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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第四章:怠惰の共生

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第76話:テスターたちの受難と泥まみれのプロトコル

「フィールドワークというのは、全工程の九割が忍耐と徒労でできている」


 かつて、とあるドキュメンタリー番組のナレーションがそう言っていたのを思い出す。当時はエアコンの効いた部屋でポテチを齧りながら「大変だねぇ」と他人事に見ていたが、今ならその言葉の重さが、胃に鉛を流し込まれたように理解できる。          

 まぁ今もエアコンの効いた部屋でポテチを齧っているのは同じなんだが。


 俺は『怠惰の玉座』に沈み込み、窓の外の静かな森を眺めていた。

 エリシュアたちがエルンの森へ向かってから、今日で四日が過ぎる。

 俺にできるのは、彼女たちが持ち帰るであろう「生データ」を信じて待つことだけだ。


(……この沈黙が一番胃に悪い。システムのデプロイ中に進捗バーが99%で止まったまま、一晩中サーバーラックの前で立ち尽くしていたあの頃の嫌な記憶が蘇る)


 膝の上でたまが、どこか落ち着かない様子で尻尾をパタパタと振っている。

 今回、彼女たちに授けたのは、華やかな魔法ではなく「観察」という名の、泥臭く、執念深い、物理的なデバッグ手法だ。

 絶望の淵に沈むエルフの里で、その手法が果たして正しく稼働しているのか。

 俺はコーラを一口飲み、祈るような気持ちで天井のファンを見つめた。


      ***


 一方、エルンの森。

 そこには、もはや「フェルゼン専属魔道士」の面影など微塵もない、一人の調査員の姿があった。


「……暑、いですわ。……空気が、腐っていますわね」


 エリシュアは、泥と樹液で汚れたローブの袖で、額に滲む脂汗を拭った。

 周囲に漂うのは、甘ったるく、それでいて鼻を突くような果実の腐敗臭。精霊の加護があるはずの森は、今や巨大な「死のディレクトリ」と化していた。

 見上げる樹々からは、カサカサという何かが動く音が降ってくる。


「エリシュア殿。手が止まっております。……次の地点へ」


 背後からかけられた声に、エリシュアは重い首を動かした。

 そこにいたのは、煌びやかなフルプレートを脱ぎ捨て、泥まみれのシャツ一枚になったバルトスだった。彼の顔は無精髭に覆われ、目は鋭く窪んでいるが、その手にはゼクトから預かった「仕様書」という名の紙が握りしめられていた。


「……分かっていますわ。……分かっていますけれど」


 エリシュアは、震える手でゼクトから渡された「白い布」を地面に広げた。

 彼女はこの四日間、一度も鏡を見ていない。自撮り用のカメラは、今やただの「証拠採取用デバイス」として、首から無造作に下げられている。


 魔法は、効かなかった。

 エルフの長老たちが、自分たちよりも遥かに長い時を生きた樹々が枯れていこうとしているのを、ただ祈りの中で見送っている。その絶望の深さを目にするたび、エリシュアの心は摩耗し、折れそうになっていた。


「……バルトス様。本当に、こんな『おままごと』のようなことで、里が救えるのですか?」


「ゼクト様が『仕様』だと仰いました。……我々に必要なのは疑念ではなく、正確なサンプリングです。……一ミリの段差も、一匹の取りこぼしも許されません」


 バルトスは、膝をつき、プラスチックのコップを地面に埋める作業を再開した。

 彼は、ゼクトが言った「ツライチ(面一)」という言葉を、まるで騎士道の誓いのように守り続けている。地面とコップの縁の間に、爪の先ほどの隙間も残さない。その異常なまでの執念だけが、この死にゆく森の中で唯一機能している「規律」だった。


 エリシュアは、唇を噛み締め、枯れかけた果実の枝の下に白い布をセットした。

 そして、魔道杖――本来なら高位の術式を編み上げるための「鍵」であるそれを、ただの「棒」として使い、枝を鋭く一度だけ叩いた。もう、何回繰り返したのかもわからない作業。


 ――コン。


 乾いた音が響く。

 直後、パラパラと雨のような音を立てて、白い布の上に「何か」が降り注いだ。


「……っ!!」


 エリシュアは悲鳴を飲み込んだ。

 布の上でうごめいていたのは、枯れ葉のクズではない。

 白い粉を吹いたような、粘液を纏った芋虫たちだった。

 

 何千、何万という数の「バグ」の実体が、ゼクトの授けた手法によって、物理的な質量として可視化される。

 魔法の探知では「森の背景」として処理されていた微小な生命体が、今、エリシュアの目の前で、故郷の命を食い破る「明確な敵」として露わになった。


「これが……これ、が……原因……」


 エリシュアの瞳に、絶望に替わって、底知れぬ怒りと……そして「解」を見つけ出した者の光が宿った。

 彼女は夢中でデジカメのシャッターを切る。

 果実の皮を食い破り、樹液を啜り、システムを内側から崩壊させていく寄生体たち。

 

 だが、問題はここからだ。

 これほどの数の敵に、どうやって対処するのか。

 

 その時、バルトスが地面から顔を上げた。

 彼の埋めたピットフォール・トラップの一つに、異変が起きていた。


「……エリシュア殿。……こちらにも来ましたぞ」


 エリシュアがバルトスの元へ駆け寄る。

 コップの底。そこには、一匹の「赤茶色のアリ」が落ちていた。

 それは、森にいる、エルフたちが「掃除の邪魔」と忌み嫌っていた、ありふれた小さなアリだ。


 だが、ゼクトは言った。

 『当たり……つまり強そうなアリを見つけたら、行動観察を行ってほしい』と。


 エリシュアは、布の上からピンセットで一匹の芋虫を摘み上げ、そのコップの中へと落とした。

 自分の数倍はあろうかという巨大な敵を前に、小さなアリは、一瞬たりとも退かなかった。


 ――カチリ。


 小さな、しかし鋭い顎が、芋虫の首筋に食らいつく。

 芋虫がのたうち回り、コップの中で暴れるが、アリは離れない。

 それどころか、アリの腹部から発せられた微かなフェロモンに呼応するように、コップの縁から次々と別のアリたちが飛び込んできた。


 数秒後。

 そこにあったのは、もはや巨大な敵ではなく、効率的に解体され、運び出されるのを待つだけの肉の塊だった。


 静寂。

 腐敗臭の漂う森の中で、その小さな殺戮劇だけが、完璧に洗練された「防衛プログラム」のように見えた。


「……これ、ですわ」


 エリシュアの頬を、一筋の涙が伝い、泥で汚れた肌に白い線を描いた。

 彼女は、汚れることも厭わずにコップを覗き込み、その小さな守護者たちの姿を、心に、そして記録機に刻み込んだ。


「バルトス様。……見つけましたわ。……ゼクト様の仰っていた、最強のパトロール兵を」


 バルトスは、泥だらけのまま、力強く頷いた。

 

「……よし。任務完了だ。……帰りましょう。フェルゼンへ。……我々の主のもとへ」


 二人は、ボロボロになりながらも、その手には「世界を救うための生データ」を握りしめ、エルフの里を後にした。

 その背中は、どんな煌びやかな儀礼服を纏っていた時よりも、気高く、誇り高い「テスター」のそれだった。


      ***


 俺の家のインターホンが、今日はどこか重みのあるリズムに聞こえた。


 モニターを確認する必要もなかった。

 俺は、玉座から立ち上がり、自分の手で玄関のドアを開けた。


 そこに立っていたのは、泥と汗の臭いを纏い、けれど瞳に揺るぎない確信を宿した、二人の勇者だった。


「……ゼクト様。……ただいま、戻りましたわ」


 エリシュアが差し出してきた、傷だらけのデジカメ。

 それを受け取った瞬間、俺のスマホの通知音が鳴り響いた。


【Lポイント:+2,000,000L(環境デバッグ完了:エルフの里・問題解決フェーズへ移行)】


「……おかえり。……いい仕事をしたね、二人とも」


 俺の言葉に、エリシュアはついに力尽きたように微笑み、バルトスは静かに、深く頭を下げた。


 フェルゼンに、新しい「正解」が持ち帰られた。

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