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1_最終話_ver.0

 煙に満ちるロンドンの中心、ホワイトチャペルの外壁を、名探偵マードック・フォークスは細い人差し指でなぞった。黒く粒だった煤が付く。息を吹きかければ宙を舞い、雲に覆われた灰色の空へと霧散する。見上げた彼は、かの宿敵、小森アーティのことを連想した。語るに尽くせぬ、恐ろしい男であった。そういえば、ライヘンバッハの滝つぼから見た水面も、この空のように混沌としていた。沈む手前、覆いかぶさるように私の顔を覗きこむ宿敵の瞳は、許しを請うようにもはたまた挑発するようにも見て取れた。そんな彼奴の死骸も、この煤ほどに細かく分解され、グレートブリテンの大地に眠っただろうと信じたい。


「行かなくては」


 ハンプシャー・シティ。始まりの街。


医者の血筋に生まれたハドソンは、私の遺言に従って大人しく実家に戻ったに違いない。初めてこの街に訪れてから——つまりは、初めてハドソンに出会ってから、私は、彼が骨をうずめるべくは煤にまみれたベイカー街などではなく、この緑豊かなハンプシャーの地であると考えていた。彼には多くの無茶を強いたが、それもこれも私の本意ではなかった。ましてや、彼の弱みに漬け込んだ小森アーティの思惑を、私は到底許すわけにいかなかった。この辺境の街であれば、ハドソンも小さく尊大な絆を大事に、周囲と足並みをそろえて前に進んでいけるはずだ。遺言に認めた魂胆がハドソンにバレていないことを望みながら、マードックはライ麦畑を駆け抜ける。


 傷が痛む。今この瞬間も、小森アーティと刺し違えた傷からは血があふれている。引きずる足は、ハンプシャー・シティの大雑把に舗装された路を踏むのにはいまいち心もとない。


ライ麦畑の風が頬をなでる。


そうしてやっと見えてきた、二人だけの秘密基地。ライ麦畑に孤独にたたずむ、その小さな小屋は、随分と年季が入っている。辺りは閑散としているし、ここがハドソンの診療室と一目で判別するのはきっと難しい。しかし、私と——この街に住む住人であれば分かる。ハドソンはそれほどまでに、寂しくも他人に愛された男であった。


マードックは震える手でドアを押しのける。するとその小屋の窓辺、砂で濁った四角い窓のすぐ傍に、一人の血まみれの男——ハドソンが立っているのが分かった。足元には、いつか見た子供がやはり全身血まみれで横たわっている。


「違うんだ」


何があったんだ、という問いかけも無視して、ハドソンは、涙ながらに真実を語る。瞬間、遺言は読んだのか、だとか、その子供の容体は、だとかも脳裏をよぎったが、マードックは残酷ながらも冷静に主張を聞き入れ、また状況を観察した。マードックがすべてを理解するのに、そう長く時間はかからなかった。ただ彼はハドソンを良く見つめ、口元を静かに緩めると、笑顔でこう呟いたのだった。


「大丈夫。窓辺の周りは峠だよ」

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