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10. 婚約の条件1

 ほどなくして書斎の扉が開き、父に呼びだされ隣室で待っていたユアンが姿を現した。


「失礼します」


 唇の端には昨日切った傷が残り、その周囲には青紫の痣が浮かんでいた。それでもユアンは痛みなど感じていないかのように、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべている。


 本来なら痛々しく見えるはずの傷が、整いすぎた顔立ちへ不穏な陰影を添えていた。柔らかな微笑みとは裏腹に、近づけば傷つけられそうな危うさが漂い、かえって彼を抗いがたいほど魅力的に見せている。


 不覚にも目を奪われたアリアナと視線が重なる。その瞬間、ユアンの青色の瞳がわずかに細まり、視線は彼女の唇へゆっくりと落ちていった。


 庭の小部屋で、声を封じられたときの感触が鮮明に蘇る。アリアナは反射的に扇子で口元を隠した。


「どうかしましたか?」


 ユアンの唇へ、今度は意地の悪い笑みが浮かぶ。


「何でもありませんわ」


 睨みつけると、彼はそれ以上追及しなかった。父に勧められた椅子へ腰を下ろし、部屋に集まった面々を見渡す。


「話はまとまりましたか?」


「まだだ。アリアナが、君との婚約に条件をつけたいと言っている」


「当然のことだと思います。聞かせてもらえますか」


 迷いのない返事に、アリアナはわずかに眉を上げた。それから、セシリアが書き留めた紙を手に取り、四つの条件を順番に読み上げる。


「一つ。結婚後も、アリアナの財産は自身に帰属すること。二つ。結婚した場合も、アークライト・ファブリック商会で仕事を続ける権利を認めること。三つ。双方の明確な合意がないかぎり、婚姻を成立させないこと」


 そこで一度言葉を切り、最後の一項へ目を落とす。


「四つ。法案成立後、アリアナが望んだ場合には、ストーンハースト侯爵家は婚約解消に応じること」


 室内へ短い沈黙が落ちた。


 ユアンは途中で口を挟まず、最後まで静かに聞いていた。すべてを読み終えても表情を曇らせることなく、確認するように一度だけ頷く。


「すべて受け入れます」


 あまりにもあっさりとした返事に、アリアナは思わず聞き返した。


「本当によろしいのですか?」


「君の財産も仕事も、もともと僕が口を出すことではない。婚姻に双方の同意が必要なのも、僕には当然のことに思える」


「侯爵家へ嫁いだ妻が、商会で働き続けることになっても?」


「何か問題がありますか?」


「侯爵夫人が商売に関わるなど品位に欠けると、周囲から言われるかもしれません」


「言いたい者には言わせておけばいい。それに、僕は君の家で作った服がどれほど着心地のよいものか知っている。君にはぜひ、仕事を続けてもらいたいと思っているよ」


 ユアンが父の綿シャツと吊りズボンをまとい、感心したように生地を褒めていた姿が脳裏に浮かぶ。社交界きっての放蕩者には不似合いな格好だったことまで思い出し、アリアナは返す言葉に詰まった。


「今回の法案は、妻の財産と権利を守るためのものだ。賛成派であるストーンハースト侯爵家が、未来の嫁の財産を取り上げたのでは話にならないだろう?」


「未来の嫁と決まったわけではありません」


「では、婚約者になるかもしれない女性と言い直そうか?」


「その言い方も腹が立ちます」


 いつもの調子で言い返しながらも、胸の奥には小さな戸惑いが芽生えていた。


 義兄は、妻の持参金まで、結婚した以上は夫の家のものだと言い切った。それに対してユアンは、アリアナの財産も仕事も、自分が口を出すことではないと迷いなく答えている。


 こうして話しているだけなら、誠実で理解のある青年にしか見えなかった。


 しかし、社交界でのユアンは、侯爵家の放蕩息子であり、最も結婚相手に向かない男だと噂されている。実際、アリアナは彼が令嬢に頬を打たれ、池へ突き落とされるところを目撃した。あれはどう考えても、女性に対して誠実に振る舞ってきた人物が受ける仕打ちではない。


 いったい、この見目麗しい男の本性はどこにあるのだろう。


 軽薄な放蕩者の顔と、淡々と現実を見極める冷静な眼差し。女性から容赦なく拒絶されるほどの悪名と、他人の権利を侵そうとしない奇妙なほどのわきまえ。そのどちらが本当の姿で、どちらが演じられたものなのか、アリアナにはまだ判別できなかった。


「僕の言葉に、何かおかしなところでもありましたか?」


 じっと見つめていたことに気づかれ、アリアナは我に返った。


 ユアンは傷ついた唇の端をわずかに持ち上げ、首を傾げている。その仕草には人を食ったような軽妙さがあったが、こちらを見返す青い瞳の奥には、容易に内側を覗かせない静けさがあった。


「いいえ。ただ、社交界の噂と今のお言葉が、あまりにもかけ離れていることに戸惑っていただけですわ」


 アリアナは手袋の縫い目を指先でなぞりながら、少しも引かずに言い返した。


「あなたが誠実な紳士なのか、それとも、それ以上に計算高いペテン師なのか。これから見極めさせていただきます」


「それは楽しみだ」


 ユアンは愉快そうに小さく笑った。


「ユアン卿」


 セシリアが静かに呼びかける。


「そのお約束は、ストーンハースト侯爵にも確認していただけますか。あなたのお気持ちが変わらなくても、ご家族から反対される可能性はあるでしょう」


「もちろんです。僕一人の返事で済ませるつもりはありません。父にも確認したうえで、両家の弁護士を通して正式な文書にします」


「ありがとうございます」


 セシリアが頷くのを見届け、アリアナは手元の紙へ視線を戻した。


 四つの条件のうち、アリアナにとって最も大切なのは、最後に記された一項だった。


 ――法案成立後、自分が望めば、この婚約を解消できる。


 それは、どちらかの家の都合でも、世間の噂でもなく、アリアナ自身が未来を選べるという約束だ。


 紙を机へ置き、ユアンの目をまっすぐに見つめる。


「四つ目の条件について、今の私の考えをお伝えしておきます」


「聞かせてもらえる?」


「法案が成立し、今回の事件が解決したら、私は婚約の解消をお願いするつもりです」


 母が何か言いかけたが、アリアナは構わず続けた。


「私は今のところ、誰とも結婚するつもりはありません。時期が来たらストーンハーストへ帰り、故郷で自分の人生をやり直したいと思っています」


「アリアナ、また夢のようなことを言って」


 母は呆れたように息を吐き、閉じた扇で自分の手のひらを軽く叩いた。


「王都中の噂になったあなたが、婚約を解消したあと、何事もなかったようにストーンハーストへ戻って平穏に暮らせると思っているの? 社交界の口さがない人たちは、どこまでも噂を追いかけてくるのよ」


「あら、お母様。王都にいるよりは、ずっとましだと思うわ」


 セシリアが加勢すると、オリビアが意味ありげに笑った。


「そうよね。アリアナには、あちらに好きな人がいるんだもの」


「オリビア!」


 母が目をつり上げて窘めても、当の本人はどこ吹く風で、面白がるようにアリアナの顔を覗き込んできた。


「だって、本当のことでしょう? 昔からずっと、幼馴染一筋じゃない」


「オリビア。今は、そのような冗談を言っている場合ではありません」


 セシリアが凜とした声で遮ると、オリビアは軽く肩をすくめて黙った。


 アリアナは膝の上で手袋を強く握りしめた。幼馴染の話を聞いたユアンが、どのような顔をしているのか気になる。けれど、自分から確かめるのも妙に思えて、すぐにはそちらを向けなかった。


 迷った末にそっと視線を向けると、ユアンは先ほどと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。驚いた様子も、気分を害した様子もない。アリアナが誰を想っていようと、彼にとってはどうでもよいことらしい。


 そう受け取った途端、胸の奥がちりりと痛んだ。


 庭の小部屋で触れ合った唇には、今も彼の熱が残っているような気がする。それなのに、ユアンの何ひとつ揺らがない微笑を見ていると、その記憶まで急速に冷えていくようだった。


 何を期待していたのだろう。


 これは両家と法案を守るための、期限つきの婚約にすぎない。互いの過去や想い人に口を出すような関係ではないのだから、ユアンの反応は当然だった。


 アリアナは自分へ言い聞かせるように視線を落とし、ストーンハーストの景色を思い浮かべた。豊かな麦畑と、どこまでも澄んだ青空。そして、まぶしい陽光の中で白い花を差し出してくれた少年の笑顔。


 胸に生まれた正体の分からない痛みを、慣れ親しんだサイモンの面影で覆い隠す。


 思い描く未来にサイモンが登場するようになったのは、いつからだっただろう。思い出せないほど昔から、アリアナは彼とともに歩む人生を夢見ていた気がする。


 サイモンもまた、その言葉の本当の意味すら分からない頃に、「結婚するならアリアナがいい」と言ってくれた。


 彼が今、どこで何をしているのか。確かめるのが怖くて手紙の一枚すら出せないくせに、優しく素朴なサイモンなら、今も自分を待っていてくれるのではないかと、心のどこかで未練がましく期待している。


 けれど、アークライト家が王都へ拠点を移してから、すでに十年が経っている。かつて交わした無邪気な約束が、現在のサイモンへ繋がっていない可能性だって十分にあった。


 それでも、ゴシップ紙や貴族たちの好奇の目から離れ、自分らしく暮らしたいという気持ちだけは本物だ。


 アリアナはドレスのスカートを握り、顔を上げた。


「思い出話はともかくとして、お母様」


 心配そうに揺れる母の瞳を、まっすぐに見つめ返す。


「王都の噂など、次の醜聞が起これば、いずれ忘れ去られます。それに、誰かの道具として息を潜めて生きるくらいなら、何を言われようと、故郷で自分の手を動かして暮らすほうがずっと誇らしいわ」


 母はまだ何か言いたそうに唇を尖らせていたが、アリアナの毅然とした態度に毒気を抜かれたのか、ため息をついて扇を閉じた。


「本当に、頑固なところはあなたにそっくりね」


「私の娘だからな」


 父がなぜか誇らしげに胸を張り、母はますます深いため息をついた。

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