2_氷上と湯下
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そこまで話して、氷上は満足そうに頷いた。何日入浴をさぼっているのか、少し脂ぎった茶色いロン毛が、頷きに合わせて軽く揺れる。髭は剃っているようで清潔感はあるものの、着古したパーカーもボトムスもよれによれていて、どこかみすぼらしい印象だ。コーヒー一杯で900円もするこの喫茶店の品格漂う内装には、到底似つかわしくない。ましてや椅子から立ち上がり、両手を大きく広げながら満足そうに頷く今の姿は、実年齢以上に幼く見えて、はしたない。
その対面に座る青年は、そんな氷上の話を大人しく熱心に聞いていた。かれこれ三時間ほどになる。大袈裟な面白おかしい風な語り口調にも、律儀に毎度「面白い」だの「良いね~」だの返していて、関係が親密であることを伺わせる。机の上に広げられた氷上のノートパソコンや原稿下書きにも目を通しているようで、また立ち上がった氷上にもしっかり視線を合わせていて、大変行儀が良い。
しかし、そんな青年——湯下も、今の台詞には少し思うところがあったようだ。明らか苦言を呈する風に硬直して、首を傾げる。
「あれ、『峠』? 最後は『ライ麦畑』じゃなくて?」
「……やっぱりそこだよね?」
「直前まで、マードックはライ麦畑を駆けていたよね? ハドソンの診療室も、その畑の中にあるんでしょ? ……もしかして、実は診療室を囲む四方のうち一方が崖になってるの? だったらそう書いてもらわなきゃ」
「いや、周囲はライ麦畑だよ」
小ばかにした言いぶりで、氷上は返答する。
「……」
湯下は眉間にしわを寄せて、顎に手を当てながら考える。
「……でも、展開は面白いな。つまり相棒であるハドソンがー、その孤児である女の子を……殺してしまった?」
「違うわ! これは医者であるハドソンが、衰弱する孤児を助けようとしてぇ」
「あと一歩が間に合わなかった!」
手を打つ湯下に、氷上は指をさし返す。
「不屈なマードックと、未熟なハドソン。身も心も傷だらけの二人に送るのが、」
「タイトル回収! 『花束』だ!」
食ってかかるように言い返す湯下に、氷上はのけ反って呆れてみせた。
「……違うよ。『窓辺の周りは峠だよ』」
「……ていうか、二重表現だよ。せめて、『窓の周りは峠だよ』であるべきじゃない?」
「すみませぇ~ん!!!!」
話はおしまいだ、という風に、氷上は大声で片手をあげた。すぐに、はーい、という声が聞こえて、喫茶店の店員が駆け寄ってくる。氷上は分厚いコップを差し出して「緑茶ラテお替り~」と間の抜けた声で注文し、続く湯下は少し不満そうな顔をしてから、「ゲイシャコーヒー」と端的に注文を済ませる。店員としても、この二人の間を漂う嫌な空気を気遣いたいようで、視線を軽く泳がせながら、「砂糖とミルクは?」と短く湯下に問う。
「いらないです」という湯下のきっぱりした否定と、「くださぁい」というやはり間の抜けた氷上の横やりが交差した。湯下がうんざり溜息をつく。目を真ん丸にする店員に、湯下は「すみません、お願いします」と申し訳なさそうに頭を下げる。
店員が去ったあとも、氷上は気だるそうに椅子にのけ反ったままだ。流石に許せない、と言わんばかりに、湯下は身を前に乗り出す。
「ゲイシャコーヒーが、いくらするか知ってる?」
「砂糖とミルクは貰うよ。ここの緑茶ラテ薄くて堪んねぇの。湯下は舌までお上品なんだね」
「氷上ちゃん」
「あ゛ーもうっ」
氷上も何かを振り払うようにして、大きな声を上げた。湯下は刺すように続ける。
「『ハンプシャー・ボーイに花束を』の最終話。その展開について、僕に相談したいんだよね。だから僕も予定を開けたし、この喫茶店を予約した」
「夜はバーになる喫茶店」
「一見さんお断りの口がかたい店だよ。そうやって馬鹿にしたいだけなら、流石の僕もむかっ腹が、」
「ぶっちゃけ、Web小説とかも抜きにして、どっからダメ?」
氷上は体を開くようにして座り直し、湯下の顔をのぞき込む。乾燥した首が大きくうねるようにして下がり、どこか蛇を彷彿とさせる。湯下は問われると、机の上に置いてあった『ハンプシャー・ボーイに花束を』第二十三巻の単行本をジーっと見つめ、重々しく口を開いた。
「……タイトル」
「五年連載して今更!?」
「この『ハンプシャー・ボーイに花束を』って、結局、どういう意味?」
「なんでもないよぉ~、『かいけつゾロリ』のゾロリみたいな」
「ゾロリはジョンストン・マッカレーの『怪傑ゾロ』が由来だよ」
湯下はパラパラと二十三巻をめくりながら、暗唱するように語る。
「ハンプシャー・シティにも少年のキャラはいないし……そもそもハンプシャーは、イギリスにある“州”の名前だ。シティじゃない。」
「じゃタイトル変えますか! そうだなぁ~、『緋色の研究』!」
パチパチィ~、と両手を嫌味に叩いてみせる氷上を、湯下は「先生」と短く叱った。
「Web閲覧ランキング第二位、単行本化もご経験の氷上緋衣大先生?」
氷上も負けじと、嫌味たっぷりに湯下に言い返す。
「なんですかぁ~全日本ピアノコンク―ル第三位の湯下美空さん?」
「どうして僕に相談したの」
「全日本第三位は、文壇界にもお詳しいでしょう!」
湯下は少し乱暴な手つきで、椅子の背もたれにかけられていた茶革のメッセンジャーバッグをあさると、中から『ハンプシャー・ボーイに花束を』第一巻を取り出す。随分と持ち歩いたようでページの隅は茶色く染みて、カバーもところどころ破れてしまっている。
氷上はそれを見ると、嬉しそうにニンマリと口角を上げて、わざとらしく周囲を見渡した。
「やめてよ~もう。しまって、しまって!」
本を押し返す氷上の力はとても小さい。
「読者は皆、真面目だよ。大事な最終話なんだから。投げ出さないで、最後の一行まで絞り出そう?」
ここ三時間の話し合いで、最終回の大雑把なプロットは固まりつつあった。しかし、物語をしめる最後の一行が、このままでは『窓辺の周りは峠だよ』になってしまう。湯下としては、半端なノリや閃きで結末の描写が決まってしまうのは悲しかった。ましてや、このやっつけ風な氷上による決断は何としてでも避けたい。長い付き合いの中で、こうなった氷上の面倒くささと、おいおい残る後悔の大きさは良く知っている。
「真面目ね~。真面目な馬鹿もいるぜ?」
「馬鹿を切り捨てんのは二流。どんな人でも楽しめるように仕上げるのが、」
「一流だけどね~」
お待たせしました~、と店員がカフェトレーを持って歩いてくる。緑茶ラテを丁寧に氷上に給仕してから、最後に角砂糖入りの皿とミルクピッチャーが一緒に乗せられた小皿を机の中心に置くと、ミルクピッチャーの持ち手が湯下の方を向くように小皿を回転させる。ゲイシャコーヒ―は煎るのに時間がかかっているのか、まだのようだった。
店員が帰るのを待ってから、湯下は小皿を氷上の手元に置き直した。氷上は当然の顔で緑茶ラテに向けてミルクピッチャーをひっくり返し、角砂糖も同じようにして、五、六個投入する。緑茶ラテをワイングラスのように回す氷上は、納得した素振りで続けた。
「まぁ『真の一流』は、そんなこと気にしないし。うん」
「……氷上ちゃんって、Xみたいな性格してる。」
「X? ああ、Twitter」
「そういうところ。厭世的だ」
「あんまり難しい言葉を使うなよ? 弱く見えるぞ?」
「卑屈でネガティブってこと」
「所詮俺は、雰囲気だけの“二流”エンタメ作家だからな~。「やばーい! 凄ーい! 面白ーい!」つって、“頭空っぽにして楽しめる”話しか書けねーの」
湯下は、とうとう本性表したな、と強めに食ってかかる。
「今のを読者が聴いたら泣くだろうね」
「連中は、その涙のワケも説明できない。ここと、ここが、スッカスカだから」
氷上は、自分の頭と胸を、人差し指と中指を突っ立てるように指さした。
「何がどうしてどうなのか、自分の言葉じゃあ語れない!」
「それでも、そんな心を埋める物語を、書いてきたんじゃん」
「ほら、否定しない」
鼻で笑われた湯下は、今度は私物の第一巻を氷上の目と鼻の先に掲げた。
「二流の小説家には書けない話だよ! さっきのだって、『窓辺の周りは峠だよ』……まぁ分かる人には分かる、巧みな表現だと思う!」
言い切る湯下に、氷上は少し気圧されて、
「い、言ったな? じゃあ~、これで決まり!!」
湯下の元にあったノートパソコンを手繰り寄せて、カタカタ嫌味な音を立てて原稿を進め始める氷上。チラチラ湯下の方を見ながら、
「『窓辺の周り』……は~! 最後を締めるにふさわしい台詞だな~!」
と、わざとらしく独り言を並べてみせる。
「……いや……」と言葉を探す湯下に、氷上は、
「って! 思ってくれるだろうよ読者様は! テキトーなんだから!」
「……適当?」
次回更新は2026/5/5予定です




