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4/4

4_ファン

 氷上が駆けて出ていった後、湯下は手持ち無沙汰にゲイシャコーヒーを眺めたり、SNSを眺めたりしていた。しかし氷上がなかなか帰って来ず、「少々言いすぎたか」なんて思えて不安にもなってきたので、湯下は手元の単行本や原稿用紙を広げて、少しでも気を紛らわそうとした。


「『大丈夫。窓辺の周りは峠だよ』か……言うほどか?」


独りごちてみたはいいものの、やはり納得出来なかった。湯下は氷上がこの作品にどれ程の熱量をかけていたかを知っている。編集者でもなんでもない自分に、「まずはお前に読んで欲しい」と感想を求めてきたのは他でもない氷上本人だった。氷上は自分に、おべっかやお世辞もなしにして、友人として、また自分とは全く違う人格の代表として、思いつく限りの意見を惜しみ無くぶつけて欲しいと常日頃言っていた。だから湯下もこれまで一歩も引くことはなかったし、実際、ぶつかり合い殴り合いの口論の末に出来上がった文章はどれも見事なものだった。文芸においてはズブの素人である自分が、ここまで口出しをしてよかったものかと真剣に悩まされる程だった。(もちろん氷上は「まるまる全部採用してる訳がねえし最後は俺の裁量だよ。思い上がるな」と言ってくれている)


だからこそ湯下には違和感があった。今日の氷上は、意見を聞きたがっている割には話を進めようとしない。のらりくらり衝突を交わして、ただ情けなく愚痴を零すことが目的だったとしても、結局言いたいところが「自分は二流作家だ」な訳はない。幸か不幸か、氷上は妥協ができる作家ではない。それは自分が一番よく知っている……いいや、二番だ。傲慢で潔癖で完璧主義な性格を、誰よりも知っているのは、自覚している氷上本人に違いない。


「意味……意味が分からないんだよな」


氷上の作風は、少々詩的なハードボイルドを主軸にした、明朗なミステリーだった。これは氷上との間で共有している認識で、この『ハンプシャー・ボーイに花束を』に限らずどのシリーズや短編にも共通している。比喩や演繹があったとしても、それはミステリーとしてのカタルシスやキャラの深化を阻害しない程度に収めることが暗黙の了解で、だからこそ中途半端に匂わせるような描写には細心の注意を払わなければならない。大筋のミステリーやキャラがブレるようなことになってしまうのは本末転倒だからだ。


『大丈夫。窓辺の周りは峠だよ』……これが何らかの比喩だとしたら、意味は大方「美しい達成の前には、峠のような苦難が待っているよ」みたいなところだろうか……。


「手を尽くしたにも関わらず孤児を死なせてしまったハドソンへの……“慰め”……ってところか……?」


いやいや、と首を横に振る湯下。マードックというキャラクターは、ハドソンの医師としての経歴と信念にこの上ない敬意を払っている。ハドソンという男は、「今日一人を救えなかったから明日は一人多めに救おう」なんて身軽な思想で生きている人間じゃない。救えるなら一人でも早く、多く救いたい……という、その強欲さに共感をしてこそ、マードックの推理にもまた磨きがかかるのだ。峠を見ている暇があれば、目の前の窓をピカピカにしたい。そういう不器用な男同士の、ツーマンセルこそが至高なのだ。

何も大丈夫なんかじゃないし、窓の周りが峠だからなんだというのだろう。


……しかも、『窓辺の周り』だし。二重表現だし。


「ここに来てキャラブレ……氷上ちゃんに限ってそれはないか。最終話だしな……いや最終話だからあり得ないか……」

「すみませぇん?」


ますます分からなくなってきて、机に突っ伏そうというほどに背中を屈めていた湯下に声をかけてきたのは、三十代中頃の女性だった。


ついつい独り言が大きくなっていた湯下は慌てて顔を上げる。


橙色のシャツブラウスにドーンピンクのスラックス、強く癖がかった黒髪を黒いゴムでポニーテールにまとめ上げたその女性に、湯下は見覚えがなかった。記憶を大急ぎで辿る湯下は硬直していたが、その間もその女性は眠たげな目を開いたまま、八の字眉に少し微笑んだ口角で、湯下を凝視し続ける。


記憶を辿って、見当がつかなかった湯下は、恐る恐る「ごめんなさい、どこかで?」と声をかけた。


「ああ! えっと、ファンで? ずっと?」


待ってましたと言わんばかりに声を上げる女性に、湯下はやっと理解が追いついた。いつかこんなこともあるだろうとは思っていたが、まさか今日だとは。しかし風貌や今のテンションから察するに——より具体的に述べるのならば「ファンで?」とこちらに問いかけるような言い振りから察するに、自分が期待しているファンではないのだろう。きっと、“あっち”のファンだ。


「ああ……握手とか、します?」


「ああすごい!」と、自分の掌を奪い取るような力加減に、やっぱり、と湯下は確信した。


「そ、そうだ! サイン!」


女性がまた振り切るような速度で手を離して、ショルダーバッグの中身をごそごそ探し始めた隙に、湯下はこっそり振り向いて喫茶店の入り口の方向を確認した。……氷上はまだ、帰ってこないようだ。嬉しい反面、悲しい反面。


「すみませぇん、無いんで、これでいいです」


ペンとか無いですよね、と続ける女性の方を見ると、彼女が差し出していたのは机上に用意されていた紙ナプキンの一枚だった。彼女が何を思ってペンが無いと判断したのかも不思議だったが、特に聞き返しもせず、湯下は自分のバッグからボールペンを取り出し、差し出された紙ナプキンを受け取る。あぁっ、といちいち感嘆の声を上げるその女性が、耳に不快でくすぐったい。


机の上に紙ナプキンを広げたところ、流石に年季の入った良い喫茶店なだけあってか、机もチープな訳はなく、表面にガタガタと木の繊維が凹凸していたので、およそボールペンでサインをしたためるのは難しそうだった。視界を広げると、下敷きに向いていそうなのは氷上のノートPCと『ハンプシャー・ボーイに花束を』の単行本二冊……迷うまでもなく、湯下は自分のバッグから読みかけのエッセイ本、もちろん氷上が作者ではない一冊を取り出し、下敷きにする。書いている最中も、自分の背中に目がついているような気持ちで背後に意識を分散させる。氷上が帰って来ないことをただ祈る。


サインを書き終わると、湯下がボールペンをしまうのを待たずに、その女性は紙ナプキンを机の上から手に取った。


「うわぁあ、ありがとうございます! 家宝だなぁこれは!」と言いながら、紙ナプキンを四つ折りにしてポケットにしまう女性。せめてバッグにしまいなさいよ、と笑いかけるのは野暮だろうか。うむ、きっと野暮だろう。よっぽどサインが嬉しくて、興奮しているからに違いない、そう思うべき場面だこれは。


「じゃあ〜最後だし、いいですか? いつもの、最後の?」


そう言うと女性は、たった今紙ナプキンをしまったジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、背面を湯下側に向けた。一瞬硬直した湯下だったが、すぐに要望を理解する。おずおずと立ち上がりながら今度はしっかりと顔を向けて喫茶店の入り口を視認する。……まだ、氷上は帰ってこないようだ。加熱式タバコはそんなにも長く楽しめるものなのだろうか。生まれてこの方、酒もタバコもギャンブルも嗜まない湯下には分からなかった。社交の場にも顔を出す身分として、もう少し詳しい方が良かっただろうか、もっと安い嗜好品には詳しいんだけど……みたいなことをツラツラ考えながら、背筋を伸ばしたりストレッチをしたりして、不愉快を誤魔化す。この時間。この人が、僕を待っている時間が苦痛だ。一曲演奏する方がまだずっといい……。


「失礼しまっす」


と、声をかけて二人の間に割り入ってきたのは、加熱式タバコを右手に持った氷上だった。机の周りを、女性が立つ側を回って通り、席に着く。女性は、一度回していた動画を切る操作をしながらスマホを下ろし、氷上の背中を見る。氷上といえば座ったきり、自分たちには背中を向けて、明後日の方角を見ながら頭を悩ませている風だ。


湯下は、ここが機会だと感じた。


「ごめんなさい、プライベートだから」

「ああ」


ごめんなさい、もなく、女性はペコペコ首を振りながら死角の席にまで戻っていった。その隙に氷上をチラッと睨んだようなそんな気もしたけれど、湯下はそんな疑いを振り払うようにして姿勢を整えると、静かに腰を下ろして、氷上に「おかえり」とだけ言った。


「人気者は違うね? 腰も低くて良い人そうだった。類は友を呼ぶんだな」


氷上は、女性が戻った席の方向をチラチラ見ながら口を尖らす。


「そうかな」

「お前、Youtubeとか全然見ないタチでしょ。そういうの分かっちゃうんだなぁ。職業病っての?」


同じオーラだった、と女性の席の方面を指さす氷上は、ニンマリと笑っている。「どこがだよ」と思わず毒づく湯下に、氷上は「急に厳しい」とわざとらしく両腕を上げて降参を示す。

湯下にとっては、氷上のこういう意地悪な所が何かと過ごしやすかった。


「話を逸らさないで。腹を割って話そう。何に迷って、何を聞いて欲しいの」

「はずいなぁ~……んー、あれはね。桜も吹雪く弥生月。穏やかな春の日のこと」

「真剣に」

「真剣だよ」


笑い飛ばす氷上。思わず、え? と聞き返す湯下に、氷上は身を乗り出してわざとらしく語って見せた。


「おろし立ての制服に身を包み、新入生・氷上緋衣は、来る高校生活に胸を弾ませていました。初めての教室、初めての机。——入学式まで、あと三時間!? 道理でまだ誰もいねぇのか! ひ~!」


次回投稿は2026/5/6予定です

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