【第一部完結】番外編:フェルゼン領主回想録――水路の灯火と、唯一無二の隣人について
深夜、フェルゼン領主邸の執務室。窓の外には、魔石の灯が宝石を撒いたように輝く新都市の夜景が広がっている。
私は一人、冷えた黒い炭酸水――コーラを口にし、喉を焼く刺激を感じながら、この街を救った「一人の男」に思いを馳せていた。
「ゼクト」とだけ名乗った。 森の奥にある「停滞の聖域」から一歩も出ず、ソファの上で世界の欠陥を「修正」し続ける男。
思い出されるのは、私の息子レオンが死の淵にあったあの日のことだ。
名高き医師すら匙を投げた熱病を救ったのは、ゼクトさんが「昔、俺が使ってたやつの残り」と無造作に差し出した一粒の白い錠剤だった。あの小さな粒が、この世界のどの魔術よりも鮮やかに息子の命を繋ぎ止めたのだ。
感謝に震える私に、彼はコーラを啜りながら、ひどくフラットにこう言った。
『グスタフ、レオン君が病気になったのは水が汚いからだよ。不衛生な環境は管理コストを跳ね上げるし、合理的じゃない。だからさ、街全体の水回りを全部作り直そうか』
彼は私の息子を救っただけでは満足せず、巨大なダムの建設、各家庭への水道配備、そして水道代を徴収する維持管理の仕組みまで一気に構築してしまった。
新都市への移転に反発する住人たちに対しても、彼は冷徹な排除ではなく「旧都市観光特区」という役割を与えて取り込む道を示した。
バルトスは彼を「主」と崇め、エリシュアは「賢者」と仰ぐ。だが、私にとっては少し違う。
彼はどこまでいっても「ゼクト」という名の、無欲で、少しばかり怠惰な一人の男なのだ。
私が積み上げた金貨を差し出したときも、彼は欠伸をしながら笑った。
『金貨? いらないって。何か他のことに使ってよ。重いし、管理するのも持ち歩くのもコストの無駄。それより、俺が二度とここから動かなくていいように、この街の平和だけ維持して。それが一番の報酬だよ』
彼は今、座る者を包み込むような、不思議なほど豪華な椅子に身を預けている。 『いいだろう、これ。高かったんだよ』
彼が自慢げにそう語った椅子が、どれほど「高い」ものなのかは私には分からない。だが、一歩も動かずに世界を書き換える彼には、その玉座がよく似合っていた。
そんな彼の伝説が、一匹の猫のいたずらから始まったというのも、彼らしい。
バルトスが訪れた際、門を開けるつもりのなかったゼクトさんを無視して、黒猫の「たま」が開閉装置を偶然踏んでしまったのだという。
『あいつのせいで面倒に巻き込まれたよ』と彼はぼやくが、たまの頭を撫でるその手はいつも優しい。
最近の私は、何かと理由をつけては森の拠点へ足を運んでいる。
新しい魔道具の相談、あるいは観光特区の報告……。部下には「極秘の外交だ」と告げながら、心の中では言い訳を探している。
私は、彼が差し出してくれる新しい菓子や、あの家に流れる不思議な空気感に触れたいだけなのだろうか。
……いや、それすらも違う気がする。私はただ、ゼクトさんに会いたいのだろう。
どれだけ世界が塗り替えられても、彼は決して変わらない。「英雄」でも「神」でもなく、ただ「ゼクト」でしかない男。
その彼が、今日もソファで安眠を貪っている。その事実が、私にとっては何よりの救いであり、この街を守る最大の理由になっているのだ。
「……さて。明日もまた、手土産を持って会いに行くとしましょうか」
私は最後の一口を飲み干し、ペンを取った。彼が望むのは報酬ではなく、ただ「動かなくていい平和な日常」だ。
ならば、その不合理のない、最高の安眠を守り抜くことこそが、私にできる唯一の恩返しなのだから。
窓の外、夜の静寂の中に灯るフェルゼンの光。それは、世界を救うつもりのない男が、ただ自分らしくあるために灯した、希望の光だった。




