第81話:魅惑の新商品
四億。
スマートフォンのバックライトが、暗い室内で俺の顔を青白く照らしている。画面の右上に並んだ「L」の単位を持つ数字の列は、もはや現実感を喪失し、単なるデータベース上の肥大化した数値にしか見えない。
一千万の冷蔵庫には常に冷気が満ち、五百万のプリンタは俺の慣れ親しんだ言語を異世界の難解な文字へと書き換える。
二千万を投じた「精神」によって、この世界の非合理に対する耐性を上げ(たはず)、同じく二千万の「怠惰」によって、不本意な労働への自動的な拒絶反応を強化した(と思われる)。
そして今、俺は五千万の「怠惰の玉座」に全身の荷重を預けている。
座っているだけで外界への執着が希薄になり、責任という名のメモリが解放されていく感覚がある。座面を形成する未知の素材は、俺の体温を完璧に一定に保ち、重力という物理的な負荷を等しく分散させていた(多分)。
(……だが、リソースが余っている。エンジニアとして、このバッファを放置しておくのはシステムの健全な運用とは言えないな)
俺は「限定商品」のカテゴリを指先で弾く。
【権限:すべては我が手に 100,000,000L】
(……説明文はこれだけか。管理者権限の付与か?だが、この世界というバグだらけの環境で、一体何に対して『権限』が行使できるのかが書いていない。うっかり神の領域に触れてシステムエラーで消滅、なんてオチはないだろうな)
【真理:そのままです 100,000,000L】
(……そのままです、ね。何がそのままだというのか。真実ではなく真理。より根源的なレイヤーの法則に干渉するパッチだろうか。情報の密度が高すぎて、逆に説明が削ぎ落とされている。優れたコードはコメントアウトすら不要だったが、これは極端すぎるだろ)
【寂滅:静寂の極致 100,000,000L】
(これも……一億。静寂の極致。音響ログの完全消去か?あるいは、俺の家の周囲だけ物理法則を上書きして、無音の真空地帯でも構築するのか。魅力的だが、あまりに高価だ。)
「ナォン(……あんた、またその板っ切れを睨んで、獲物を品定めするヘビみたいな顔してるわよ。四億も抱え込んで、次は何のゴミを買い占めるつもりなの?)」
「……たま。お前に、この『権限』という言葉の重みが分かるか?一億を投じて手に入れる、絶対的な正解。それは、あらゆるエラーからの解放を意味するのかもしれないぞ」
俺の指は「権限」の項目で止まっていた。
(でも、欲しい……)
この不親切さこそが、逆に隠しパラメータの多さを物語っている。
理屈ではない。高額なものには相応の非公開仕様が含まれているはずだという、エンジニア特有の、信仰に近い期待。
「その前に、まずはこれだな……」
【遠隔:遠くても大丈夫 80,000,000L】
ポイント不足で以前買えなかった商品の一つ。
こういった後悔を残したまま先に進むわけにはいかない。
「ポチッ……と」
【遠隔】がグレーアウトして選べなくなった。
(何が「大丈夫」になったのか、明確な検証結果は得られないだろう。ただ、なんとなく遠くの物音に敏感になった気がする程度でも十分だ。絶対に何かの効果はあるはずだ)
これで、心置きなく新商品に向き合うことができる。
(……一億。決済して後悔するか、決済せずに退屈するか。……答えは決まってる)
俺の親指が、画面上の『購入』を迷いなく叩いた。
――ピロリン。
端末から、いつもと変わらない無機質な決済音が響く。
リビングに光が溢れることも、俺の脳内に謎の知識が流れ込んでくることもない。ただ、部屋の空気がわずかに「整った」ような、あるいは窓の外の風の音が、今の俺の気分に完璧に合わせて止まったような、そんな気がした。
(……なるほど。劇的な変化は何もない。だが、何かが確実に変わったんだろうな。一億ものポイントが、ただのプラセボ効果で終わるはずがない)
俺は、自分の手のひらをじっと見つめる。
何かを行使できるようになった実感はない。
リモコンに向けて手をかざしてみたが、テレビが点く気配はなかった。
「ナォン(……あんた、今の決済で何が起きたと思ってるの? 一億も捨てて、ただぼーっとしてるだけじゃない。本当に救いようのない馬鹿ね)」
「お、たま。お前も感じてるか。この、世界が俺に歩み寄ってきたような感覚を。これが『権限』の力か……」
たまの鳴き声すら、今の俺には「権限」によって許容された心地よい環境音の一部にしか聞こえなかった。
(……とりあえず、明日の朝食が勝手に用意されていたりしないかな)
【真理:そのままです 100,000,000L】
【寂滅:静寂の極致 100,000,000L】
勢いで全ての限定商品をグレーアウトさせる。
何しろ「限定」だ。この機会を逃すことはできない。
俺は、三億八千万ポイントの決済がもたらした「かもしれない」万能感に浸りながら、玉座の深みへと身を沈めた。
何も起きない。何も聞こえない。
だが、その「何もなさ」こそが、莫大な対価を支払った俺に与えられた、特権のように思えてならなかった。
「ミャオン(……あんたが、意味のわからないモノ買うだけでしょ。本当に、見てるこっちの気が遠くなるわ)」
(ポイントは……グスタフがまた何か問題を持ち込んでくるだろう。俺はそれを解決するだけだ)
奇妙な満足感に包まれて、俺は静かに目を閉じた。
四億を抱え、ほぼ全てを一瞬で溶かす。
その非合理な消費行動こそが、この不自由な世界における、俺にとってはそれだけで十分な自由だ。




