアナの背筋へ薄い緊張が走った。
「協力要請書……つまり、王家のご命令なのですか……?」
鮮烈な赤い蝋印を前に、マダム・ベルニエの顔から血の気が引いていく。
「あのドレスを着ていた女性が、アークライト男爵家で開催された夜会に偽名で入り込み、犯罪計画に関わった疑いがある」
ユアンの声から、先ほどまでの甘さが消えた。
「彼女が君の店を利用したと知れれば、無関係なベルニエ仕立店まで『仲間ではないのか?』と疑われかねない。そうなる前に、僕たちへ協力してほしい」
青ざめた顔で、店主は書状とユアンを交互に見た。それでも、すぐには頷かなかった。
「しかし、顧客の情報は、当店の信用に関わる重要な機密でございます。いくら公的な調査とはいえ、安易にお明かしするわけにはまいりません」
声は震えていたが、言葉には老舗の店主としての矜持がある。
顧客の秘密を漏らしたと知られれば、王都の貴族たちから築き上げてきた信頼を失いかねない。王家の権威を前にしても職人としての一線を守ろうとする姿勢に、アリアナは密かに感心した。
ユアンも店主の覚悟を認めたのか、書状を畳みながら表情を和らげた。
「素晴らしい誇りだ、マダム。君のような人が店を守っているからこそ、ベルニエ仕立店は長く貴婦人たちから信頼されてきたのだろう」
「もったいないお言葉でございます」
「だが、どうか分かってほしい」
ユアンはアリアナの隣へ一歩寄った。今度は触れてこなかったものの、肩が触れそうなほど近い距離に立ち、店主へ穏やかな視線を向ける。
「僕の大切な婚約者が、あなたの素晴らしい仕立てから、ここまで手がかりを辿ったんだ」
大切な婚約者。
演技に必要な言葉だと分かっていても、胸の奥が甘くざわついた。
「どうか彼女の熱意に免じて、力を貸していただけないだろうか」
ユアンはこれまでよりも声を和らげ、マダム・ベルニエへ微笑みかけた。
声の調子から目元の柔らかさまで、すべてが計算されているように見える。これが、世の女性を次々と虜にしてきた微笑なのだろう。
マダム・ベルニエの頬がわずかに染まり、強張っていた表情が見る間にほころんでいく。
「そこまで仰っていただけるのでしたら……」
店主の反応を見た途端、アリアナの胸に面白くない感情が湧き上がった。
例の〈目ざとい子猫たち〉にも、同じような顔を向けているのだろうか。
そう考えただけで、胸の内側が落ち着かなくなる。自分には関係のないことだと分かっているのに、妙に腹立たしい。
抗議するようにユアンを見上げると、彼は視線だけで「任せておけ」と告げるように、わずかに目を細めた。その仕草にまで胸を揺らされたことが悔しくて、アリアナは反対側に並ぶ反物を睨みつけた。
この男は、自分の顔がよいことを理解したうえで、存分に利用している。
自分へ向けられる甘い眼差しも、親密そうな言葉も、目的を果たすための演技にすぎない。そう言い聞かせ、アリアナは美しい刺繍へ意識を集中させようとした。
「どうか、くれぐれも他言無用でお願いいたします」
マダム・ベルニエは注文台帳を取り出し、震える指先でページを繰った。やがて、夜葡萄の記載があるページで手が止まる。そこには、仕立てられたドレスの仕様と、それを注文した人物の署名が残されていた。
「注文したのは、この女性ですか?」
ユアンが内ポケットから、デレクの描いた女性の似顔絵を取り出す。
「はい。この方に間違いありません」
似顔絵を見るなり、マダム・ベルニエの顔が強張った。
「名前はリディア・ヴェイル。北部の資産家の未亡人だと名乗っていました。代金は現金で前払いし、アークライト男爵家の夜会までに必ず仕上げてほしいと」
「採寸したのは、マダムですか?」
「ええ。あれほど高価な生地ですから、ほかの者には任せられませんでした」
アリアナは店主の許可を得て、注文台帳を覗き込んだ。胸囲や腰回りの寸法に交じり、スカートの内側へ大小八つのポケットを縫いつけるという、珍しい指定が記されている。
「ポケットを八つも?」
「私も理由を尋ねました。扇子や香水、化粧道具を侍女へ預けず、自分で持ち歩きたいと仰っていましたが……」
マダム・ベルニエは、いまだ納得できない様子で首を振った。
「化粧道具を入れるにしては、妙な注文でした。重い物を収めても形が崩れないよう、すべてのポケットを二重にしろと言われたんです。中身が触れ合わないよう、細長い物を一本ずつ収める仕切りまでつけました」
アリアナはユアンと顔を見合わせた。先ほどまでの甘い空気が消え、彼の瞳へ鋭い光が戻っている。
「偽造した招待状や印章、鍵を開ける道具を持ち込むためかもしれませんわ」
「あるいは、もっと危険なものだね」
華やかなドレープは、単なる装飾ではなかった。いくつものポケットへ物を入れても外から気づかれないよう、その膨らみを隠すためのものだったのだ。
「ドレスを受け取りに来たのは、この女性ですか?」
「いいえ。代理の男性でした」
ユアンが、眉の上に傷を持つ男の似顔絵を差し出す。店主の顔から、さらに血の気が引いた。
「この方です」
「名前は?」
「名乗りませんでした。ただ、北駅の荷物預かり所へ請求書を届けるようにと言われました」
「北駅の荷物預かり所か。足がつかないよう、念を入れた受け渡し方法だね」
ユアンは懐から革張りの手帳を取り出し、手早く情報を書き留めた。それから、隙のない眼差しを店主へ向ける。
「協力に感謝するよ、マダム。あなたのおかげで、店の名に傷がつく事態は避けられそうだ。ただし、僕たちがここへ来たことも、今の会話も、絶対に他言しないでもらいたい」
「はい。もちろんでございます」
「ありがとう。友人たちにも、この店の素晴らしさをしっかり伝えておくよ」
ユアンが微笑むと、マダム・ベルニエは再び頬を染め、何度も深く頷いた。
「ぜひともよろしくお願いいたします、ユアン卿」
店主の恭しい見送りを受け、二人はベルニエ仕立店をあとにした。
扉が閉じると、ユアンはアリアナへ手を差し出す。
「次は北駅だ。行こうか、僕の婚約者殿」
アリアナはその手を取らず、じっとユアンの顔を見つめた。
「あなたは、誰にでもあのように笑いかけるのですね」
「あのように、とは?」
「分かっているでしょう。マダムも、すっかり頬を染めていたではありませんか」
ユアンは目を瞬いたあと、ゆっくりと口元を緩めた。
「気になった?」
「まさか。あまりにも手慣れていらっしゃるから、感心しただけです」
「そういうことにしておこう」
またからかわれたのだと思い、アリアナは彼の脇を通り過ぎようとした。その瞬間、ユアンがわずかに身を寄せる。耳元へ落とされた声は、店内でマダムへ向けた甘い声音よりも低く、静かなものだった。
「君に向けている笑顔まで同じに見えたのなら、僕の努力が足りないらしい」
アリアナは思わず足を止めた。
耳へ触れた吐息の熱が、そのまま胸の奥へ落ちてきたような気がする。
意味を尋ねようと振り向いたときには、ユアンはすでにいつもの余裕ある表情へ戻り、馬車の扉を開いていた。
「さあ、北駅へ急ごう。手がかりを失う前にね」
「今のは、どういう意味ですか?」
「何のことかな」
「ユアン様!」
追及しても、彼は楽しそうに目を細めるばかりだった。
全く腹立たしい男である。それなのに馬車へ乗り込んだあとも、耳元へ残された低い声は消えず、アリアナの胸はしばらく落ち着きを取り戻せなかった。




