6_ミソラ
全9話です。
完結まで毎日更新する予定です。
湯下は氷上を見据えたまま、眉間に皺を寄せて言葉を探す。
氷上の、先輩に対する感情はどれほど複雑なのだろうか。ファンレター、もといラブレターを何百枚も書くほどに傾倒した“作家”としての先輩と、ただ実直に畏敬の念を抱いていた文字通り“先輩”としての先輩、そして文藝部や小森文学賞をめぐる“ライバル”としての先輩。どの側面における先輩も氷上にとっては真実であり、その全ての葛藤の精算をこの『ハンプシャー・ボーイに花束を』で果たそうとしている。たった一人の人間、ましてやたった一つの言葉で左右されてしまう人生が、一体どんなものか、湯下には想像が出来ない。
しかし、かと言って、かける言葉が何も無いわけではなかった。氷上がある種、自分とは正反対なのは確かだ。自分の人生は、彼と違い、多くの人間の多くの言葉によって左右されている。正反対な自分だからこそ、かけられる慰めはいくつか思いついた。しかし、一見見知った陳腐なわがままのようにも思える苦痛を駄々に終わらせず、わざわざ小説にまで昇華せんとする覚悟の強さにこそ、真似出来ない気迫が感じられ、それに気圧されてか、中途半端な慰めはかけられないと、湯下はただ萎縮する他なかったのだった。
背筋を伸ばしたまま言葉を探す湯下と、喋って疲弊したのか全身を脱力して椅子にもたれかかる氷上に挟まれて、二人のテーブルは再び沈黙した。
その沈黙を包むように、コツ、コツという音がゆったりとした間隔で厨房から近づいてくる。中背の瘦せ型、白髪の端が窓からの日光を吸収するように光るその老人は、オリーブグリーンに染まったキャンバス生地のエプロンを両肩から引っ掛けている。タートルネックの灰色のトップスに相対して、腕の細さが良く目立つが、その分関節は太く頑丈で、両手のカフェトレーをしっかりと持ち上げていた。
一歩ずつ、二人の沈黙を肯定して徐々に柔らげるように近づいてきたカフェのマスターは、テーブルの端に着くと「どぉぞ」としゃがれ声で囁き、湯下にのみ一杯のコーヒーを配膳した。
「頼んでないです」
空気を読めと言わんばかりに、冷たく言い放つ湯下にも、マスターは変わらない調子で、
「あちらのお客様です」
と返答する。目は細く、開いているか分からないが、細く長い髭の向こう側では確かに微笑んでいるようだった。
「どちらのお客様?」
「ははっ——、ごゆっくりどぉぞ」
マスターは湯下に丁寧に応答しながら、続けて小さなお菓子を配膳する。それは、五センチ四方ほどに切り分けられたチョコレートケーキだった。最上層のココアパウダーが、その下の更に深い色のクリームと重なって、純白の陶器皿と、暖かなコントラストを作り出している。
コーヒーと違って、そのチョコレートケーキは湯下と氷上の両方に配膳された。甘党の氷上は、そのケーキがメニューに載っていなかった気がしたものの、それをわざわざ確かめたり指摘するのは野暮だと思い、
「今の絶対に愛想笑いだよね?」
とおどけて見せたが、湯下は視線も口角も堅く下げたままだった。
「……プライベートって言ったのに」
「え?」
遅く静かに厨房へと戻るマスターを待って、湯下は不愉快を露わにつぶやいた。氷上の問いかけも無視して振り返りざまに座り直すと、分かりやすい笑顔を作って、
「ありがとうございますー!」
と元気に右手を振る。氷上もその方向へ顔を出すと、同じように左手を、恥ずかしそうな八の字眉で振り返す女性の姿があった。
「あー、さっきのファンか」
溜息をつきながらカップに持ち上げる湯下は、明らかに苛立っていた。苛立ち余って、そのカップも、少し香りをかぐだけで口はつけずにまたテーブルへ戻す。ここぞとばかりにカツン、と音を立てるのが、なんとも湯下らしくない。
「有名税ってやつだろ? いいじゃんか」
氷上の慰めにも睨み返す湯下は、また落ち着きなくカップを持ち上げると、ぐいっとそのまま顔を仰いで一思いに飲み干した。動揺する氷上に視線を合わせる余裕もなく、顔をしわくちゃに歪ませて、必死に耐える。チョコレートケーキに合わせるにしては、苦味が強すぎると思った。熱い液体が食道から胃に落ちると同時に、握りつぶされるような風味と香りが鼻から頭へと突き抜ける。その痛みで、湯下は自身の怒りが一気に蒸発したのを感じた。
湯下はずっと、断ち切る言い訳が欲しかった。自分のグダグダした心の寄り道を解消して、導いてくれるだけのきっかけを探していた。
湯下は覚悟を決めると、目を瞑ったままカップをテーブルに戻し、
「……僕も、氷上ちゃんと同じだよ」
と呟く。目を真ん丸にして「え?」と聞き返す氷上。
すると湯下は勢いよくその場に立ち上がり、右腕を指先までピシッと斜め上に伸ばし、左肘を横で折り曲げ左手でピースサインを作ると、伸ばした人差し指と中指で左目を囲い、笑い皺が無いウインクをした。
「…え?」と、虚をつかれたような氷上。
「太陽さんさん、お日様ピカピカ! ミソラです! 今日の動画はこちら! ドゥルルルル、ドゥーン……クラシックピアニストが、メントスコーラ飲んでみたぁ〜!」
湯下はペットボトルを持っている風なポーズをして、飲み干す動きをする。「はぁ〜、美味しいですね〜!」と適当な感想を口にする声質は、いつもの湯下の落ち着いた喋りとは似ても似つかず、トーンが四段階ほど上ずっている。
氷上は、突如始まった湯下の奇行に理解が追いつかず、ただ黙ってそれを見ている。
「それではぁ、ご視聴ありがとうございました! チャンネル登録とぉ、グッドボタンもよろしくぅ! そいじゃまたね! ばいばーい!」
残像が残るほどに両掌を振る湯下は、さながら歌のおにいさんのようだった。ひとしきり振ったあと、湯下は急にスイッチが切れたように笑顔をやめて無表情に戻り、椅子に腰を下ろす。程々に大きな声量だったが、店内の他のお客の誰もこちらを見てはいなかった。誰も湯下に興味がない、湯下に惹かれていないように思えた。
場に飲まれていた氷上は、慌てて我に返る。
「怖い怖い怖い怖い!? 急に何!?」
「全日本第三位のピアニストは、Youtubeなんて見ないと思ってた?」
窘めるような口調ながらも、湯下の表情には笑顔が貼り付けられ、強ばっている。氷上の沈黙に、湯下は半ば不服そうな素振りを見せて、話しづらそうに自身の生い立ちについて明かし始めた。
*
湯下の生家は、名門音楽大学出身のエリート音楽家が揃う音楽一家——という訳では、無かった。地主の血を受け継ぎながら嫁入りした少々世間知らずの母と、不動産投資から資産家として大成した父の元に一人息子として生を受けた新生児は、その産声が音楽に聞こえたから「美空」と名付けられた。本来「美奏」と文字りたいところそれが叶わなかったのは、母方の祖父が某演歌歌手の熱狂的なファンだったとかで父が押し負けてしまったから……と、面白そうに語る母の口から聞かされている。
母のそういう同調を求めるきらいを、幼少期から湯下はどこか鬱陶しく思っていたが、父は存外不愉快でもないようだった。むしろありがたがっているようで、母の求めるユーモラスな家庭を積極的に形作ろうとしていた。結果として湯下は、何から何まで甘やかされ、何から何まで買い与えられて育っていく。楽器がいい例だった。幼稚舎から帰ってきたある日のこと、二十畳はある家のリビングに、沢山の楽器が並べられていた。成長した今覚えている範囲でも、トランペット、トロンボーン、フルート、グランドピアノ、ヴァイオリン、チェロ、木琴、鉄琴、アコースティックギター、お筝、ビブラスラップまで。当時発育が遅く身長の小さかった湯下は、錚々たる楽器に包囲された挙句、両肩に手を添えてくる母に「どれがいい?」と興奮気味に聞かれた。ドラムやエレキギターがないあたり、小さな可愛い自分が、一見可愛く気品のある楽器を熱心に弾いている様をただ母が見たいだけだとすぐに気づいたが、子供ながら費用のことを考えると恐ろしく、その中からパートナーを選ばざるを得なかった。
一通り試しに触れてはみたが、グランドピアノ以外選ぶ理由がなかった。なぜなら触れた時に一番、両親の反応が良かったからだ。
思春期に入って、人並みの反抗期を迎えた湯下は、母よりも父と衝突した。母に頭が上がらない父への嫌悪が主だったが、そんな自分だって母に強くは言えないことが恥ずかしかった。
音楽の道に進むことにも別に拘らない母が、むしろ不気味だった。のれんに腕を押すような、霞を掴むような青年期だった。受験勉強にも身が入らず、成り行きで入った私立大学で湯下は迷走したが、ピアノだけはどうしてか続けていた。そして名のあるコンクールで表彰される機会も増えるうちに、自分にはピアノ以外何もないように思えて、せめて「自分」が何かを掴みたいと、Youtubeへの動画投稿を始める。Youtuber「ミソラ」の誕生だった。
流行りの曲をピアノで演奏する「弾いてみた」系の動画から、凡庸な企画系の動画まで、手当り次第挑戦してみた。感触は悪くなく、半年ほどから三万再生回数を超え始める。
そうしてある日、湯下は思いつきで、自作のピアノ曲をYoutubeに投稿する。一分程と短い尺ではあったものの、自作のためか反応は良くなく、再生回数は千あたりで頭打ちになってしまった。
しかし湯気は、それで満足した。
完全に満足してしまったのだった。
*
「全日本ピアノコンクールだって同じだよ。一位じゃなくて三位だけど充分。三万も再生されればもっと上はあるけども充分」
湯下は、聖母のような穏やかな表情で語る。
「千回も再生されれば……私が届けたい音楽はそっちだけれど、みんなが喜んでくれるならもう充分」
「俺と同じって言った?」
刺すように問う氷上を、真綿のように柔らかい相槌で湯下が受け止める。
「うん……いや、いやいや。烏滸がましいか。氷上ちゃんは今でも……そんな状態でも、“自分の言葉”を求めているんだもんね」
湯下は遠くを見るような目で天井を見上げ、自ら反芻するように言葉を紡ぐ。椅子からは立ち上がり、テーブルの周りを何かを匂わすように歩き回る。
「『自分を見つけたいけど見つけるのが面倒くさい』。そういう……僕みたいな人間に比べれば、氷上ちゃんは充分、真の一人前と言えるんじゃないかな」
湯下の生い立ち話は、氷上のそれとは対照的に、日本昔話のような柔和さで進んだ。湯下は、これで終わりと言わんばかりにカップを両手で持ち上げて、また相変わらず明後日の方向に視線を向けながら立っている。カップの中身はもう空で、「ほっと一息」を全身で演出するような魂胆が見え見えの挙動だった。
氷上はそんな異常行動を朧げに視界で捉えながら、やはり穏やかに、与えられた言葉を反芻するように頷く。
「……湯下?」
うん、という返事は、曇りひとつない爽やかな響き。
「……適当に聞いてたでしょ、俺の話!? ええ!? もう何の話か全っ——然入ってこなかったが!?」
氷上は腕組をして首をもげそうな勢いで傾げた。
「ええっ? そんなに?」
「慰めのつもりか知らんけど急に語り始めてさぁ! 充分充分充分って、もう一生分の『充分』だったな! 十二分に『充分』を聞いたな!」
「それ、すごく語感がいい」と手を打つ湯下は、
「『十二分に十分』……うん、氷上ちゃんの言葉だね」
と独り合点して見せる。
氷上は、座ったまま上半身を大きく仰け反って、表情を、家の中に突如現れた正体不明の虫から極力距離を取る時かの激しく歪ませた。
「うーっわもう! もう、今この瞬間に一つ、一つだけ言いたいこと出来たんで座って貰っていいですか? 最後の台詞も一旦後回しにするから」
氷上は机上のノートパソコンを閉じて、湯下を睨みつける。慌てて椅子に座る湯下。氷上は深く長い溜息を、助走するようについてから、
「変わっちまったねー湯下は!! 最初に会った時とは大違い!」
と言い放った。
「最初?」
「フリーピアノ!」
二人が初めて出会ったのは、大学生の時。別々の大学に通っていた二人をめぐり合わせたのは、家の最寄り駅のフリーピアノスペースだった。改札前の一角に、ポールで囲むようにして置かれた一台の茶色いアップライトピアノ。奥手な住民がそろう地域性もあってか、年季が入ったそれを触る通行人は滅多にいなかったが、居場所を探していた湯下はYouTuberを始める前か後か、そのスペースで何となく時間をつぶすことが多かった。クラシックから流行りの曲までを気ままに演奏し、演奏終わりに時々自分に向けられるいくつかの拍手が心地よかった。
ある日いつものように演奏を追えると、同い年くらいの一人の学生が声をかけてきた。
「インスタとかやってます?」
そう言いながらスマホも掲げず、しっかり目を見て連絡先を聞きにきたその人こそ、デニムジーンズに肩のあたりが少しほつれたシャツを身にまとったその人こそ、氷上だ。
「湯下が演奏しててさ、あのー……」
ふんふんふん、と鼻歌してみせる氷上。そのメロディラインはガタついていて、明瞭とはいいがたい。
「あー、うん?」という、分かっていないような湯下の相槌に、氷上は少しだけ慌てて、
「とにかく俺は神に感謝したね! こんなに胸を打つ演奏は初めてだ! こんなに魅了されるピアニストは滅多にいない! そう思ったからダチになった」
「ありがとう……?」
「じゃあ今の曲。あの時演奏してた曲。なんて曲なの? 耳から離れないんだけど」
「……」
問われた湯下は、口をへの字にして、答えづらそうにする。
「……僕の曲では、無いね」
「知ってるよそんなこと。どっかで聞いたことある曲だもん」
間髪入れずに即答する氷上は、呆れたように片手で頭を支えながら続ける。
「違くて——俺の耳から離れないのは、『あの時の』『お前の』演奏。『この曲』じゃない。『あの時の演奏』なんだよ」
「……」
「届けたい音楽は知らん。勝手に作って勝手に諦めてろ。ただ視聴者は、ずっ——と待ってるから。『お前の曲』を。『お前の演奏』と同じように」
湯下は呼吸も抑えて、氷上の言い分に耳を傾ける。
「なのに『ここに僕はいない』ってか? ……ふざけんな! ——いるよ!? 流行りだろうがパクリだろうが、選んだのは湯下っ。湯下の人生は、湯下が紡いでんの! それも分からずに俺達の見る目を……馬鹿にすんな!」
徐々に力が入って白熱した氷上は、言い放つと同時に、荒げた呼吸のまま肩を上下に揺らす。氷上自身の気性というよりも、湯下に対する不満が故のようだった。
その思いの丈を受け取った湯下は、頷きながら反芻した。そして少し微笑み、
「氷上ちゃんも見てるってこと? 僕のYoutubeチャンネル」
「……」
しまった、口が滑った。
「……一番好きな動画は?」
「……」
「好きな、動画は?」
「……マツケンサンバ、弾いてみた」
「……マツケンサンバ?」
「1じゃなくて2の方な」
「……弾いてないよ」
「え?」
「弾いてない、弾いてない。そんな動画出してないよ」
「……」
「……あ、待って? あれか? あの動画ね! 弾いた! 思い出した」
「お前……」
「よく覚えてたね、滅茶苦茶前の動画じゃない?」
冷や汗でもかいたように両手で両腕を摩る氷上。湯下はそれを見ると声を上げて笑った。
「ありがとう。氷上ちゃんの言う通りだね。心、入れ替えます」
「分かればいいんだよ、分かれば」
次回投稿は2027/5/9予定です




