第89話:フェルゼンの盾と剣
「それとゼクトさん、もう一つ。領内全域へのインフラ展開についての報告があります」
「ああ。全域、無事に繋がったんだね」
グスタフは懐から出した、上下水道網の全図を広げた。新都市を中心に、領境の隅々、農村の一つ一つにまで青いラインが行き渡っている。
「はい。全ての村落への上下水道の敷設が完了しました。」
新都市が稼働して二ヶ月。並行して進めていた領内全域のインフラ整備の完了報告だった。
「……ですが、ゼクトさん。正直に申し上げれば、今も私の中に一つの疑問が残っているのです。これほどの負担を強いてまで、農村地域まで整備を広げる意味があったのでしょうか?」
グスタフは、地図上の細いラインを指先でなぞった。
「農民を都市の周辺に集約させる方が、コスト面では遥かに効率的だったはず。予算の大半を、人口密度の低い辺境の農村にまで割いた理由が、私にはまだ完全には理解できていないのです」
(出たね、コスト意識の高い管理職の正論。確かに「今現在の効率」だけを考えれば、君の言う通りなんだけどね)
「……だろうね。普通の経営者なら、リターンが大きい場所にリソースを集中させる」
俺はリクライニングを起こし、少しぬるくなったコーラを一口飲んだ。
「グスタフ。君は新都市を繁栄の中心だと考えているかもしれないが、設計者の視点から言えば少し違う。都市はただの象徴でしかない……情報を処理し、金を生む場所だ。対して、農村は『パワーユニット』なんだよ。動力源が供給されなきゃ、どんな高性能な装置もただの石ころだろ?」
「パワーユニット……力の供給源、ということですか」
「そう。農村を切り捨てて都市だけを磨き上げた場所では、格差が生まれる。人々が『都市に行かなければ人間らしい生活ができない』と確信し、全住民が都市へ一斉に移動を開始する。そうなれば都市は許容量を超え、住宅難、家賃高騰、そして行政の目が届かない『スラム』という名の巨大なバグの巣が出来上がるんだ」
(サーバーにアクセスが集中してパンクするのと同じなんだよね。分散処理こそが安定の鍵なんだよ)
俺は、かつてモニター越しに見た巨大都市の足元に広がる、治外法権と化した貧民街の惨状を思い浮かべた。
「一度そこに巨大な闇ができれば、犯罪と疫病が渦巻き、君の目は二度とそこへは届かなくなる。致命的なエラーが発生してからでは遅いんだよ。農村に水道を敷き、都市と同じレベルの生活を保証したのは、農民への慈悲じゃない。都市への異常な流入を遮断し、人口という名の負荷を領内全域に分散させるための、一番安上がりな安全策なんだよ」
グスタフは言葉を失ったように、地図上の農村に灯るラインを見つめていた。彼が理解したのは「貴族としての慈悲」ではなく、「領地を永続させるための設計図」だ。
「……村にいても、都市と同じように清潔で、同じように高度なサービスが受けられる。だから、人はその場に留まり、糧を生み出し続ける。なるほど。そうすることが、以前にゼクトさんが仰っていた『食料自給率一〇〇パーセント』という防壁にもつながるのですね」
「その通りだね。食料を他領に頼るということは、自分たちの首根っこを他人に預けるのと同じだ。相手が『明日から小麦を売らない』と言った瞬間に、フェルゼンは死ぬ。だから、農村を保護して自給率を一〇〇パーセント以上に保つのは、システムを維持するための絶対命題なんだよ」
(外部に依存しすぎるシステムは、相手の仕様変更一つで死ぬ。結局は、自前でエンジンを持つのが最強なんだよ)
グスタフは深く、深く頷いた。続けて、彼はもう一つの、より現実的な疑念を口にした。
「ではもう一点の疑問についてもいいでしょうか? カジノの収益についてです。周辺領地から流入する外貨は、ゼクトさんの指示通り、全て領主館の金庫に封印してあります。……ですが、この巨額の金があれば、さらなる軍備の増強や都市の拡張も容易なはず。なぜ、これを一切市場に流さないのですか?」
「それをやったら最後、フェルゼンという機械は熱暴走して自壊するよ。今、その金を急に流せば、領内の物価は跳ね上がり、民の生活は一気に壊れる。金は、いざという時の予備電源として置いておくのが今の最適解だ」
(急激に増えた外貨の流入は新型ウイルス流行時の景気対策で各国政府がジャブジャブ紙幣を刷って配ったのと同じだ。『金』と『モノ』のバランスが崩れる。えげつないインフレを招いて世界中がヒーヒー言ってたからな。あの「札束の暴力」という名のバッドステータスを、わざわざこの領地で再現するつもりはない。)
「中身の整理は進んできた。ここからは『外交』の話だね。周辺との関係性を整えていこう。『食料』という盾を構えて『外貨』という矛で戦うんだ」




