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3_ハンプシャー・ボーイに花束を

氷上は、緑茶ラテ越しに机の上の単行本を睨みつける。


「読んでりゃ嫌でも分かるでしょ。——あ、もしかして実は、買っただけ?」


湯下は、私物の単行本を開いて、これでもかと背表紙裏側を開いて見せた。机の上にたたきつけるようにして開いたものだから、氷上も驚いて一瞬のけぞるが、覗き込むとすぐに意図を理解してその本に手を伸ばした。


「ヤッダもう! 初版じゃ~ん!」

「適当に書かれた小説なんて存在しないよ。この『ハンプシャー・ボーイに花束を』もそう」

「あたぼうよ? 血と涙の結晶ですからねーこれでも」


緑茶ラテを口につけながら読み返す氷上に、湯下はおっとり読み聞かせるように話し出す。


「主人公『マードック・フォークス』は、ロンドンに事務所を構える “イギリスいちの名探偵”。持ち前の頭脳と運動神経で、スコットランドヤードよりも鮮やかに、あらゆる犯人を追い詰めていく。決め台詞は、『君、浮かれてるね?』」


ひゃ~、とわざとらしく悲鳴を上げる氷上だが、その腕にはしっかり鳥肌が立っている。


「そんな彼の相棒は、医者の青年『ハドソン』。物語は、ハドソンの日記の体をとって進んでいく。笑いあり涙ありの大冒険で、二人の心は徐々に近づき、そして重なり合っていく」


鼻だけで息をつくように肩を落とす氷上を見て、湯下は改めて身を乗り出した。


「どのエピソードも作りこまれてるし、キャラクターも、一人一人が魅力的だ。コミカルで人間味に溢れてて、いつの間にか惚れ込んじゃう。……それももう、最終話かぁ。知能犯『小森アーティ』の挑戦状には本っ当に、胸が躍ったな。なにより、努力でのし上がってきたハドソンが、計算された犯罪に心惹かれていく流れ。そしてそれらをいとも簡単に看破してみせるマードック。二人を隔てる絶対的な溝が、最終話でどうなってしまうのか。この行く末は見逃せないよ」

「湯下は優しいね」


いつの間にかアクセルが入って息が上がっていた湯下を諫めるでもなく、氷上はただ机の上に単行本を放った。湯下は一人盛り上がった勢いで大きく息を吸うと、毅然と背筋を伸ばしなおして、一言「良いものは良いと伝えたい」と言いきる。それに言い返すでもなく、頷きもせずに、氷上は緑茶ラテを口につけたまま机上のノートパソコンの画面に視線を向けた。その瞳はなにか文字を追っている風でもなく、画面の向こう側、遠いところに視点だけ置いて、何か言葉を——ひいては自分の気持ちそれ自体を探している風だった。そうしているうちに、なんだか店内の他の客の話し声が一段と大きく聞こえてくる。そんなに混んでいたのか、と周囲を見渡す湯下だったが、二人の近くの席には、隣の一組の老夫婦と、近くの大学の学生だろうか、若者三人組がはす向かいで話に花を咲かせているばかりで、なるほど今までの自分の声が少し大きすぎたのか、と納得する。それと同時に、そんなことで恥じらいを持つ作家ではないだろうと氷上をいなしたい気持ちが湧きたったが、それは追い打ちになるとグッと堪えて飲み込んだ。あまりに口が乾いていたために、湯下は自分が、かなり腹を立てていたことに気付く。


 その時、厨房の奥から「何名様ですかァ? えぇ、三めぇ?」という怒号と、続いて深い溜息が店内に響いた。とても店員とは思えない態度に、盛り上がっていた大学生三人組も思わず振り返って、コソコソ身をかがめて笑い始める。老夫婦も苦い顔をして、聞こえていないような顔で、足元のアンティーク雑貨が良いだの話をそらし始めた。


「なに今の。こわ」、と笑う氷上。その目は相変わらずノートパソコンの画面を寂しげに見つめているが、テーブルの下では彼の右足が貧乏ゆすりで落ち着きなく揺れている。


この店が行きつけである湯下は、今の声の主が誰かを知っていた。わざわざ厨房奥から店先の客に声をかけた辺り、大方今日も調理の手順が上手く回らずに苛立って、八つ当たる先を探していたのだろう。


「……アルバイトの佐藤さん。ここの店主が、誰彼構わず雇っちゃうんだよ。勿論、ホールに出るのは、信用できる人だから大丈夫」

「は~ん……俺の読者じゃなさそ~」

「……適当な読者?」

「そお……」と、氷上はやっと視線を上げた。しかしその目は据わっていて、口も「そお」の「お」の字で固まったまま、首も音の余韻で頷き、苛立ちを隠せていない。


「仕事に、家庭に、趣味に、推し活に、恋愛。自分で選んでおきながら、そういうのに『生かされてる』人間っているじゃん? 自分に向き合わず惰性で過ごし、なんとな~くで泣いて笑って、気楽なさ。……俺は、そういう連中の受け皿だよ」


氷上はスマホを取り出した。三世代ほど前の機種には、アクリルケースがかぶさっている。年季が入って黄色く濁ったそのケース越しだと、背面の黒は濃い緑にまで色濃度が落ちていて、氷上の関節立った指を鈍く反射している。氷上はスマホを二、三操作すると、単行本の上に重ねるようにして差し出した。上向いた画面には、読者アンケートの集計結果が、少しスクロールしても終わらないほど長く、永遠に並んでいる。そのまま氷上は、だらんと下した中指でスマホ画面をスクロールして、『感想(自由記述)』欄のまとめ箇所を表示させた。


「どう読んで、何を想おうが勝手だよ。でも『ホームズみたいで好き』とかわざわざ言う? 『読んでる間はイジメを忘れられる』とか寂しくない?」

「……いいじゃんか。批判でもないし」

「批判なんてしねえよ。俺に生かされてんだもん」

「そんな言い方」


氷上はスマホを取り上げると、人差し指で画面をカツカツたたきつけるように操作する。


「み~んな、自分の脚で立派に立ってるつもりなんだな。みっともないったらありゃしない。やんなっちゃうね~全く……これ」

今度は手渡されたスマホを、湯下はおずおずと受け取る。

「あぁこれ……」


それは数ヶ月前に話題になったニュース記事だった。長編ライトノベルを対象にした、ミステリー部門の文学大賞。その受賞者の一人に、また別の公募新人文学大賞の受賞作を盗作した疑いがあるとの内容だった。この騒動を受けた問題の受賞者の声明が妙に喧嘩腰であったこと、また公募新人文学大賞の方に大変な歴史があった反面、問題の文学大賞が若く、また主催する運営の選考基準もブラックボックスだったことなど問題が多く、ネットを中心にテレビでも大変な騒ぎになったことをよく覚えている。湯下も問題の小説を、盗作元先疑わしい両方とも読んでみたところ、トリックやプロットだけならまだいいものの台詞やキャラクター性にまで類似点が多くあり、閉口せざるを得なかった。


「そいつが本当に盗作をしたかなんて、どうでもいいよ。問題は、その下」


湯下はニュース記事をスクロールして、下部のコメント欄を確認する。二百件ほどのコメントがついており、その一つ一つにいいねやよくないねの反応、リプライがついて大盛り上がりだ。湯下はその一つ一つを見送る。段々と、氷上が何を言いたいのかを分かってきた。


「『同じパクリでも氷上の方が面白い』『マードックに言わせれば、こいつは云々かんぬん』……関係ねーじゃん、褒めてもねえじゃん。……でも、バズるんだな。記事と合わせて俺の名前がトレンドに上がる。『#ハンプシャー』『#ホームズ』……いやいや。俺は、本の前のアンタと話してんの。アンタが何をどうして好きか、それだけを相手にしてんのっ」


氷上は、文句に合わせて机を指で叩く。例の小説は、どちらも確かにかのアーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズをオマージュしているものだった。それは氷上の『ハンプシャー・ボーイに花束を』についても変わらない。


 湯下は黙ったまま、氷上にスマホを返した。氷上は留まることを知らず勢いのままスマホを取返し、言葉を続ける。


「『名は体を表す』ならば、『発言はその人を表す』。つまり、軽薄で適当な言葉を放つ人間は軽薄で適当な人生を生きている。そういうヤツが読む本なの」


氷上は自分の単行本を顎で指す。返事を煽るように湯下を睨むが、湯下は何も言い返さない。対する氷上は、段々と声が大きくなり、座り方や身振り手振りも大仰になっていく。


「——ふっ、悔しいなら自分の言葉で反論してみろってんだ。まぁ受け売りの感性でも美味しい呼吸できてんだから余計なお世話か。寂しい通り越して惨めだよね~」


その時、ガシャンと食器がぶつかる音がした。突然のことに二人とも、音の出所が一瞬分からなかったが、それが自分たちの中間に乱暴に置かれたゲイシャコーヒーのカップであることに気付くのに、そう時間はかからなかった。見上げると、リネンの黄色いYシャツを腕まくりして黒いキャップを被った十代後半と思しき青年が、ポケットに手を入れたまま突っ立っている。その男性は、子音強めに「あのぉ~」と口を開くと、


「自分、馬鹿なんで良く分かんないんすけどぉ」


「佐藤さん?」と聞き返したのは湯下。


「いいから書けばよくないですか? 作家なんだから」

「「……」」

「自分も窓辺だかで濁すのに、妙な言いがかりつけて愚痴ってんのは、」


その時、カランカランカラン、と入店を知らすベルの音が店内に響いた。アルバイトの佐藤さんは、音のした方に目を向けると小さな舌打ちをして、


「三名様ですかぁ~~!?」

と眉間に皺を寄せたまま歩いていった。


 佐藤さんが去ったあとの机は、酷く静かだった。中心に置かれたゲイシャコーヒーも居心地悪そうにしている。佐藤さんの怒号が二人の脳内をこだまする。氷上は目を大きく見開いたまま、呼吸を忘れていたのか徐々に肩で息をし始めると、我慢ならなかったのか急に震えだし、開いたままだったノートパソコンをバンッと乱暴に閉じた。


「はいはいはーい! ない物ねだりですわぁ! 『窓辺の周りは峠だよ』! 締めの一杯はこいつで決まりぃ! ごめんねーっダルい人間で! あとは『氷上緋衣大先生』の腕の見せ所ですね~!」


そう言うと氷上は、閉じたばかりのノートパソコンをまた開いて、画面にかじりつくようにして、ガツガツと大胆な音を立てながらキーボードを打ち付けた。


その姿を見た湯下は、自ずと「嘘をつけ」と口にしていた。硬直する氷上。湯下としては、最初から分かってはいたものの、覚悟がなかった。氷上をいなし、先導するだけの心構えができていなかったのだ。しかし、自分たちの問題に直接関与していない佐藤さんの、まさかの一声で身が引き締まった。何を他人事の顔で待っていたのか。こうなった氷上を先導できるのは、自分しかいないというのに。


「何が?」

「やっと分かった。その言葉で決まりって氷上ちゃん自身が思えないんだ。だから僕を呼んだ」

「……いやぁ。俺は、ハイソな湯下にハイソなアドバイスを貰いたくて、」


とぼける氷上を、湯下はノートパソコンの上の縁を両手で抑えるようにして制止する。


「逃げるな卑怯者」

「……ええ? ……それって、上弦の参? ふふ」


氷上は、つい先ほどまでの勢いから急につまずいたようにして、身を引いた。キーボードから離れた手は、迷うように空で指を擦り合わせてから、ポケットのあたりを叩いて探り、中から加熱式タバコを引っ張り出す。電源を入れて加熱させる間だろうか、貧乏ゆすりで揺れる右足が机の向こう側からも見て取れる。無駄な動きが多すぎる。


「つ、つうかさっきからさ。湯下ちゃん、退屈でしょ? 帰っていいよ」

「氷上ちゃん。この店、禁煙」と言う湯下の指先は、遠くの『No Smoking』の掲示に向いている。


氷上は、「しょうもねぇ」とだけ吐き捨てて、店の出入り口まで駆け足で逃げていった。

次回更新は2026/5/6予定です

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