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5_ラブレター


 *


机に突っ伏していた氷上を見て、その女性は軽やかな足取りで教室に入っていった。手には大量のビラを持ち、目の前の新入生に向け「頼りになる先輩」を演出すべく精一杯の笑顔で声を掛ける。


「君、浮かれてるね?」


四白眼で見上げる氷上は、しどろもどろになりながら「見てました、今の?」と聞いた。


「んー、見てはない。新入生だよね? 名前は? 部活決まった?」


「見て“は”ないかよ。超はずい……」とうろたえる氷上を、その女性は丸い目で見返す。その顔が氷上の発言を待っているようで、氷上は、

「……氷上です。先輩は?」と小声で続けた。下の名前を明かす勇気はなかった。


「氷上ちゃん。先輩はね……ここに来たら、教えてあげる」


先輩が差し出したビラには、『文藝部 新入部員募集中』と大きく書かれている。勢いのまま驚く氷上を見て、先輩は机の上に置いてあった読みかけの文庫本を控えめに指差し、


「ホームズもびっくりの観察力? 新入部員募集中!」


とおどけて見せると、今度は氷上の返事を待たず、颯爽と廊下へ駆けていった。


 氷上は、幼少期から本の虫だった。親戚の集まりで時折見かける叔父が、大変な読書家であり、見かけるたびに何か本を開いて難しそうな顔をしているのが、憧れだった。自分で物語を書いたことはなかったが、書いてみたいとはずっと思っていて、それ故にこの出逢いは運命的だと強く感じた。ビラを片手に、頭の中を沢山の想いや期待が駆け巡る。これから送る学校生活への期待、加えて、先輩の溌剌とした声と笑顔が、氷上の青い興奮を彩った。


 「やっぱり来た。よろしく、氷上ちゃん!」


文藝部の部室は小さかったが、自分以外にも数人の新入生が見学に来ているようだった。先輩をはじめに、妙に大人びた男女が、バインダーに挟まれたルーズリーフに見学者の名前を記録していた。そのバインダーといい、部室の隅に雑に積まれた学内雑誌といい、埃っぽさを感じる空間だったが、その古本屋にも似た空気の雑多な感じが、氷上の鼻腔を心地よく刺激した。


「ペンネームどうする? 下の名前なんだっけ?」


今朝出会った時は腰を下ろしていたので気づかなかったが、立ち上がってみると氷上は先輩よりもかなり身長が高かった。女性の中でも、特別小柄な方だろう。厚い黒縁のメガネの割には、地毛の茶髪は明るく夕焼けを反射していて、空いた窓から流れ入る風に乗って静かに揺れる。ミディアムヘアはよく梳かされていて、それを耳にかける右手にはペンだこが痛々しく残っていた。持っているシャープペンシルは大分印刷がはがれていて、低重心の柔らかいグリップであるものから察するに、受験期から続けて使っているものだろうと推測された。


 そんなことをうっかり考えていたので、氷上は先輩からの問いかけに上手く答えられなかった。入部前にペンネームを決めるのはいかがなものかと思ったが、先輩曰く「モチベーションが大事!」らしい。


「ペンネーム……皆、本名ですか?」


悩んでいたふりをして、わざとらしく顎に手を当てて返答する。先輩はそれを見てか全く同じポーズをとると、


「そんなこともないよ?」

「うーん、急に言われても出てきませんよ」

「じゃあ、ひ~! なんてどう?」


先輩は、ニタニタ八重歯を見せながら顔をのぞき込んでくる。その腕はフォークダンスを踊る時のように前で腕組みしていて、なるほど今朝の失態のことを揶揄しているのだと氷上はすぐに理解した。声に出ていた独り言が顔も知らない先輩に聞かれているなんて思いもしなかったが、更にはそれがペンネームに提案されてしまうとは。


 露骨に嫌そうな顔をする氷上を見て、先輩はルーズリーフに縦書きで「氷上」と書いてみせた。その字はゴシックフォントにも似た直線的な文字で、しかしトメハネが丁寧な辺り、お手本のような美しさだった。

そして先輩は、その文字の下に「緋衣」と続けた。


「氷上緋衣」


声に出してみると、思いのほか口に馴染んで、安心した。


 文藝部で送る毎日は充実していたが、部の外では、そうはいかなかった。氷上のことを指して、多くの生徒が「豚」とけなした。小さく跳ね回るような女性の先輩が、毎日教室にまで彼に声をかけてくるその状態に嫉妬されていた……そう思えばこそ優越だったが、氷上は悲観的だった。


当時の氷上は、身長百六十センチメートル弱、体重八十五キログラム強の小さな巨漢だった。原因は明白で、高校受験の際にストレスで大食いの習慣がついたことに他ならない。若い身体を信じて、普通に日常生活を送っていれば自然と痩せるだろうという希望的観測は叶うことなく、体重は増加していくのみだった。


氷上は段々と、心理的な負荷を感じ始める。


ペンを走らせる暇があるなら、お前が走ればどうなんだ——と、誰も口にしていない悪口をにやけ顔で自嘲して、傷心を抉って慰めるような毎日を送るようになっていった。


 「あのぉ。ハンプシャー・ボーイ、いませんか?」


ある日の放課後。いつものように先輩は、教室にまで氷上を訪ねてくると、教室いっぱいに聞こえる声量でそう問いかけた。「ハンプシャー・ボーイ」という特異な響きが教室の空中を居場所なさげに漂う。全員が頭にクエスチョンマークを浮かべたような顔で硬直した。秋の夕暮れともあって、木枯らしの吹く音がいやに痛烈な時間だった。


十数秒、沈黙がしばらく続いたのち、先輩は「居た!」と笑ってチョロチョロ氷上の元まで駆けて近づくと、「部活行こう!」と氷上の肩を叩いて、迷わず引き返そうとした。


氷上は、怒りで動けなかった。


「ハンプシャー・ボーイって……なんですか?」


クラスで駄弁っていた数人の生徒、全員の視線を浴びていることに気負っている暇もないほど、氷上は呼吸荒く問いかける。怒らないといけない場面だから怒っているような、遠い苛立ちだった。


「ん? ハンプシャーはね、イギリスにある州の名前」


先輩は、集める視線を気にする素振りも見せず自然に振り返って、いつもの調子で返答する。


「そうです。“養豚業”も盛んなハンプシャー州。そこで生まれた子供は、“ハンプシャーの豚”だなんて呼ばれるんです。——知ってました?」


知らないとは言わせない。


「知ってるよ。君が皆から、シンプルに豚って呼ばれてることも知ってる」


先輩は笑わずに、刺すような口調で即答した。氷上は、虚を突かれたように何も言い返せなかった。先輩は対照的に、ゆっくりと小さな深呼吸を鼻でして、静かに置き並べるような口調で語り続けた。


「ジェイン・オースティンにチャールズ・ディケンズ」

「は?」

「『機関車トーマス』のウィルバート・オードリーもそう。ハンプシャー州は、イギリス文学を語るには欠かせない、作家達の生まれ故郷でもある」

「……」

「好き勝手言わせておいて、食らってんじゃないよ」


 返答を待たずに教室を出ていく先輩の背中を、氷上はただじっと見送るのみだったが、その脳内では、言い渡された忠告を何度も繰り返し、浴びるように反芻していた。


 氷上は、部内でも一二を争う筆の速さだった。一千字から五千字、一万字と徐々に書く文量を増やしていき、部内で回し読みをお願いしては感想を貰って、更に筆を早くした。対照的に先輩は筆が遅いものの、読み応えという面ではどの生徒のどの作品にも勝る個性の持ち主だった。生徒だけでなく教員にも評判で、しかし褒められるたびに先輩は「氷上ちゃんには劣るよ」と謙遜してみせるので、氷上も段々と、先輩をライバルとしてみなすようになっていった。


 ある時から、ファンレター交換会なる通例が始まった。それは部内で回し読みした生徒の作品に対する感想を書いて、匿名で交換し合うイベント行事のようなもので、先輩でも氷上でもない別の生徒がモチベーションアップのために提案したものだった。


先輩は、氷上を含む複数の生徒に送っているようだった。


そして氷上は、先輩だけに——ファンレターを送ろうとしたが、それは叶わなかった。氷上はファンレターの下書きを便箋何百枚分も書いた。書いて書いて書き直したが、どれも読みごたえがなく、満足できなかった。技術的にも文章的にも魅力がなく、ただの自己満足のラブレターも同然だったと、氷上は当時のことを振り返る。結局その後も氷上は、ファンレター——もとい、ラブレターを、書けども書けどもほんの一枚すら先輩に渡すことなく、文藝部を卒業することになる。


 氷上、高校二年生の、一学期最後の活動日。


 放課後の文藝部に、先輩は一枚のビラを持って笑顔で駆け込んできた。氷上をはじめ、ほとんどの部員がこれから始まる夏休みに浮かれに浮かれていた時だった。


「皆! 『小森文学大賞』、やってみよう!」


ぽかんとする一同に、先輩は笑顔のまま続ける。


「『小森賞』は、学生向けの文学賞の中でも、特に注目度が高いんだ。——ジャンルは不問、文字数上限もなし、締め切りだって二か月後。なにより、余っ程運が良ければ、入選して、連載デビューだって有り得る。」


「連載……」と思わず声に出た氷上を、先輩は目ざとく捉えて語り掛ける。


「書きたいか、書きたくないかどっちかだよ。答えは決まってるはずだよ?」


 文藝部員が文学賞に応募した前例はなかった。その不安もあってか、部室は静寂に包まれていて、自然と先輩と氷上の二人だけが話しているような空間になっていた。ひいては、部内一の速筆でありエースの氷上の判断で、部員全員の動向が決まるような、そんな緊迫だった。


氷上はそのプレッシャーが苦痛でなかった。それよりも、果たして自分に書けるだろうかという不安が主だった。


またそれに続くのは、不安というよりも期待の気持ちだった。


「先輩は? 先輩は、書くんですか?」


少し乾いた喉を声の勢いで誤魔化すように、氷上は問いかける。


「勿論。君は? ハンプシャー・ボーイ」


ここぞとばかりに愛称で笑いかける先輩が憎かったが、彼女の返答に、氷上の迷いは断ち切れた。


この年の夏は暑く、然し雲は少なかったために、ひたすらに日照りが肌に痛い数ヶ月だった。じりじりと焦げ付くような日中の太陽が、広いアスファルトに鋭く反射する。その高熱とただでさえ迫る締め切りで、連綿と続く日常が内外から圧し潰される。


 ピンポーン。


というインターホンの甲高い知らせが、カタカタ回る扇風機の翼の間をすり抜けた。


 ピンポーン。


うるさい、という言葉を思いつくよりも先に指を動かし、画面の文字にかぶりつく。額の汗は今にも蒸発しそうだが、これは日照りのせいではない。自身の内圧が故の興奮。


「ひ~か~みちゃん! あっそび~ましょ!」


という声は先輩だ。昨日に続き、懲りない人だ。今日の私服はどんなだろうか、いやいや、そんなことを気にしていられるだけの余裕はない、限界、限界まで——。


「原稿も読み合おう~? つうか暑いよ外! 早く入れて~!」


親も不在なんだ。数時間前に誘われた昼ご飯は断った、優先したいことがあったから。だから、今もこうして。


「ひかみちゃーん?」


玄関まで降りて大仰な素振りでドアを開いたのは、決して先輩の私服が見たかったからではない。開いた方が早く済む、開いてしまった方が結果として、目の前の執筆により長く時間をさけるだろうと考えたからで。


 一日が、擦れる速さで過ぎていく。


 一週間が、溢れる密度で飛んでいく。


 一ヵ月が終わって、締め切り、応募を終えると、氷上はこの夏に振り返られるほどの記憶それ自体が残っていないことに気づく。缶詰めは缶詰めでも、なんだか甘くて酸っぱい漬け物のような風味と、鈍いような苦いような後味の悪さだけが思い出される。


ほんの少しだけ涼しくなり、十月になると、学年の生徒は迫る定期試験に緊張していた。一方で文藝部員はと言うと、選考に応募した者もしていない者も、話題は応募作品のことばかりで、夏前の責任をなすりつけ合うような緊迫の雰囲気も嘘かのように、明るく交流し合っていた。


 選考通知の封筒が文藝部の部室に届いたのは、木枯らしが強く吹く、秋の夕暮れの時だった。その時、五、六人いた部員のほとんどは活動時間中に開いて、その場で半ばイベント形式に結果を周囲と共有した。真っ先に開いて見せあった者の内、選考通過者は一人もいなかった。誰か通過者はいないのか、どこか監視し合うような窮屈な空気が生まれてから、残すは氷上と先輩の二人のみになった。部を代表する実力者二人の結果ともあって、全員が注目したが、それを暖かく受け止めた先輩と違って、氷上は緊張の面持ちのまま、一人、教室を後にした。


氷上は廊下に出て少し歩いた先、うす暗い階段下のスペースに身を寄せた。教室の方からは、いつもと違って一切の声が聞こえない。流石にみんなも、先輩の結果に緊迫しているのだろう。遠くで響く吹奏楽部の練習を背景に、その拍を覆いかぶさるほどの心拍音が脳内を占領して、指も震えて、目の奥だって熱い感触がした。それは興奮だった。氷上には確信めいたものがあった。手応えとも違う、神に味方されているような無尽蔵の自信。丁寧に縁をなぞるようにして封筒の糊部分に指を挟める。糊のべとついた感触が勿体ぶるようで、じれったい氷上は激しい動きで封の部分を引きはがした。通知結果の用紙は白いオーソドックスな普通紙、その凡な風景がむしろ、この後に舞い込む幸運を際立たせるギャップのようにも感じられた——。


結果を見て、真っ先に頭に思い浮かんだ台詞は「知ってた」だったと思う。期待していた訳はなかった。むしろ、高校生に入ってから書き始めたようなずぶの素人が、この短時間で結果を残せるほうが珍しいと、理屈と常識の両方の面から知っていた。ただ、だからこそ、初めての小説だからこそ、と悔しさに下唇を噛んだ拍子に、この夏の記憶が頭の中を飛び交った。今の今まで忘れていた、忘れようとしていた視覚の記憶——年の割には大人っぽい私服姿——また聴覚の記憶——翼の回転音を突き抜けるあの声——そして嗅覚の記憶——やけに爽やかな清涼剤の香り——が、どうしてか流れない涙の代わりに噴き出した。頭は不思議なほどに冷えていて、むしろ爽やかなくらいなのに、その濁流は止まらなかった。


「どうだった? ハンプシャー・ボーイ!」


いつの間にか、先輩が後ろに立っている。先輩は氷上の手元の普通紙を覗き込むと、緩やかに口を一文字にして困り眉になった。その表情が何を意図するかも考えられないまま、氷上が視線を泳がすように俯くと、先輩の手元に小さなブーケがあった。中心にある、『おめでとうございます!』と書かれたメッセージカードを、花や草が彩り豊かに囲っている。


「おめでとうございます」という言葉は、氷上の口から勝手に零れていた。


先輩は、「あー、これ?」とブーケを掲げると、


「来年で、私は卒業でしょ? 高校生活で最後の文学賞になっちゃうわけだ。そいで、私はいらないって言ったんだけど、どうしてもって皆が言ってきかなくてさ」


と、言い訳でもするように苦笑った。


 笑い皺を浮かべる先輩に、氷上は「流石ですね」としか言えなかった。これも何を指してそう思ったかは曖昧だ。ただ自然と口をついて出ていた。出ていったきり、氷上の喉は声を出すことを忘れたように硬直して、目も耳も外に向いているような、いないような中途半端な塩梅で、活動を停止した。


()()()! ()()()()()()()()()~?」


ふと気づくと、先輩は高い位置にある氷上の肩にわざわざ手を載せて、そう口にしていた。氷上は一体何を言われたかが分からなくて、言葉の意味が分からなくて、たった今鼓膜に触れたその音韻をひたすらに脳内で繰り返した。でも動揺からか、上手く呼吸が出来なくて、そのうちに先輩が、


「泣くなよ! 大丈夫だよ! どうした~?」


なんて続けるものだから、氷上も自分が泣いていることに気づいて、ただただ先輩にされるがまま、身体が小さい彼女の抱擁を受けるだけ受けて、涙を拭って、拭って——。


 *


「創作の熱、だ」


そこまで聞いて、湯下は静かに納得した。

氷上は、沸々と顔を伏せて物語っていたところ、急に上半身を跳ね上げて、


「な訳ねえだろ!! 頭にきたんだよ!!!」


と喝破した。店内の客が一斉に二人のテーブルへ視線を寄せる。


「他人のワードセンスに嫉妬するーなんて経験! 湯下にはないか!!!」


氷上はもう一段階ギアを上げて、店中に響く声量でそう湯下に浴びせる。対する湯下は、声量に驚いて一瞬身を震わせたものの、視線を氷上の目から逸らすことはしない。

氷上は、激しい呼吸でしばらく肩を上下させてから、血走る目を大きく見開いて、大口で息を吐いてみせた。


「……ごめん、今のはよくなかった」

「いいよ」


氷上は周囲に軽くお辞儀してから、椅子を引いて座り直す。湯下はやはり姿勢を崩さない。


 かれこれ三十分くらい話していただろうか。氷上の昔話は、それまでの原稿に関する話し合いと同様、湯下の時折のツッコミや相槌を挟みながら、滞りなく進んでいた。全力で語り続けていた氷上は、声を荒げた自分の失態をかき消すように、わざとらしく溜息をついてから、ついつい話過ぎたと言わんばかりに、大仰な素振りで緑茶ラテに手を伸ばした。しかし密度のある液体が喉を伝うのは、決して快いものではなかったので、今度はやけっぱちな短い溜息をついてから、頭をポリポリかきながら小声で弁明した。


「『大丈夫。窓辺の周りは峠だよ』……俺みたいな奴も、これだけ書いたなら、意味くらいは理解できると思ってた」

「先輩に追いつきたいんだ。そして今度こそ……花束を?」


氷上は叱られた子供のように頷く。学生時代のこの雪辱こそが、彼を作家たらしめる所以だった。この時の無念をいつか作品という形で昇華したい、それが文芸に携わる者としての、せめてものプライドだった。


人生初の文学賞での落選、その決定的な場面で掛けられたたった一つの言葉。


あの、「窓辺の周りは峠だよ」という言葉の意味は、一体なんだったのだろうか。


またその「窓辺の周りは峠だよ」という言葉を、先輩はどういう気持ちで口にしたのか。


疑問も尽きず、整理も出来ないままではあるが。


しかしとにかく書いてさえいれば、いつかはきっと分かるだろうから。


いつかは自分も、ブーケを手にすることが出来るだろうから。


氷上にとって、全ての動機の源泉が、たった一つの言葉——「窓辺の周りは峠だよ」に、紐付いていた。

 氷上は悲しげに唇の端を歪ませる。


「笑えるよな。ホームズに飽き足らず、先輩の言葉すらまるパクリ……ましてや、読者の心まで埋めようとしちゃってさ」

「……」


という、湯下の押し殺すような沈黙を待ってから、氷上は、


「……受け売りの感性で吸う空気はうめぇ~なぁ~」


いつかの自分の言葉をそう繰り返して、天井を見上げた。


次回更新は2026/5/8予定です

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