月の舟
月から帰って、半年が経った。
もうすぐ四月だけれど、今日は久しぶりに雪が降っている。
休み時間に余裕があったなら、海に降る雪を写真におさめよう。
月から戻ってからの秋と冬には、また写真を撮って歩いた。
母が「秋と冬の景色が見たい」と言ったからだ。もっとも、ぼくのモノクロの写真は母に不評だった。でも展示会では好評だった。
湖水岬へ行って、夏に撮った写真を木島さんと椎名先生へ渡した。
紅葉の湖と雪の初詣も撮らせてもらった。
それからすごく悩んだけど、椎名先生にひとつの出来事を伝えてきた。
——写真展で、椎名動物病院の写真の前で泣いている老婦人がいました、と。
ぼくは話しかけなかったし、老婦人からの質問もなかった。でも、たぶん……。
「そうか」と椎名先生は言うと、大きなため息をついた。
「月へ行きますか?」とぼくが尋ねたら、先生は首を横に振った。あの人が生きているなら、いいだろうって。
家族の事情はそれぞれだから、土足で踏み入ることはできない。
それでもまた、ぼくは椎名先生と木島さんに病院の前に立ってもらって、写真を撮った。
次回、月へ帰省した時に写真展をさせてもらおうと思う。
ぼくにできることは、それくらいだから。
あと数日で四月になる。今日は比較的落ち着いている。
お客様はぼく一人でも大丈夫なくらいだ。親子三人のお客様がソフトクリームをご希望された。ぼくが一つ目を作り始めた時にドアが開いた。男性の二人連れが来店したようだ。ふたりとも背が高くて目立つ。
ソフトクリームのお客様を見送ると、先ほどのお客様がレジに品物を持ってきた。
ゼリー、折り紙、ぬり絵……ぼくは顔を上げてレジカウンターの前に立つ高校生くらいの男の子の顔を見た。
このチョイスは覚えている。あの子だ。
「折井先生はいらっしゃいますか」
少年はぼくに尋ねた。ぼくはギクシャクとうなずいて、バックヤードから先生を呼んだ。なんだーいと間延びした返事がして、先生は下へ降りてきた。
「お客様がお呼びです」
先生は少年の顔をみて、ぱっと明るい表情になった。
「カイトくん。今日出発?」
「先生、お久しぶりです」
少年と、父親にしてはかなり年上の男性が折井先生に頭を下げた。ふたりとも、どこかへ出かけるような、あらたまった格好をしている。スプリングコートの下、少年が着ているのは月でよく知られた白兎学園の制服だ。
「おかげさまで、留学がかないました」
「それは、カイトくんが頑張ったからだよ」
どうにも話が見えない。カイトくんというのは、病気の妹さんのための商品を買っていった子だ。たった三年でずいぶん大人になったなあ。すっかり見違えた。
「先生が、月の学校への進学を勧めてくれなかったら、息子は立ち直れなかったと思います」
父親が先生に再度頭を下げた。
「わたしは、ただ資料をお渡ししただけです。カイトくん、体に気をつけてくださいね」
はい、とカイトくんが返事をして店を去ろうとしたとき。
扉が開いて、若いご夫婦が来店された。
「わあ、赤ちゃん」
女性は胸に、おくるみにくるまれた赤ちゃんを抱いていた。地球で赤ちゃんを見かけることはとても珍しいことなので、ぼくは思わず声を上げてしまった。
「すみません、大きな声を出して」
ぼくが謝ると、ご夫婦は首を横に振った。赤ちゃんは、すやすやと眠ったままだ。
「去年、新婚旅行でこちらにお邪魔したものです」
あの、靴擦れの新婚さんだ。誠実そうな旦那さんと、かわいらしい奥さんの。
「出産権が当たって。それで、こどもが持てました」
「それは、おめでとうございます」
言ってからぼくは、入り口に立ったままのカイトくんに気づいた。
——それでも、椅子から立つのがぼくの妹じゃなくてもいいじゃない。
あの日のカイトくんの悲痛な声をぼくは思い出した。
ぼくはうろたえた。このまま、お為ごかしにカイトくんたちを送り出すか、それともこちらに呼ぶべきか。いや、そんなことはできない。
ぼくがあれこれと逡巡しているうちに、カイトくんがこちらに来た。
「可愛らしい赤ちゃんですね。女の子ですか」
「そうです」
花がほころぶような笑顔で奥さんは答えた。
「ようこそ、地球へ。きみに、たくさんの楽しいことがありますように」
カイトくんは静かに笑んで赤ちゃんを見つめた。
そのうち、イートインスペースにいたおばさま方に気づかれて、ご夫婦は赤ちゃんごと連れていかれた。
「もう分かっています。ぼくだって、誰かが椅子を立ったから生まれてこれたんです」
あの日、不条理さに泣いた少年は、大人になっていた。
「医者になれるよう勉強します。それで、医者になったら、また帰ってきます」
カイトくんは、はっきりとぼくと先生に語った。
「あの、あのねカイトくん。いま移動販売船の企画が進行中なんだ。そうしたら、朝凪島へも行けるんだ」
朝凪島は、小児科の大きな病院がある島だ。カイトくんの妹さんが入院していたのも多分、その島だと思う。
カイトくんは、目を少し見開いて、ふっと子どもらしい表情で笑った。
「みんなが喜ぶと思います」
それじゃあ、とカイトくんとお父さんはあの日と同じ、クルーザーで去っていった。
行ってらっしゃい、カイトくん。
また、会いましょう。ぼくはここにいるから。
月の舟で会いましょう。
おわり
次の番外編で完結です。




