15. 生地と縫い目は嘘をつかない1
『僕の手の内にいる〈目ざとい子猫たち〉を使えば、どの顧客があのドレスを仕立てたのか、数日以内には特定できるでしょう』
頼もしい言葉を残してユアンが屋敷をあとにしてから、わずか二日後。アークライト家の玄関が祝いの品で埋もれかかっている時に、ウィリンガム家から、アリアナのもとへ一通の密書が届けられた。
手紙の内容に興味深々なオリビアを追い払い、自室に戻って届いたばかりの手紙を確認する。
封筒に押された蝋には、三日月と、その手前で羽を休める鷹のシルエットが刻まれていた。ユアンの紋章だ。鷹の持つ、狙った獲物は逃さないという執拗さ。それとどこか重なるユアンの徹底した手回しの早さに、アリアナは密書を握る手に小さな力を込めた。
ペーパーナイフで慎重に蝋を割ると、中にはユアンの流麗な筆跡で、調査の進捗が克明に記されていた。
アリアナが覚えていたワインレッドのドレスは、王都西区に店を構えるベルニエ仕立店で作られたものらしい。使用された生地も彼女の推測どおり、クロイツ商会が扱った「夜葡萄」という最高級のシルクジャガードだった。
さらに、例の〈目ざとい子猫たち〉から目撃証言を集め、女性と行動をともにしていた、眉の上に傷を持つ男の似顔絵も完成させたという。
驚くほど仕事の早い男だ。その点には素直に感心したものの、アリアナには、どうしても腑に落ちないことがあった。
「目ざとい子猫たち……きっと、取り巻きの令嬢たちのことだわ」
密書の端を指先で弄びながら、小さく息を吐く。
ユアン・ウィリンガムは、浮名に事欠かない男だ。夜会へ出れば、必ず誰かしらの令嬢と噂になり、美しい容姿と甘い言葉で女性を虜にしては弄んでいると聞く。
令嬢たちの情報網を利用し、彼女たちを〈目ざとい子猫たち〉などと呼んでいるのだとしたら、あまりにも不誠実で、いかにも彼らしい軽薄さではないか。
「女性の噂話を事件の捜査に使うなんて。まあ、使えるものは何でも使うのが、あの人なのでしょうけれど」
呆れとともに、胸の奥へ小さなざわめきが広がった。
なぜ自分が不愉快に感じているのか、考える必要はない。ユアンの取り巻きが何人いようと、期限つきの婚約者であるアリアナには関係のない話なのだから。
密書を机へ戻し、無理やり思考を切り替える。
仕立店と生地が一致した以上、調査は大きく前進していた。ベルニエ仕立店へ直接足を運べば、ドレスを注文した人物、すなわち夜会へ不法に侵入した女の正体に辿り着けるかもしれない。
「来週開催される議会までに、絶対に尻尾を掴んでやるんだから」
やる気に満ちたアリアナは、さっそくユアンに返事をしたためた。その結果、翌日の午後、デレクが描いた似顔絵を携え、ユアンとともにベルニエ仕立店を訪れることが決まった。
◇
アリアナを迎えに来た馬車の中で、向かいに座るユアンは足を組み、先ほどから静かな視線をこちらへ向けていた。
ただ見られているだけのはずなのに、妙に落ち着かない。
二日会わないうちに、ユアンの口元にあった傷は随分良くなっていた。アリアナにとってその傷は、本来であれば、彼が親に殴られ、仕方無く責任を取ろうとしている哀れな証拠のはずだった。
だが、今の彼にはそんな惨めさなど微塵も感じられない。微かに痕が残る程度の唇の端に浮かべられた笑みはどこまでも優雅で、まるでその傷すらも最初から計算し尽くされた装飾品であるかのように見えた。
不意にあの暗がりで触れ合った唇の感触が蘇りそうになり、アリアナは慌てて視線を落とした。
それでも、自分に向けられた居心地の悪い視線は、一向に外れる気配がない。
視界の端で、彼が組んだ脚をわずかに組み直す気配がした。静まり返った車内に、上質な生地が擦れ合う微かな音が響く。
このまま沈黙に押し潰されるのは耐えられない。
アリアナは膝の上に載せた鞄の取っ手を強く握り直すと、これ以上動揺を悟られまいと、強気に顔を上げた。
「どうして先ほどから私を見ているのですか?」
「わざわざ君が出向く必要はなかったのに、ついてくると言い張っただろう? そんなに僕に会いたかったのかなと思って」
「誤解しないでください。自分の記憶が正しかったことを確かめたいだけです」
アリアナはつんと顎を上げ、窓の外へ顔を向けた。
馬車の小窓を通り過ぎていくのは、西日に照らされた穏やかな午後の街並みだった。
パンの焼き上がりを知らせる店主の声、買い出しの籠を抱えて立ち話をする婦人たち、はしゃぎながら路地を駆け抜けていく子供たち。どこにでもある、いつもと変わらぬ街の営みがそこにはあった。
あの人たちにも、数日のうちに人生が一変してしまうような出来事が訪れたりするのかしら……。
ほんの数日前まで、アリアナも道行く人々と同じように、自分の未来は自分の足元に続いていると疑いもしなかった。それがたった一夜のスキャンダルで、望まぬ結婚の選択肢を突きつけられ、秘密裏に事件を追う身となっている。
「浮かない顔だね。急に弱気になったのかな?」
不意に頭上から降ってきたユアンの声に、アリアナはハッと正気に戻った。
「違います。ただ、外の風景を眺めていただけですわ」
強がってみせたものの、窓ガラスに映る自分の顔がどこか心許なく見えて、アリアナは密かに手袋の裾を強く握りしめた。
視線を感じて横目を向けると、ユアンは相変わらず優雅に脚を組み、どこか可笑しそうにアリアナの横顔を眺めていた。その青い瞳に見透かされているような心地がして、何となく背筋を伸ばす。
「僕の婚約者は賢いけれど、どうやら審美眼には問題があるらしい。見た目はよくても、中身の伴わない男に引っかかるなんて」
「……なんですって?」
突如として投げかけられた揶揄に、思わず窓の外からユアンへと視線を跳ね返した。
「デレクさんのことでしたら失礼ですわ。彼には、素晴らしい才能がありますもの」
「僕の話だよ」
予想外の返答に、ユアンを振り返った。
彼はおかしそうに口元を緩めたあと、窓の外へ視線を逃がす。その横顔にはいつもの余裕ある微笑が浮かんでいたが、瞳の奥にだけ、ひどく遠い場所を眺めるような寂しさがにじんでいた。
人を食ったような態度ばかり見せるユアンが、ほんの一瞬だけ覗かせた隙だった。
僕の話ですって?
自分を中身の伴わない男と評した意味を測りかね、アリアナは声をかけようとした。ところが、言葉を選んでいるうちに、馬車がゆっくりと速度を落とし始める。
「着いたようだね」
ユアンは何事もなかったように、いつもの微笑を取り戻した。
先ほど見えた寂しげな影は、もうどこにも残っていない。そのことが、なぜか少しだけ気になった。
先に馬車を降りたユアンが、アリアナへ手を差し伸べる。
「どうぞ、僕の婚約者殿」
「その呼び方はやめてください」
「人前でそれらしく振る舞うのも、婚約契約の一部だろう?」
アリアナは渋々、差し出された手へ自分の手を重ねた。
手袋越しに伝わるユアンの手は温かく、指先へ添えられた力は驚くほど穏やかだった。馬車から降りたあとも、彼はすぐには手を放そうとしない。
アリアナが不審そうに見上げると、ユアンはわずかに身を屈め、二人にしか聞こえない声で囁いた。
「店主を警戒させないため、仲のよい婚約者を演じたい。腰に触れても?」
わざわざ許可を求められるとは思っておらず、アリアナは一瞬、答えに詰まった。
「必要最小限なら、構いません」
「承知しました」
ユアンの手が、アリアナの腰へそっと添えられる。
触れているのは手のひらの一部だけなのに、そこから体温が染み込んでくるようだった。意識するまいと思えば思うほど腰へ神経が集まり、歩き方まで分からなくなりそうになる。
「全く、調子が狂うわ」
「何か?」
「いいえ、なんでもありません」
アリアナは笑顔を作り、平静を装って前を向いた。
今、自分へ完璧なエスコートをしているのは、数多の女性を泣かせてきたと噂される男だ。
生まれたときから貴族として育てられた箱入り娘なら、騙されることもあるかもしれない。しかしアリアナは、平民として十一年間、労働者たちに交じって工場で育ってきた。甘い言葉には裏があり、完璧な微笑ほど警戒すべきものだと、十分に知っているつもりだった。
この程度で惑わされるほど、自分はうぶではない。
そう言い聞かせて背筋を伸ばしたものの、腰へ添えられた手の温度だけは、どうしても無視できなかった。




