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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第四章:怠惰の共生

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第82話:統計的錯覚と幸運の監査

 部屋の温度は、冷房が作り出す無機質な涼しさに保たれている。

 天文学的なルミナポイントを投じた効果は、未だに明確な変化としては現れていない。だが、デスクに置いた飲みかけのコーラを手に取る際、その重心や結露の滑り具合が、まるで俺の思考を先回りして最適化されているような、手応えだけがあった。


(……三億八千万のパッチだ。目に見える派手なエフェクトがないことこそが、逆に基幹システムに深く食い込んでいる証左なんだろうな)


 俺は「怠惰の玉座」が提供する、人体の構造を無視して密着してくるような極上の感触に身を委ね、モニターの端で蠢く数字のログを眺める。


「ナォン(……あんた、また魂が抜けたような顔して。莫大なポイントを溶かして、ただの置物としての性能を上げただけじゃないの?)」


「……たま。お前も、俺を包む実行優先順位が変わったことに気づいたか。今の俺は、この世界の管理者として一歩、特権レイヤーへ足を踏み入れたからな」


 たまの俺を頼る甘えた声を聞き、その柔らかい首元に手を伸ばす。


 だが、その停滞を切り裂くように、リビングにいつものチャイムが響いた。

 招き入れたのはグスタフ。そしてその背後から、音もなく滑り込むように現れたのは、ヴォルグだった。


「あんたの巣は相変わらず、外の連中の喧騒を鼻で笑ってるような冷たさだな。……その椅子も、また一段と『ヤバい質感』になってないか?」


 ヴォルグは不敵な笑みを浮かべ、俺の座る椅子を獲物を狙うような目で見つめた。


「ヴォルグまで連れてくるなんて、穏やかじゃないね。……で、何が起きたの? システムに致命的なエラーでも出た?」


 俺が問いかけると、グスタフは居住まいを正した。


「いえ、ゼクトさん。……今日はまず、カジノの運営状況についてご報告を。導入した数学的な手法に基づいたカジノ経営ですが、収支は黒字で安定しています。ですが、ここ数週間の売り上げが、ぴたりと横ばい……いえ、微減に転じているのです」


 グスタフが差し出した羊皮紙の束を、俺は指先で受け取った。


「客の数は減っていない。だが、熱量が冷めてきてるのさ」


 リビングの壁に背を預けながら、ヴォルグが言葉を継ぐ。


「あんたの作ったカジノは、あまりにも公明正大すぎる。ギャンブル特有の、あの『焼け付くような不条理』が足りないんだよ」


 俺は椅子の座面が俺の体重に合わせて形状を変えるのを感じながら、姿勢を崩した。


「確認だけど、カジノのハードウェアは俺が教えた通りになってるよね。例の高品質な五十二枚一組のカード……フェルゼン産の『トランプ』と、俺が教えた形式のバカラやポーカーなどに完全に移行してるんだろう?」


 この世界で行われていた賭博は単純すぎてハウスエッジが取りにくい。

 カジノで使うカードやゲームはすべて前にいた世界のものにしている。


「ええ、もちろんです。エリシュアの術式で量産されたカードは、裏側から透けることも、端の傷一つで判別することも不可能です。使い捨ての封蝋システムも、客には『公正の証』として高く評価されています」


「よし。ならプラットフォームは問題ない。足りないのは演出だ。……バカラの全テーブルに『出目表』を設置させよう」


「出目表……?おいおい、ゼクトさんよ」


 ヴォルグが鋭く眉を寄せた。


「これまでの結果を記録して『流れ』を読むなんてのは、一握りのプロの賭博師が脳内に叩き込んでおく特権だろう?賭博場で出目を記録するのは『御法度』だぜ。それを全員に公開しちまうのか?」


「そこだよ、ヴォルグ。その『流れ』ってやつを、全員に意識させてやるんだ。いいかい、我々は大数の法則で儲けるって話は前にしただろ。数万回の試行を繰り返せば、結果は必ず確率に収束する。そこに流れがあろうがなかろうが、胴元の利益には一ミリの影響もない。……だが、客は違う」


 俺は手元の端末を操作し、グリッド状に並んだ赤と青の丸印――罫線を表示させて見せた。


「客はこの表を見て、勝手に『流れ』を読み取ってくれる。バンカーが三回続けば、『次はそろそろプレイヤーが出るはずだ』とか、逆に『バンカーの波が来ている』なんて、勝手に次に出る目の確率が八〇パーセントだと思ってくれるんだ。本来の確率は、常にほぼ五〇パーセントのままなのにな」


「……あいつらに、ありもしない予測の根拠を与えるってわけか」


「そう。人は自分の判断に根拠があると思い込むと、ベットの桁を上げる。この出目表は、客に『勝てる理由』という名の錯覚を与えるための、最高のインターフェースなんだよ」


「理詰めで客の脳内にバグを発生させてるわけだ。恐ろしいねぇ、あんたは」


(まぁ、どこのカジノでもやってる演出なんだけどね)


 ヴォルグがニヒルに笑う。隣でグスタフも「なるほど、それなら客の滞在時間も熱量も跳ね上がりますね」と深く頷いていた。しかし、ヴォルグはそこで話を止めなかった。


「……だがゼクトさん、話はそれだけじゃない。その完璧な数学の庭で、妙に一人だけ勝ち続けている客がいるんだ」


「勝ち続けている?どれぐらい?」


「目立って連勝するわけではないが、賭け時が異常に冴えてる。『影』が洗っても、イカサマの証拠が出てこない。……正直、出入り禁止にした方がいいんじゃねえかって声も出始めてるぜ」


「……ダメだ。勝っているからという理由で出入り禁止にするのは、カジノの信用を根底から損なう」


 俺は即座に断じた。カジノの価値は、勝者が存在することで担保される。勝ちすぎた客を排除すれば、それはただの集金所に成り下がり、太い客は二度と寄り付かなくなる。


「だが、異常な勝率には必ず原因がある。……ヴォルグ、こいつでそいつの様子を記録してきてくれ」


 俺は棚から取り出したデジカムを、ヴォルグに放り投げた。


「なんだこりゃ。またあんたの新しい魔道具か?」


「使い方は簡単だ、ここを覗いてこのボタンを押す。……こいつは光をそのまま記録する。肉眼では追えない指先の動きや、表情の微細な変化まで全部記録に残る。光学的な監査ログだと思えばいい」


 ヴォルグは片目を瞑ってレンズを覗き込み、「へぇ、面白いおもちゃだ」と口の端を歪めた。


「そいつがシステムの隙を突いているのか、それともただの豪運なのか。その生データが欲しい。……頼んだぞ、ヴォルグ」


「ナォン(……あんた、またそうやって人を動かして。莫大なポイントを持ってるのに、まだ他人の懐を空っぽにする仕組みを考えてるの? 本当に、業が深いわね)」


 膝の上で、たまが呆れたように鼻を鳴らす。


「大丈夫だよ。たま。まかせとけ。思い当たる節があるから。」


 一億の権限。八千万の遠隔。

 そんな高額なリソースを使うまでもなく、人の心の脆弱性を突くだけで、世界は簡単に俺の望む方向へと回り始める。


(……さて、その勝ちすぎてる客の正体、じっくり拝ませてもらおう。……寝るか)


 俺は、椅子に深く沈み込み、これから始まる狂騒を夢の中で待つことにした。

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