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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第四章:怠惰の共生

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第88話:蜜の罠と心の調教

 部屋の温度は、冷房が作り出す無機質な涼しさに保たれている。俺はグスタフから渡された「隣接領地の動向を記した報告書」をぼんやりと見つめていた。


「ナォ、ミャー(……あんた、またそんな紙切れを睨みつけて。そんなことより、私の喉を撫でなさいよ)」


 膝の上で丸まっていたたまが、退屈そうに欠伸をしながら一声鳴いた。


「はは、たまもそう思うか。確かにこの報告、ノイズが多すぎるよな」


「ナオン(……は? 私はただ、あんたの顔が怖いわよって言っただけなんだけど?)」


 たまの「報告書」への鋭い指摘(と俺が勝手に解釈したもの)を聞き、俺は羊皮紙をサイドテーブルに放り投げた。やはり、猫と会話ができる(気がする)俺の聖域は、最高に居心地が良い。


 たまとそんな軽口を叩いていると、リビングのチャイムが鳴った。現れたのはグスタフ。そして、その背後には見違えるほど整った身なりのアルゴがいた。


「ゼクトさん、お寛ぎのところ失礼します。……アルゴを連れて参りました」


「うん、座って。……アルゴさん、新しい服、似合ってるよ。カジノの薄暗い場所より、そっちの方が『公式オフィシャル』な感じがしていい」


 俺がそう言うと、アルゴは少し照れたように眼鏡を直した。


「ありがとうございます。……領主邸の執務室という場所も、そこで扱う数字の規模も、私にとっては新鮮な驚きばかりです。グスタフ様が進めておられる新しい法も、非常に論理的で、驚くほどの速度で街に浸透し始めていますね」


「まあ、利益が出る仕組みさえ示せば、大抵の人間は勝手にそっちへ流れるからな。……で、どうだい? 実際に領地の運営側に回ってみた感想は。計算通りにいってるかい?」


 俺がコーラを一口飲んで問いかけると、アルゴは一瞬だけ表情を曇らせ、それから静かに口を開いた。


「……はい。計算は、あまりにも完璧に合致しています。ですがゼクト様、システムが効率化され、この街が『魅力的な利益』を生み出す場所になればなるほど……私は、かつて自分がいた場所の『影』を思い出さずにはいられないのです」


「影?」


「はい。……私のような者にこれほどの居場所を与えてくださったこと、心より感謝しております。ですが……それゆえに、私の中に拭い去れない不安が芽生え始めているのです」


「不安?」


「はい。……魔族の中には、魔族領からの『目』……いわゆる、こちらの動向を探る密偵が確実に潜んでいます。彼らは人間に紛れ、静かに情報を集め、次の侵攻の隙を伺っている。……私は、魔族と人間の両方から拒絶されて生きてきました。だからこそ、その『悪意』の深さが、人一倍分かってしまうのです。……本当に、この街で魔族が認められる日が来るのでしょうか」


 アルゴの言葉には、彼が混血として歩んできた孤独と、裏切りへの恐怖が滲んでいた。隣でグスタフも、痛ましげに表情を険しくする。


(なるほどな。トラウマに根ざしたセキュリティ不安か。ハッキングを恐れてシステムを閉鎖したくなる気持ちはわかるが……)


 俺はたまを撫でる手を止めずに、淡々と、どこか冷たい響きを混ぜて答えた。


「……別に、気にしなくてもいいよ。それより、どんどん情報を流させればいい」


「な……!? ゼクト様、何を仰るのですか!」


「密偵を排除するのは出来なくもないかも知れない。でも、それは非効率なんだよ。情報を流させたほうが効率がいい」


 俺はコーラを一口飲み、計算高く目を細めた。


「いいかい。彼らが魔族領に送る情報を、こっちでコントロールしてやるんだ。……フェルゼンは圧倒的に豊かで、圧倒的に強力だ。そして、魔族でさえ能力があればこれほどまでに高く評価される……という『事実』を、たっぷりと見せつけてやるのさ」


(ハニーポットの応用だ。ただし、偽の情報を掴ませるんじゃない。環境そのものを、逃げ出せなくなるほど『甘い檻』にするんだ)


「密偵たちは、魔族領に報告するだろう。『フェルゼンには、一人の混血が街の経済を動かす知恵者として重用されている』とな。……それを見た魔族領の王はどう思う?

自分たちがゴミのように扱っていた人材が、敵地では王のように遇されている。その格差を知ったとき、魔族領のシステムは内側から揺らぎ始める」


 俺は、アルゴを指差した。


「アルゴさん。あんたの存在そのものが、最強の広報プロパガンダなんだよ。……密偵たちは、報告を続けるうちに気づくはずだ。魔族領で泥を啜るような生活に戻るより、この街で『有能な住民』として暮らす方が、圧倒的に合理的だとな」


「……敵を討つのではなく、味方に……いえ、『フェルゼンの部品』に変えてしまうということですか」


 アルゴの問いに、俺はコーラを一口飲み、視線を彼に戻した。


「アルゴさん、一つ聞いていい?魔族領の生活は、ここフェルゼンよりも豊かかい?」


「……いえ。比べるべくもありません。魔族領は古くからの慣習と階級が全てを支配する、ひどく停滞した土地です。最低限の暮らしはできていても、そこには、フェルゼンのような活気も、知恵が正当に評価される喜びもありません。……ここを知った者にとって、魔族領はあまりに色褪せた場所に映るでしょう」


「なら、勝負はついてるな。……そうだ、グスタフ。三年前の『灰色の冬』が起きる前は魔族とどんなやり取りをしてたんだ?」


 俺はリクライニングを少し起こし、グスタフに向き直った。


「ええ……。かつてのフェルゼンは、魔族領との交易の拠点でした。魔族の土地でしか採れない希少な魔鉱石や、魔力伝導率の高い特殊な木材……それらは人間側では決して手に入らない一級品として、高値で取引されていたのです。当時のフェルゼンは、それらの物流を握ることで莫大な富を得ていました」


「物理層のインフラは既にあったってわけか。だったら、話は早い。……それなら、ここからが本題だ」


 俺は再び、二人を交互に見た。


「ただスパイを住民に変えるだけじゃ、まだ受動的だ。……彼らに、『フェルゼンと魔族領の交易』を再開させるためのロビー活動をさせよう」


「交易……ですか!?」


 グスタフが驚きで声を上げた。


「そう。スパイたちに『フェルゼンには魔族領の資源を、高く買い取る準備がある』という情報を流させる。……同時に、フェルゼンがいかに強力で、攻め落とすのは非効率かという恐怖もセットでね。……魔族領の上層部が『戦って奪うより、売って儲けるほうが合理的だ』と判断するように誘導するんだよ」


「密偵たちを、こちらの『営業担当』に変えてしまうのですね……」


 アルゴが震える声で呟いた。


「密偵たちは、自分たちの居場所であるフェルゼンを守り、かつ魔族領での手柄も立てられるこの案に、喜んで乗るはずだ。……敵対関係を、経済的な依存関係……つまり『相互接続』に書き換えてやるのさ。一度貿易というパイプが太くなれば、戦争なんていう最大のエラーは起こせなくなる」


 アルゴの瞳の中で、鋭い演算の火が灯る。


「……侵入者たちを、平和を繋ぐための『回線』に変えてしまう。……ゼクト様、貴方は本当に、悪魔のような合理性をお持ちだ」


「ただの最適化だよ。……アルゴさん、あんたにその仕組みを任せたい。密偵たちが自ら進んでフェルゼンのために動き、魔族領を経済的にハックしていくような環境を構築してくれ」


 アルゴは、深く、深く頭を下げた。


「……承知いたしました。逃げ場のない『幸福』と『利益』で、世界を繋いでみせます」


「ああ、期待してるよ。……ヴォルグに伝えておいてくれ。『新しい商売の種を、スパイ共に植え付けてやれ』ってな」


(……最強の防御は、防壁を高くすることじゃない。敵が『ここを攻撃したら損をする』と確信するまで、経済のネットワークに引き込んでしまうことだ。それが一番、安上がりで確実だからな)


「ナォン(……あんた、またそうやって人の心も国の関係も上書きして。でも、魔族領の王様、これを知ったら自分の国がいつの間にかフェルゼンの一部になってることに驚くわよ)」


 外では新しい法が動き出し、裏では密偵たちが自ら「交易の使者」へと変貌し始める。あとは、そのすべてが勝手に回るのを、涼しい部屋でただ待つだけだ。

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