12. 顔のない招待客1
アリアナの婚約について話が無事にまとまり、母と姉たちが退出していくと、父の執務室には気まずいほどの静けさが降りた。
部屋に残ったアリアナは、すぐ隣に座るユアンの肘がときおり自分の腕へ触れそうになるたびに、意味もなく背筋を伸ばした。
「昨日、お前たちから話を聞いたあと、庭師に小部屋の周囲を調べさせた。植え込みの中に、誰かが立っていた跡が残っていたそうだ」
父はそう説明しながら、テーブルの上へ一通の報告書と、庭師が靴跡を写し取った紙を並べてみせる。
「あのとき、きちんと確かめていれば……」
回廊へ戻る途中で耳にした、草を踏む微かな音を思い出すと指先が冷たくなった。あの夜、暗がりの中で一瞬感じた恐怖と、ユアンの体温の記憶が、なぜか一緒になって蘇ってくる。
「暗がりへ一人で入らなかったのは正解です。相手が武器を持っていた可能性もある」
ユアンにたしなめられ、視線を上げる。低くやわらかな声が、叱っているはずなのにどこか気遣うような響きを帯びていて、アリアナは落ち着かない気分で目を逸らした。
「その人物が私たちを見ていたのなら、計画は変更されるのかしら」
「少なくとも、あの場で口にしていたとおりに実行することはないだろうね。誘拐する相手に計画を知られた以上、強行すれば失敗する可能性が高い」
「では、諦めると?」
「そこまで聞き分けのいい連中には思えなかったな」
ユアンはテーブルの上に置かれた靴跡へ目を落とす。その横顔は、夜会での軽薄な笑みとはまるで違う、静かで鋭いものだった。アリアナは思わずその横顔に見入ってしまい、慌てて視線を逸らす。
「僕たちを攫えないとなれば、別の方法で両家へ圧力をかけるはずです」
その言葉を聞き、父の顔がさらに険しくなった。
「昨夜の招待客名簿は調べた。だが、お前たちの証言に当てはまる男女はいなかった。招待状を偽造したか、ほかの招待客の従者として入り込んだのだろう」
「顔が分かれば、何か手がかりになるかもしれないのに」
アリアナはため息をつき、肩を落とす。
「二人とも顔を見ていないのだろう?」
「小部屋では見ていないわ。でも、庭へ来る前に、広間ですれ違っていた可能性はあるかもしれない」
自分で口にした可能性にわずかな望みを託し、さらに言葉を続けた。
「夜会には大勢の人がいたから、一度見かけただけの顔を思い出すのは簡単ではないと思う。でも、何もせずに指をくわえているよりはいいはずよ」
「そうだな。どれほど些細なことでも、手がかりは集めておくべきだ」
父が低く頷いたところで、執務室の扉を叩く音が響く。
「お父様、入ってもいいかしら?」
聞こえてきたのは、先ほど退室したばかりのオリビアの声だった。
「今は取り込み中だ」
「だから来たのよ。役に立ちそうな人を連れてきたわ」
父が返事をするより早く扉が開き、オリビアに続いて、デレクがおずおずと執務室へ入ってくる。
昨夜オリビアが用意した礼服ではなく、今の彼が身につけているのは絵の具の染みが残る普段着だ。両腕には、使い込まれた革の鞄を大切そうに抱えている。
オリビアの男性の好みは、呆れるほど分かりやすい。性格や家柄は二の次で、とにかく見た目がよいこと。それだけが姉の譲れない基準になっている。
目の前のデレクも、服こそ絵の具まみれで頼りなく見えるが、すっと通った鼻筋と甘く整った顔立ちは、確かにオリビアの審美眼にかなう美貌だ。
アリアナの視線に気づいたのか、オリビアが細い眉を悪戯っぽく持ち上げる。
「そうだ、アリアナ。いくら非常事態だったとはいえ、ユアン卿にうちの既製服を着せるのは、さすがにどうかと思うわ」
思いもよらない指摘を受け、アリアナは眉をひそめた。
「どうしてお姉様が知っているの?」
「ユアン卿が綺麗に畳んだ服を持ってきたところに、私が偶然居合わせたからよ。服を貸すだなんて、何もなかったと思うほうが難しいでしょう?」
オリビアの指摘に、ユアンの濡れた前髪が額にかかる姿や、首筋を伝った一滴の雫が、シャツの襟元へ吸い込まれていく様子をうっかり思い出してしまい、頬にじわりと熱が集まる。
「服を貸したのは、池に落ちたユアン様がびしょ濡れだったからで、仕方無くよ。何かあるわけないじゃない」
つい、口づけられたことを思い出してしまい、ますます顔が熱くなっていくのを止められない。
「それなら、どうしてそんなに顔が赤いのかしら」
オリビアはすべてお見通しだと言わんばかりに、楽しげにくすりと微笑んだ。アリアナは居心地の悪さに耐えかねて、隣に座るユアンを睨む。しかし彼は悪びれる様子もなく涼しい顔をしている。その余裕たっぷりの表情が、余計に腹立たしい。
「使用人に返していただければよかったのに」
「借りたものは、持ち主へ直接返すべきだと思って」
声を落としたユアンが、ほんの少しだけ身を寄せてくる。二人にしか聞こえないくらいの距離で囁かれると、アリアナの心臓が小さく跳ねた。
「急に礼儀正しくならないでください」
「二人とも、その話はあとにしてくれないか」
父に遮られ、渋々口を閉ざした。頬の熱がまだ引かないまま、アリアナはテーブルの上の報告書へ視線を落として誤魔化す。
オリビアは面白そうに二人を見比べてから、緊張しているデレクの背中を軽く押し、ソファのそばへ進ませる。
「し、失礼します」
オリビアに半ば無理やり連れてこられたらしいデレクは、身を縮めながら、執務室の重々しい空気に圧倒されている様子だった。
特に、洗練された正装に身を包みながらも、どこか油断ならない雰囲気を漂わせるユアンへ目を向けると、絵の具のついた革鞄を抱え直し、引きつった笑みを浮かべた。
「あの、オリビア様から『あなたの才能を存分に生かせる、素晴らしい仕事がある』とだけ聞いて参りまして……」
「ええ、そのとおりよ」
オリビアはデレクの肩を軽く叩き、どこか誇らしげに胸を張った。
「まさか、この混乱に乗じて、お前までこの男と結婚すると言い出すつもりではないだろうな」
ここ数日の出来事で、父はすっかり警戒心を強めているらしい。先回りするように釘を刺すが、オリビアにはまるで通じなかったようだ。
「あら。私はお父様の許可をいただかなくても、結婚するときは勝手にするつもりよ。なぜなら私の人生ですもの」
何でもないことのように言い切る姉を前に、父は片手で顔を覆って天を仰ぐ。
「全くお前は……」
「それよりお父様、デレクの才能を無駄にする時間はありませんわ」
オリビアは父の溜息を気にも留めず、デレクの背中をポンと叩いて前へ押し出した。
「この人、人の顔を覚えるのがとにかく得意なの。絵の具に塗れて頼りなく見えても、立派な職業画家なんですもの」
「得意というほどでは……ただ、描くために観察する癖がついているだけです」
デレクはおずおずと断りを入れながら、大切に抱えていた革鞄から一冊のクロッキー帳を取り出した。
「昨夜、夜会の雰囲気を絵に残しておきたくて、何人かのお客様を描いていました。オリビア様から事情を聞き、改めて見直したところ――」
「オリビア!」
父の怒声が執務室に響き渡る。
デレクは大きく肩を跳ねさせ、怯えたようにクロッキー帳を胸元へ抱きしめた。
「ちょっと、お父様。大きな声を出さないでちょうだい。デレクが怯えてしまうでしょう」
オリビアは呆れたようにため息をつく。
「すまん。だが、昨夜の話は内々にするよう言ったはずだ。しかも、夜会の客を勝手に描かせていたとは、お前は本当に……」
「彼に話したのは、昨夜、庭で怪しい人を見かけて困っているという程度よ。それに、デレクが夜会のお客様を描いていたからといって、誰かが死ぬわけではないでしょう?」
オリビアは少しも怯まず、父の小言を倍にして跳ね返す。
「今は、デレクの画力に助けられるかもしれないのよ。そんな些細なことに腹を立てている場合ではないわ。さあ、デレク。見せてあげて」
「は、はい。失礼します」
デレクは恐縮しきった様子でテーブルへ歩み寄り、わずかに震える指でクロッキー帳を開いた。




