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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第三章:怠惰の秩序

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番外編:生存のための無駄

 嵐のような「客」たちが去り、静寂が戻ったリビング。

 シーリングファンの静かな回転音だけが、玉座に沈み込んだ俺の耳に心地よく響いている。

 

 テーブルの上には、飲みかけのコーラと、さっきヴォルグたちに見せた日本製のトランプが一組、無造作に置かれていた。


「……ふぅ。やっぱり、 オフラインの交渉は疲れるな」


 俺は『怠惰の玉座』から手を伸ばし、デックを手に取った。

 指先に馴染む、滑らかなエンボス加工の感触。USプレイング・カード社製、プロも愛用するバイシクル・ブランドだ。この世界の粗悪な羊皮紙のカードとは、滑りも弾力も、そして何より「嘘をつくための精度」が違う。


 俺はデックを左手に保持し、右手の指先でパラパラと弾く。

 空気を孕んだカードが奏でる、規則正しいリズム。


「ナァ(……またそれ。あんた、好きねぇ)」


 膝の上で丸まっていたたまが、薄目を開けて俺の手元を眺めている。


「たま、また見たいのか? よし、……これは、俺がかつて戦場(会社)で生き残るために身につけた、防具みたいなものなんだ」


 俺はデックを左右二つに分け、両手の親指でカードを交互に弾き入れる。リフル・シャッフルだ。最後にデックをしならせて一気に噛み合わせる「ブリッジ・フィニッシュ」の音が、静かな部屋に小気味よく響く。

 

 思い出していたのは、煙草の煙と、上司の機嫌を伺う笑い声が充満した、王都――もとい、東京の居酒屋の光景だ。

 

 Webディレクターという仕事は、技術と人間の板挟みだ。

 仕様の矛盾を突きつけるクライアントを宥め、無理な納期を強いる営業をかわし、不機嫌なエンジニアを動かす。

 その潤滑油として、俺は「宴会芸」という名の、最もコストパフォーマンスの悪いスキルに手を染めた。


 左手の小指の付け根で、デックの最上段にわずかな隙間を作る。ピンキー・ブレイク。

 俺はデックのトップから二枚を、あたかも一枚であるかのように捲り上げた。ダブル・リフト。

 

「ほら、これ。スペードの3だろ?」


 二枚重ねのカードを裏返し、トップの一枚をデックの中程に差し込む。

 この時、実際に中に入れたのはスペードの3ではなく、その上に重なっていた無関係なカードだ。

 

 次に、右手の掌を丸め、デックのトップカードを密かに吸い付けるように隠し持つ。クラシック・パーム。

 親指の付け根と小指の筋肉だけで保持する、高等技術だ。手の甲からは何も見えない。自然な動作でデックを撫でるふりをして、パームしたカードを戻す。

 

 そして指を鳴らす。

 

 一番上を捲れば、そこには再びスペードの3が現れる。アンビシャス・カード。

 カードそのものが「上昇」したように見せる、古典的かつ強力なエフェクトだ。


(……ヴォルグの奴、俺の『手品』を「魔法だ」なんて顔してたっけな)


 俺は自嘲気味に笑い、今度はデックを左手の中指、薬指、親指で保持した。

 人差し指で下半分を押し上げ、親指の付け根を使って上下を入れ替える。ワンハンド・カットの基本、チャーリア・カット。

 続いて、デックを大きく湾曲させ、指先から放つ。カードが空中で美しい弧を描いて右手に吸い込まれていく。カード・スプリング。


 これらの動作フラリッシュを、俺はかつて、深夜の残業中にサーバーの進捗を待つ数分間、あるいはクライアントからの電話を待つ間の「手癖」として、何万回と繰り返してきた。


 接待の席で、会話が途切れた「気まずい三十秒」を埋めるため。

 「へぇ、佐藤君、器用だね」という、上司のどうでもいい一言を引き出し、場の空気をマイルドにする。それだけで、無理難題な仕様変更の弾丸を数発分、無効化できる。

 

 「論理」で勝負できない相手には、「驚き」という名のノイズを流し込んで、脳をハッキングする。

 それが、Webディレクターとしての俺が辿り着いた、最も泥臭いサバイバル・テクニックだった。


 左手の親指を軸にして、カードを一気に扇状に広げる。サム・ファン。

 一枚の乱れもなく、完璧な円弧を描く白と青。

 

 そして、俺の指先が最も「深く」動く。

 デックの上半分を右手で覆い、その陰で下半分の束を一瞬でトップに持ってくる。クラシック・パス。

 カードマジックにおいて最も難易度が高く、同時に「一瞬の死角」を突く、不可視の入れ替え技だ。

 ヴォルグが「何も見えなかった」のは当然だ。物理的な盲点を利用した、視覚のハッキングなのだから。


「皮肉なもんだな。……あんなに嫌だった接待のスキルが、今や世界を支配するシステムの『信用の担保』になってるんだから」


 ヴォルグは俺の指先を見て、「魔法ではない何か」を恐れていた。

 正解だ。

 これは魔法じゃない。

 「無駄な努力」を積み重ねて、指先の神経を摩耗させた、執念という名の「技術」だ。


「ナァ(……あんた、また考えすぎ)」


 たまが俺の指先に鼻を擦り寄せてくる。カードを片付けろ、という合図だ。


「そうだな。……もう、誰かを喜ばせる必要もないし、機嫌を取る必要もないんだ」


 俺はデックを揃え、最後に左手だけでカードを扇状に開く。ワンハンド・ファン。

 美しい青の扇が、月明かりを浴びて一瞬だけ輝き、パチンと音を立てて閉じる。


 俺はカードを箱にしまい、引き出しの奥へ戻した。

 

 今の俺には、『怠惰の玉座』がある。

 複雑な指の動きで誰かを騙さなくても、システムが勝手にポイントを運び、平和を維持してくれる。

 

 俺は再び玉座に深く沈み込み、目を閉じた。

 

 ――次にカードを出すのは、世界がこのシステムの「欠陥」を見つけようとした時だけでいい。

 その時は、また見せてやろう。

 俺が血の滲むような思いで作り上げてきた、この「美しい欺瞞」の続きを。

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