11. 婚約の条件2
突然降って湧いた婚約話は、ほぼ、まとまりかけていた。
そんな中、紙に何かを書き込んでいたセシリアが顔をあげた。
「アリアナも気にしているみたいだし、四つ目の条件をもう少し具体的にしておいたわ」
セシリアは静かな微笑みを浮かべ、アリアナの手へそっと自分の手を重ねた。
「法案成立後、アリアナから婚約解消の申し出があった場合、ストーンハースト侯爵家は異議なく応じること。また、婚約解消によってアリアナの評判や将来に不利益が生じないよう、両家が協力して対処すること」
そこまで読み上げてから、セシリアはユアンへ視線を向ける。
「必要であれば、表向きの責任はユアン卿に負っていただきます。それくらいの覚悟はおありでしょう?」
穏やかな口調ながら、逃げ道を許さない響きがあった。
ユアンは少しも怯まず、セシリアの視線を受け止める。
「もちろんです。アリアナ嬢が傷つかずに済むなら、僕の評判はいくらでも使ってください」
「ただでさえ悪い評判が、さらに悪くなるかもしれませんよ」
「少しくらい傷が増えても、誰も気づかないでしょう」
ユアンが冗談めかして笑う。
アリアナが望んでいたとおりの答えだった。
時期が来れば、何の未練も見せずに自由にしてもらえる。帰りたいと願っていた場所へ、彼は引き留めることなく送り出してくれる。
そのはずなのに、胸の奥には、針の先で刺されたような小さな痛みが残った。
「本当に、それでよろしいのですか?」
確かめる必要などないのに、声がこぼれていた。
ユアンは笑みを消し、アリアナを見つめた。その眼差しは、これまでに見たどの表情よりも静かだった。
「これは君を守るための婚約だ。君が選べる未来まで、僕が奪うつもりはないよ」
「故郷へ帰ると言っても、引き留めないのですか?」
「君は、引き留められたいの?」
思いがけない問いを返され、アリアナは息を詰めた。
「そういう意味ではありません」
「なら、君が望むとおりにする」
ユアンはそれ以上追及しなかった。
アリアナの意思を尊重しているだけだ。そう分かっているのに、少しくらい困った顔をしてくれてもよかったのではないかという、身勝手な思いが胸の内に残る。
その正体を認めたくなくて、アリアナが紙へ視線を落としたとき、呆れを含んだオリビアの声が飛んできた。
「二人とも、恋愛小説の主人公にでもなったつもり?」
「どういう意味よ」
「アリアナは『引き留めてくださらないの?』なんて思わせぶりに尋ねるし、ユアン卿は物分かりのよい紳士みたいな顔をして『君の望むとおりに』なんて答えるし」
「思わせぶりになんて聞いてないわ!」
反射的に言い返すと、オリビアは楽しそうに眉を上げた。
「でも、アリアナが帰りたいストーンハースト侯領は、ウィリンガム家の領地でしょう? ユアン卿からすれば、自分の領地へ帰ると言っている女性を、わざわざ王都へ引き留める理由なんてないじゃない」
アリアナは言葉を失い、ユアンを振り返った。
彼は口元へ手を添えていたものの、青い瞳には隠しきれない笑いが浮かんでいる。
「もしかして、最初から私をからかっていたのですか?」
「君があまりにも可愛らしい尋ね方をするものだから、つい」
「最低ですわ」
「よく言われるよ」
悪びれもせず答えるユアンを睨みつける。先ほど胸を刺した小さな痛みまで見透かされたようで、頬が急速に熱くなった。
「僕がいずれ継ぐストーンハーストの領地へ帰りたいと願う婚約者なら、たとえ関係が変わったとしても、二度と会えなくなるわけではないからね」
「婚約を解消したあとまで、会いに来るつもりなのですか?」
「そのときの君が、会ってくれるなら」
軽い調子で答えたあと、ユアンの表情から笑みが薄れた。
「ただし、君の未来を奪うつもりがないという言葉は本当だよ」
先ほどまでのからかう響きは、声からすっかり消えている。
「君がストーンハーストで暮らしたいと望むなら、その意思を尊重する。商会で働くことも、誰と結婚するかも、あるいは誰とも結婚しないことも、すべて君が決めるべきだ。僕の領地だからといって、君の人生まで僕のものになるわけではない」
まっすぐに注がれる眼差しから逃れられず、アリアナは唇を引き結んだ。
からかわれたことには腹が立つ。それでも、彼が口にした言葉は、義兄がセシリアへ向けたものとは正反対だった。
「その言葉、忘れないでくださいね」
「もちろん。正式な契約書にも書いておこうか?」
「そこまでは結構です」
「残念だな。君と再会する権利も、ついでに書き加えてもらおうと思ったのに」
「絶対にお断りします」
即座に拒絶したものの、婚約を解消したあとも会いたいと言われたことが、ほんの少し嬉しかった。
ただ、その事実だけは、誰にも悟られたくない。
「この婚約は、法案が成立して事件が解決するまでです。それ以上でも、それ以下でもありませんから」
アリアナは自分の中で芽生えてしまった浮かれた気持ちを、ぐっと胸の奥へと押し込め、あえて冷ややかな視線をユアンに向けた。
これ以上、彼のペースに巻き込まれるわけにはいかない。社交界の嘘や計算に嫌気がさしていたはずなのに、彼の巧みな言葉に揺らいでしまう自分が恐ろしい。
「承知しました」
ユアンは腹の底を見せない笑みを崩さないまま、優雅に一礼してみせた。
「それから、人前では婚約者らしく振る舞いますが、必要のないときまで距離を詰めないでください」
「必要があるときなら、近づいても?」
「揚げ足を取らないでください」
母が額を押さえ、オリビアが堪えきれずに笑い出す。その隣で、セシリアは紙を引き寄せ、五つ目の条件を書き加えた。
『ユアン・ウィリンガムは、アリアナ・アークライトの許可なく、必要以上の身体的接触を行わないこと』
「セシリアお姉様、それまで書かなくていいのよ!」
手元を覗き込んだアリアナが声を上げると、セシリアは不思議そうに顔を上げた。
「でも、嫌なことは先に伝えておいたほうがいいでしょう?」
「それはそうだけど……」
「僕は構いませんよ」
ユアンが涼しい顔で口を挟む。
「今後は必ず、アリアナ嬢の許可を得ます」
ことさら強調された「今後」という言葉に、庭の小部屋で交わされた口づけが蘇った。唇に残るはずのない熱まで思い出し、アリアナの頬が一気に熱くなる。
「ふうん。今後は、ね?」
オリビアの目が楽しそうに細められたが、何を尋ねられても答えるつもりはない。
セシリアは二人を見比べ、わずかに口元を緩めただけで、再び紙へ目を落とす。
父は家族の顔を順に見渡すと、条件の書かれた紙を自分の前へ引き寄せた。
「異論がなければ、正式な文書は両家の弁護士に作らせる。ストーンハースト侯爵の確認が取れ次第、婚約を発表しよう。できれば明日の朝には」
「ずいぶん急ですね」
「敵に次の手を打たれる前に、こちらの立場を明らかにしておきたい。両家は法案への賛成を崩さず、脅迫にも醜聞にも屈しないとな」
父はまっすぐにアリアナを見つめた。
「最後に決めるのは、お前だ。本当に嫌なら断って構わない。法案のためだろうと、セシリアのためだろうと、望まない婚約をする必要はない」
書斎にいる全員の視線が、アリアナへ集まった。
ユアンを愛しているわけではない。むしろ、女性関係の噂が絶えない彼は、最も避けたい種類の男だった。
それでも、この婚約はアリアナの意思で終わらせられる。財産も仕事も守られ、望まない結婚を強いられることもない。何より、ここで敵の脅迫に屈して法案が否決されれば、姉のような女性が自分の暮らしを選ぶための手立ても失われてしまうかもしれなかった。
セシリアへ目を向けると、姉は胸の内を見透かしたかのように、静かに首を横へ振った。
「私のために引き受けなくてもいいのよ」
アリアナは言葉に詰まった。
「あなたが決めていいの。嫌なら、ほかの方法を一緒に考えましょう」
姉の声に、決断を急かす響きはなかった。
アリアナはもう一度、紙に並んだ条件を読み返した。
噂が立ったから仕方なく嫁ぐのではない。家族を守るために犠牲になるのでもない。少なくとも、この紙には、アリアナが自分の意思で婚約を始め、自分の意思で終わらせるための約束が記されている。
「分かりました」
ひとつ息を整え、顔を上げた。
「この条件がすべて守られるのであれば、ユアン卿との婚約をお受けします」
母が安堵の息を吐き、オリビアは満足そうに微笑んだ。セシリアはアリアナの表情を確かめてから、小さく頷く。
ユアンは椅子から立ち上がると、アリアナの前へ進み出た。
「これからよろしく、アリアナ」
突然呼び捨てにされ、アリアナは眉をひそめた。
「急に馴れ馴れしくしないでください」
「婚約者がいつまでも他人行儀では、偽装だと疑われるだろう?」
もっともらしい理由をつけられ、反論に詰まる。
「君も、人前ではユアンと呼んでくれ」
「努力はします」
「そこは約束してもらいたいな」
ユアンが右手を差し出しかけ、ふと動きを止めた。
そのまま触れてくるのかと身構えたアリアナの前で、彼は掌を上へ向ける。二人の間には、指先ひとつ分の距離が残されていた。
「婚約成立の握手をしても?」
たった今書き加えられた約束を、彼はもう守ろうとしているようだ。
脳裏に、小部屋で腰を抱き寄せられた感触と、声を封じた唇の温度が蘇る。あのときとは違い、今のユアンはアリアナが自分の意思で手を取るのを黙って待っていた。
胸の奥に張りつめていた警戒が、ほんのわずかにほどけていく。
「握手くらいなら、構いません」
アリアナは自分から手を伸ばし、ユアンの掌へ重ねた。
「法案が成立して、事件が解決するまでですからね」
「分かっているよ」
握り返された手は温かく、その力は驚くほど穏やかだった。強く引き寄せることも、必要以上に指を絡めることもない。
それなのに、掌が触れ合ったところから、熱がゆっくりと腕を伝ってくるように感じられた。
長椅子のほうから、セシリアがペンを置く音が聞こえる。机の上には、姉の丁寧な文字で記された五つの約束が残されていた。
これがあれば大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
結婚を拒む自分が、身を守るために選んだ期限つきの婚約。それ以上の意味など、あるはずがない。
けれど手を離したあとも、ユアンの体温は、縫い直した手袋越しにいつまでも指先へ残っていた。




