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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第三章:怠惰の秩序

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番外編:毒(システム)を喰らう

 フェルゼン領主邸の窓から見える景色は、一ヶ月前とは似ても似つかないものだった。

 瓦礫と泥にまみれていた通りには整然と石畳が敷かれ、魔導ランプの光が夜の闇を一定の等間隔で切り裂いている。その光景は、暴力と混沌こそが世界の真理だと信じてきた俺にとって、薄気味悪いほど「正しい」ものに見えた。


 俺はかつて王都の闇組織『黒の回廊』に属し、このフェルゼンの旧市街で闇市と賭場を仕切っていた男だった。

 今、俺の胸元には領主グスタフから直々に下賜された「免税特区管理人」という、吐き気がするほど立派な肩書きが記された徽章がある。


(……笑えねえ冗談だ)


 俺は懐から取り出した一本の吸い殻に火をつけようとして、止めた。この新しく、清潔な執務室には、古い煙草の匂いは似合わない。代わりに、俺は机の上に置かれた「あの男」からの差し入れに手を伸ばした。


 結露した表面を指でなぞると、指先に痛いほどの冷たさが伝わる。

 黒い、泡の出る奇妙な飲み物。「コーラ」とあいつが呼んでいたそれは、新都市フェルゼンそのものだった。甘ったるく、刺激的で、一度知れば二度と戻れない毒。


 俺は、あの日のことを思い出していた。

 森の奥。結界に守られた「聖域」で、俺が初めてあいつ――ゼクトという化け物にまみえた時のことを。


 初めてその家に入った時、俺が感じたのは「敗北感」だった。

 敵地へ乗り込む際の緊張感でも、死を覚悟した恐怖でもない。ただ、踏み込んだ瞬間に、自分が今まで戦ってきた土俵そのものが消失したような、根源的な無力感だ。


 そこには、俺が知る「強者」の象徴が何一つなかった。

 鍛え上げられた肉体も、威圧的な魔力も、贅を尽くした装飾品もない。

 ただ、妙に座り心地の良さそうな巨大な椅子に、死んだ魚のような目をした青年が沈み込んでいるだけだ。膝の上には一匹の黒猫。


「どうぞ。入ってきて」


 その声には、俺を品定めする意図すら感じられなかった。

 あいつにとって、俺という人間は、道端に転がっている石ころや、あるいは使い古された道具の一つと同じ……いや、もっと徹底して「ただの素材」として見られているように感じた。


『彼にとって、従うメリットが裏切った時のリターンを上回るように設計すればいいだけだ。俺が信じているのは、彼の強欲さという名の、確実な演算結果だけだ』


 俺の背筋に氷を流し込まれたような感覚が走った。

 ああ、こいつは俺を見ていない。俺の奥にある「計算式」を見ている。

 あいつが信じているのは俺の善性でも忠誠でもない。俺が「自分の得のために、最も合理的に動く」という、生物としての浅ましい本能だけを信じているのだ。


 裏社会で生きてきた俺は、数え切れないほどの裏切りを見てきた。だが、その裏切りの理由はいつも感情だった。金、女、恐怖、嫉妬。

 だがゼクトが構築しようとしているシステムには、そんな感情が入り込む余地がない。「裏切る方が損をする」という冷徹な数式で、俺を雁字搦めにしようとしている。


 そして、あの「手品」だ。


 あいつが取り出した、見たこともないほど滑らかで、鏡のように光を反射する「カード」。

 「イカサマってのは、こういうことだろ?」と言わんばかりに、あいつはカードを一枚見せた。スペードの3だったか。


 俺は目を凝らした。

 裏社会で十年、一流の賭博師たちの手元を数え切れないほど見てきた。指先の微かな震え、不自然な関節の動き、魔力の僅かな揺らぎ。その全てを読み取れる自負があった。


 だが、あいつが手を動かした瞬間。

 ……何も、見えなかった。


 もう一度見せられたカードは、ハートの9に変わっていた。

 「……え?」と、魔法使いのエリシュアが声を漏らした。だが俺の驚愕は彼女の比ではなかった。


(魔法じゃない……。指の動きだけで、世界を書き換えやがったのか?)


 魔力の揺らぎが一切ないということは、それが純粋な技術であることを意味する。だが、あんな速度で、あんな最小限の動きでカードをすり替えるなど、人間の構造上不可能なはずだ。

 

 俺はプライドをかなぐり捨てて「もう一回、やってみてくれ」と頼んだ。

 あいつは「いいよ」と事も無げに答え、今度は少しゆっくりとやってみせた。


 ……それでも、わからなかった。

 あいつの指先は、まるで重力や摩擦といった物理法則から解放されているようだった。俺が見てきた「イカサマ」という概念が、あまりにも低レベルな児戯に思えてくるほどの、次元の違う「何か」。


(こいつに博打を挑む奴は、地獄すら見せてもらえない)


 あいつは俺を絶望させるのが目的ではないかのように、デックをテーブルに置いた。

 そして、淡々と語り始めた。「大数の法則」とやらを。


「運を支配するんじゃない。試行回数を増やして、確率を固定するんだ」


 その言葉を聞いたとき、俺の頭の中にあった「賭博」という概念が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

 俺たちが今までやってきたことは、客と騙し合い、その場限りの金を毟り取る、その日暮らしの強盗に過ぎなかった。

 だがゼクトが言っているのは違う。

 偶然という名の暴れ馬を、数学という檻の中に閉じ込め、大人しく金を吐き出す家畜に変える。

 客が勝とうが負けようが、最後には必ず胴元が、決められたパーセンテージの利益を積み上げる。


「……数学で、金を作る、ってことか?」


 自分の声が震えているのがわかった。

 イカサマは必要ない。なぜなら、ルールそのものが最初からイカサマ以上の精度で利益を保証しているからだ。

 信頼という名の餌を撒き、公正という名の網で掬い取る。


 さらにあいつは、エリシュアに「カードの量産」を命じた。

 この世界では手書きで高価だったカードを、魔法の術式とゴーレムを使って「使い捨て」にするという。

 開けるたびに領主の封蝋を破る、新品のカード。

 それ自体をブランド化し、フェルゼンの特産品にする。


(……化け物だ)


 俺は戦慄した。

 あいつは旧市街のゴミ溜めを見て、そこから「闇」を取り除こうとしたのではない。

 その「闇」に「秩序」という名の仕組みを上書きし、フェルゼンという巨大な金儲けの機械の一部に組み込もうとしているのだ。


「……ふぅ」


 冷えたコーラを喉に流し込む。

 喉を焼くような炭酸の刺激が、現実感を呼び戻す。


 今、俺はフェルゼンの裏側を管理している。

 かつての部下たちは、新都市の規律を恐れ、俺の指示通りに影の仕事に従事している。

 王都から紛れ込んだネズミたちの動きも、すでに把握している。

 

 俺は、あいつに飼われたのか?

 ……違う。

 俺はあいつが作った「合理性」という檻の中に、自分の意志で入ったのだ。

 なぜなら、この檻の中の方が、外の世界よりも遥かに刺激的で、そして「割に合う」からだ。


 カジノの設営は順調だ。

 エリシュアが設計した照明が、かつての薄汚れた路地を、黄金の光が舞う幻想的な社交場へと変えつつある。

 そこに集まる客たちは、自分が数学という名の歯車に噛み砕かれているとも知らず、希望という名の対価を払うだろう。


 俺の仕事は、その歯車が淀みなく回るように、油を差すことだ。


 窓の外、遠くの森に目を向ける。

 あの聖域で、今もあの男は「面倒だな」と呟きながら、猫を撫でているのだろう。


 それでも、この街、そしてこの世界は、あいつの描く「秩序」の通りに進んでいく。


「……退屈しねえ。まったくだ」


 王都からの不審な動き。『影』からの報告によれば、レオナールという名の騎士が個人的に動き始めたらしい。


(さあ、どう料理してやるか。俺の新しい庭に、汚い足で入ってくる奴らは)


 俺は、自分の中に今までなかった「奇妙な誇り」が芽生えているのを感じた。

 それは忠誠心というより、完璧な図面を汚されたくないという、職人の執着に近いものだった。


 残ったコーラを最後の一滴まで飲み干す。


「うめぇじゃねえか、畜生。コイツのためにもう一仕事ってのも悪かぁねぇな」


 甘い後味と共に、俺は夜のフェルゼンへと足を踏み出した。


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