番外編 おかえり、シーナ
16歳のシーナと11歳のスバルのお話です。
久しぶりに月人が湖水岬へ来た。
「こんにちは、椎名先生!」
月人はいつものように、さわやかな笑顔で俺に挨拶をした。スバルの船でこちらへ来たらしい。
「今日は桜を撮りに来ました。湖面に映ってキレイだって木島さんに聞いたから」
「そうか」
すぐに写真を撮るかと思えば、猫たちのところへまっしぐらだ。早くもハチを抱き上げている。さかんにハチの頭を撫でている、かと思ったら。
「あっ」
と叫んで空を見上げた。
「ホーホケキョって、聞こえました! ウグイスですよね」
興奮気味に俺へ尋ねる。
「ああ、そうだな。春先にしては上手な鳴き方だ」
珍しくもないから、気にも留めなかったが、月人は違うのだろう。
「下手なのってあるんですか」
「あるとも、ホーで止まる奴もいる」
俺の解説に月人はケラケラと笑った。なんていうか、月人——風間は屈託がない。
俺が見慣れて見落とすような小さなことに、気づいては目を輝かせる。
「風間くん、どうする? 湖を一周しようか」
スバルの声に、ハチを下ろすとタグボートへ風間は駆けていった。
「一周、お願いします」
「わかった。おーい、シーナ」
病院へ入ろうとしたところで、スバルに声をかけられた。
「バイク、小屋から出しておいてくれないか。風間くんを乗せる約束をしたんだ」
「おいおい、ガソリン空っぽだぞ」
「大丈夫、手に入れてきた!」
いまどき貴重なガソリンをどこぞで入手したものか。
「おねがいだよー!」
ふん、こどもの頃から変わらんヤツめ。仕方ない、バイクを出しとくか。俺は病院の裏手にある作業小屋から、年代物のバイクを引っ張り出した。
俺の伯父が乗っていたオフロードバイクは、定期的にスバルに手入れされ、大切に使われている。
——あのときも、このくらい整備されていたらよかったろうに。
やれやれと病院の前のベンチに腰をおろす。
豆粒ほどの大きさになったスバルの船は水脈を引いて、静かな湖面を滑っていく。桜の見どころは、湖の対岸だ。戻ってくるのに小一時間程度か。
今日の患畜はまだ来ない。外で待っていてもいいだろう。
バイクを見てると、否が応でも思い出すことがある。もう40年以上前の出来事だ。
俺が16、スバルはまだ11歳だった。
「あれー、シーナ帰ってたの」
俺が小屋からバイクを引っ張り出しているのを、目ざといスバルに見つかり、声をかけられた。オーバーサイズのTシャツにハーフパンツのスバルは、いかにも元気な男子小学生スタイルだ。
「ああ、昨日な。夏休みだ」
一日がかりで、母親と月から帰省した。
「やった! 何して遊ぶ。泳ぐ? それとも釣り? 着替えてきてよ、そんなシャツじゃなく」
そんなシャツっても一応、月の名門校の制服のだぞ。
「腕にぶら下がんなよ」
バイクを押す俺の腕にぶら下がるスバルに、さすがに閉口する。
「おまえは、何? またじいちゃんちに預けられたか」
そういうと、スバルは俺から手を放して、うつむいた。あ、ヤバ。聞いたらダメなやつだったか。
「俺、しばらくはこっちにいるから、明後日あたりから遊んでやるよ。今日は出かけるから……」
バイクを押す俺に、スバルはついてくる。
「どこいくの? おれも行きたい。連れてって! おねがい」
「連れてかない、それよか、あんまり騒ぐな」
すったもんだしているのが、聞こえたんだろう。椎名動物病院から、じいさんが出てきた。
「鷹尾どこへいく気だ、そんな古いバイクを引っ張り出して。話し合いはまだ終わってないぞ」
白衣に白い頭。シャツとズボンも白いから、椎名のじいさんは全身真っ白に見える。
話し合いっても、俺がいてもあんまり意味がないんじゃない?
「鷹臣おじさんとこ。東区は峠道越えればすぐだし」
「バイクなんて、運転できるのか」
怪訝な目つきで、じいさんはオフロードバイクを腕組みをして見ている。
「できるよ、俺むこうでモーターサイクルクラブに入ってるんだから」
もう二年もクラブでバイクに乗っている。俺はバイクにまたがると、右足でキックレバーを踏み込んだ。無反応。ちょっとまて、えーとガソリンは入ってる。チョークも引いたけどかからない。ならなんだろう? じいさんの目つきが険しくなる。
「わかった、押しがけだ。スバル、離れろ」
俺はバイクを押して勢いよく走り、飛び乗るとクラッチを握り、ギアを二速に入れた。勢いついたところで、クラッチを離した。すると、マフラーから白煙が上がる。振動が体に伝わる。エンジンが動き出したんだ。
やった! 俺は右グリップをゆっくり回すと、じいさんとスバルのまわりを一周して見せた。
「すごい、シーナすごい!」
へん! どんなもんだい。俺はバイクのエンジンを切らず、そのまま停車させた。
「じゃ、俺はこれで。あ、伯父さんに電話しといてよ」
「おまえ、大事な衛星電話を私用に使わせるな」
だって他に方法がないよ。とりあえずボディバッグには着替えの他に、月で使っているモバイルは入れたけど、地球では使えないし。
じいさんは、渋い顔をした。代々、湖水地域で医師を務めているから、生真面目なんだ。
「えー! おれも、おれも!」
スバルは、バイクにしがみついて離れない。
「連れていって、あげなさい。鷹臣には連絡しておくから」
そんな、じいさん。簡単に言うなよ。俺はとりあえずスバルの家へ行った。「迷惑をかけるな、やめなさい」とスバルのじいさんが言うのを期待して。
スバルの家は、動物病院から三軒離れているだけだ。
あれ、家の前の船着き場に、じいさんのタグボートがない。留守なのか。
「ただいま、シーナ待ってて。ひとりで行かないでよね」
スバルがバタバタと家に駆け込む。でも、誰かいる。たぶん、あの人だろう。サイアクだな。
「ごめんください」
俺が玄関で声をかけると、上がってすぐ右手の台所から、スバルの母さんが顔を出した。バサバサの髪は、金髪だか茶髪だかわからない色味になっていて、衿ぐりがやたら深くて胸が見えそうなシャツを着ている。
やっぱりだ。今回はスバルと二人で来たらしい。
「あら、椎名のお坊ちゃま」
俺を見て、たばこを一口吸うと、にっと笑って煙を吐いた。
明らかにからかうような口調だ。
「母さん、シーナとでかけるから。シーナのおじさんとこ」
リュックを背負ったスバルに母親は、ふーんと言うだけだ。断る様子も悪びれる様子も全くない。
「よかったわね、鷹尾お兄ちゃんが来て。あんた、懐いてるもんねえ」
スバルの母親は、スバルの頭をわざとらしいまでになで回す。
「ついでに弟にしてもらえば? ね、お坊ちゃまも弟が欲しいでしょ?」
猫なで声で話しかけられ、背中に鳥肌が立つ。
「いこう」
スバルはうつむいて靴をはくと、俺の手を引いた。
「もう帰って来なくてもいいわよ」
スバルの指にぎゅっと力が入って俺の手を掴む。俺の中で、何かが切れた。
「行くぞ、スバル!」
こんなところにスバルを置けない。
「……いいよ、シーナ。母さん、いつものことだし。もうすぐリコンするんだ、だから……」
「だからって、あんなのは言っちゃダメだ。スバルに言うべきじゃない」
スバルは、小さく「うん」とうなずいた。
あー! ムナクソ悪い。
俺は小屋から予備のヘルメットを持ってきてスバルに被せた。
「おじさんとこ、東区は海側だから、うまい魚を食わせてくれるからな」
おじさんの家には子どもがいない。子どもが大好きで、夫婦揃って専門が小児科なのに。出産権が当たらなかったから。神様は意地悪だ。
「しっかり腰に掴まっていろよ」
「うん。シーナ、バイクに乗って酔わないの?」
もっともな質問だ。俺はブランコでも酔うほど三半規管が弱い。
「自分で運転するなら酔わない」
俺は峠に向かってハンドルを切った。
峠道は、アスファルトのひび割れが目立ち、木の葉が積もっていた。
「だいじょうぶ?」
スバルが不安そうな声で俺に聞いてくる。
「ゆっくり行けば大丈夫だろ。掴まってろ」
温暖化で海面が上昇し、移動手段は車から船へ変わった。個人でバイクを持つ人は少ない。使われない道路は荒れがちだ。
木の陰で路面が暗くて、くぼみや割れを見極めるのが難しい。路面の割れ目に落ちないよう、俺はゆっくりと峠を登った。
緊張する。でもじいさんのところにいるより、数段ましだ。
今回の帰省には、いろんな意味があるから。
第一に、母さんの再婚だ。
俺は別に再婚に反対しないよ。父さんが亡くなったあと、頑張ってきた母さんには幸せになって欲しい。じいさんたちも、それには異存がないと思う。
問題は二つ目。
俺の身の振り方だ。
月への留学費用は、奨学金の他に、じいさんと伯父さんからの支援があった。それは俺が将来、椎名動物病院を継ぐという暗黙の了解みたいなもので。
「ひゃっ!」
タイヤが木の葉でスリップした。スバルが俺にきつく抱きついて悲鳴をあげた。
一度止まって、体勢を立て直す。
「平気か?」
「う、うん」
「わるい、気を付けるから」
出発前にあえて言わなかった。バイクの運転はできるけど、2人乗りはほぼ初めてだ。そんなの言ったら、ともかく出発を引き留められたと思う。気をつけないと。ひとりの時とは違うんだ。
ふう、とため息をついて気づく。
峠を越して下りに入ってしばらく経つよな。まだ集落につかないなんて、おかしくないか?
俺は木々に遮られた空を見上げた。いつの間にか薄暗い。まだ日の入りには時間があるはず。なら雨雲? 山あいだから日没が早い?
俺は道路を見つめた。まるで獣道みたいに細くて、トレースするには不明瞭すぎる。
……道、間違えた?
いや、伯父さんのバイクに乗せられて峠越えをしたときには、ただ一本道を行っただけって記憶がある。
何年前だよ。それこそ今のスバルより小さかったぞ、俺は。いきなり体にふるえがくる。
「どうしたの?」
「ん……だいじょうぶだ」
思ったより、道が遠いだけだ。途中に分かれ道なんてなかったんだから。
俺はじぶんを励まして、ハンドルを握り直した。
「雨だ、カミナリ鳴ってる」
不意にスバルが空を見上げた。雨、まずいな。それにカミナリだと?
「カミナリ、ってあの雷か」
俺が言い終わらないうちに、辺りが一瞬明るくなった。今の、なんだ? とスバルに問いかけようとした刹那、頭上でするどい音が鳴り響いてスバルが俺に抱きついた。
「やべっ」
落ち着け、たしか雷は高い木や建物に落ちる。すっかり忘れていた知識がよみがえる。
はやく、はやく集落へたどり着かないとまずい。焦りが速度を上げさせる。慎重になんて気持ちは霧散した。
もうすぐ、たぶんもうすぐ家々の屋根が見えるはずだ。
俺はアクセルをふかした。
どんっ。
音が鳴ったとたん、俺はバイクから放り投げられた。目の中に、落ちてくるバイクと、飛んでいくスバルが見えた。
「わぁっ」
俺は体をひねって、落ちてくるバイクをかろうじてよけた。小さな悲鳴とざっと音がして、道路横の茂みにスバルが落ちているのを見つけた。
「スバル!」
木の枝が折り重なるところに、スバルは落ちていた。
「つかまれ」
ぽかんとした表情のスバルを引き上げた。膝と肘を擦ったのか、血が出ている。
「だいじょうぶか、スバル。痛いところは、頭はぶつけなかったか」
うん、うん、とスバルは人形みたいに頭を前後に何度か振った。けど、そのあと目に大きな涙を浮かべた。
「こわ、こわかった……こわかったよ」
「ごめん、俺、ちゃんと前を見ていなかった」
俺は泣きじゃくるスバルを抱きしめた。スバルは血と汗のにおいがした。
俺はシャツの袖をちぎって、とくに怪我のひどいスバルの右の膝と肘に巻いた。
バイクは、穴にはまって前転したのだと分かった。
バイクを引き上げて、エンジンをかけようとしたが、バイクはもううんともすんとも言わなかった。じいさんが言ってた。しばらく動かしていないって。それより重大だったのは。
「パンクだ」
前輪のタイヤがぺしゃんこになっている。
走らせるのは、もう無理だと分かるくらいの損傷だった。じいさんの言うとおりに、しばらく小屋に仕舞いっぱなしのバイクだった。乗る前に点検しなかった俺のミスだ。
集落まではあとどれくらいだろう。俺はボディバッグからモバイルを出して、ダメ元で伯父さんの家へ電話をかけてみた。発信音は、話し中の時の音を繰り返すだけだった。
「ちくしょう!」
やっぱり月のモバイルは地球では使えないんだ。スバルは不安げに俺を見ている。ここで俺まで肩を落としちゃだめだ。俺はやけくそで、モバイルの緊急通報をタップしたけど、無反応だった。奥歯をかみしめてモバイルをバッグに戻した。
「スバル、乗れ」
俺はスバルに背中を向けて、乗るように促した。スバルは一瞬、ためらうように瞳をそらした。
「そんな足で歩く気か。俺におんぶしたほうが、面倒がないんだ」
スバルはようやく「うん」と答えると、俺の背中に乗った。思ったよりも重くない。スバルは、まだこんなに小さくて軽い子どもなんだ。
「行くぞ」
下り始めた俺の頬に雨粒が当たった。雨まで降ってきやがった。泣きっ面に蜂じゃないか。
ばらばらと雨が木の葉にぶつかる。いっきに緑のにおいが立ち上がる。おれたちは、山の中にいるんだ。野生動物とか、いないのか。く、熊とか。
「シーナ……」
「ん? ケガしたとこ、痛いか? あと少しだから……」
そんな確信はないけど、そう言うしかない。
「ちがうんだ。ごめんなさい、おれが連れてってなんてワガママ言ったから」
俺は立ち止まり、背後を見た。スバルが俺の背中に顔を埋めている。
「おまえのせいじゃない。運転ミスした俺に責任がある」
おまけに、メカトラだ。乗る前にバイクの点検をしなかった俺がバカだったんだ。
「でも……」
なおも詫びようとするスバルに、俺は焦れた。焦れたし、悪いと思った。こんなひどい目にあわせて。
「だったら、あいこだ。あいこってことにしようぜ」
「あいこ」
「そうだ、あいこ」
周囲はどんどんと暗くなっていった。強くなる雨足に、体はずぶ濡れだ。足が思うように前に出ない。
——月なら、こんな目にはあわないのに。雨だって計画的に降らせるし、道に迷うことも、野生動物に怯えることもない。こんなとこ、最悪だ。
それでも住んでいる人がいて、それを支える人がいる。
俺だって知っている、そんな人がいること。たとえば——。
泣きそうになったとき、集落の明かりが見えた。俺は足元に気をつけた。バイクみたいにコケてちゃいられない。
明かりの中に、なぜか俺を呼ぶ声がした。雨が降る音に負けないよう、俺は叫んだ。
叫びながら、明かりを目指した。
伯父さんたちが、俺たちを見つけられたのは、俺がタップした緊急通報のおかげだった。
緊急通報が月へ届き、それが地球へ通報されたんだ。俺たちの位置なんて、GPSですぐわかった、と。蓋を開ければ、実に単純なことだった。
保護されてから、スバルは検査と治療を受けた。幸いなことに骨折などは、なし。ほっとした。
逆に俺は足首を捻挫していた。痛いなんて気がつかずにスバルを背負って山道を下ってきていた。アドレナリンでも出ていたんだろうか。
いまさら、痛みで唸っている。スバルはよほど疲れたのか、ごはんを食べながら舟をこいでいた。食後すぐに隣の部屋へ寝かせてもらった。
「すまないなあ、わたしと父親の反りが合わないばかりに、余計な心配をさせて」
鷹臣伯父さんは、黒髪を長くしている。パッと見、じいさんに似ている。じいさんと伯父さんは、親子ながら反発することが多くて、岬の反対側に病院を開いた。
俺たちの前に、伯母さんに出してもらった食後のコーヒーが湯気とかおりを柔らかに漂わせている。
「そうか、つぐみは再婚するのか」
つぐみは、俺の母親の名前だ。
「鷹尾、わたしたちの事は、気にしなくていいんだよ」
「でも」
「市民IDを月に移せば、厳しい地球人枠の点数を気にしなくていいんだし」
鷹臣伯父さんも、月へ留学していたから、そのへんの事情は知っている。奨学金はやめていいし、毎回五番から落ちたことがない俺なら、学費免除にだってなれると思う。ただ、それは卒業後月の医療施設で働くのが条件だ。
それでいいんだろうか。俺用のミルクコーヒーの湯気を見つめた。
以前、なんで獣医? なんで小児科? ってじいさんと伯父さんに聞いたことがあった。
そしたら、二人の答えは一緒だった。
「いちばん弱いものに皺寄せが来るからだ」
って。
だから、俺は、ふたりをとても……。
とつぜん部屋の襖があいた。借りたパジャマを着たスバルが立っていた。
「シーナ、シーナは月の人になるの?」
「いや、まだそれ決めて……」
返答に詰まる俺を、スバルの丸い目が見つめる。
「分かってる、シーナはおれと違って頭がいいんだ。きっとお医者さんになる」
スバルはパジャマの裾をぎゅっと握ったまま、笑顔を作った。いや、たぶん作ろうとした。
「だったら、おれは祖父ちゃんみたいに便利屋になる。地球へ遊びに来たら、シーナを船に乗せるから」
スバルが借りたパジャマは大きくて、裾も袖もだぶだぶだ。五年生だけど、三年生くらいにしか見えない。スバルは袖で目のあたりをこすると、「おやすみ」といって襖を閉めた。
「な、なに、あいつ……」
驚いた俺を尻目に伯父さんはしばらくの間、にこやかな顔をして、かわいいなとつぶやいた。
「鷹尾、今すぐ結論を出さなくてもいいんじゃないか」
そう言うと、冷めかけのブラックコーヒーを口に運んだ。
「俺はもう16歳だ」
そりゃブラックコーヒーのおいしさは分からないけど。
「まだ16なんだよ」
ふふふと伯父さんは笑った。
「伯父さんのとこから帰ってきてからもひと悶着あったなあ」
思い返すと、むしろそこからが大変だったんじゃないかな、大人たちは。スバルが怪我をして帰宅したら、スバルの母さんがカンカンに怒って、じいさんも俺も頭を下げたけど、おばさんの怒りはなかなか収まらなかった。
スバルを抱きしめて、「死んだらどうする気だったの!」って喚いて。出かけるときに自分がいった言葉なんてすっかり忘れているみたいで、俺は呆れた。
結局、治療費をじいさんが負担して、ことは収まったが。
俺はスバルの母親に、「そんなに言うなら、いつも大切にしろよ」って言わずにはいられなかった。
大きく伸びをしていたら、スバルのタグボートが船着き場に帰ってきた。
「椎名先生!」
風間が大きく手を振っている。
「おーう」
俺が手を振り返すと、風間とスバルは船から降りてきた。風間の頬が上気しているのは、きっとなにか面白いことがあったのだろう。
「すっごくいい写真が撮れたんです。桜の花に、ウグイスがきていて……」
ん? と俺は風間から続きを聞いた。
「桜の花に頭をつっこんだりして、すごくかわいくて」
いやな予感が当たってしまった。
「その小鳥の目の周りは、白かったんじゃないか」
「すごい、どうして分かったんですか。ほんとにウグイス餅ににた色合いで、目の周りが白くて」
はあ、と俺はため息をついた。風間の感動に水を差してしまうが、しかたない。
「そいつは、メジロだ」
「えっ、ウグイスじゃないんですか」
風間の後ろで、スバルが両手で口を押えて体をふるわせている。
「違うんだ。スバル、すぐに教えてやれよ」
「なんだか、風間くんの夢を壊したくなくて。ウグイス、ウグイスって言うから」
「は、はやく教えてくださいよ、恥ずかしいっ」
でも、これで月人はメジロを覚えたことだろう。
「じゃあ俺は風間くんと、東区へ行って昼飯食べてくるから」
スバルはバイクにまたがると、月人へヘルメットを渡した。月人がヘルメットをかぶる手つきがもどかしくて、つい手伝ってしまった。
「椎名先生、ありがとうございます」
「気を付けて、いってこい」
俺はバイクが峠道へ行くのを見送った。峠道は、物好きなことにスバルが整備している。木の枝や葉を払い、道にヒビや穴がないか定期的に点検している。
何かのときに使えるかもしれないじゃないか、というのがスバルの持論だ。まあそれも、スバルらしいといえばスバルらしい。
26になった春。
俺は、バイクで峠を越えて椎名動物病院の前に立った。ウグイスが鳴いていた。湖面には風が吹き、鱗のような銀色の波がかすかに立っていた。
地球へ帰ってきたのは、実に十年ぶりだった。
「シーナ!」
タグボートを舫っていたスバルが、声を上げて船着き場から上がってきた。
「シーナだ! 十年ぶりだ! バイクどうしたんだ!」
一気に尋ねられて、それでなくても頭がぐらぐらした。
「伯父さんのところから、引き上げてきたんだよ」
スバルは憎たらしいことに、俺より背が高くなり、たくましい体つきの青年になっていた。
「あ、俺、便利屋になったんだ!」
そう話すスバルは、11歳のときのままみたいに目を輝かせた。
「知ってる。じいさんから聞いた。俺は、獣医になった」
「知ってる。シーナのじいちゃんから聞いた」
おしゃべりじじいめ。もうすぐ獣医の座は俺とバトンタッチだ。
「約束だ、船に乗せてもらおうか」
「いいよ、乗って乗って」
「と、言いたいところだが」
俺はバイクのスタンドをなんとか立てると、膝をついて地面に伸びた。
どうした、とスバルが駆け寄る。
「船に乗るどころじゃない」
気持ち悪くて、吐きそうだ。
「自分で運転しても、酔うようになっちゃったのか」
そうだよ、俺の三半規管はさらに弱くなった。バイクで来る途中なんども休んだ。
呆れたように、スバルは俺を覗き込んだ。それから笑った。
「おかえり、シーナ」
スバルの肩越しに、青空が広がっていた。作り物ではない、ほんとうの青空が。
ウグイスの声が湖にこだました。
※バイクの表現については、あちこち調べて書きましたが、不自然な点が散見されるかと思います。
目につく点は、お知らせください。
次回、あとがきがあります。




