第70話:怠惰の秩序、あるいは神界の終焉
深い。
一度座れば二度と立ち上がれない。この「怠惰の玉座」は、もはや家具という概念を超越した、物理的な「楽園」だった。
最高級の革の質感、体圧を完璧に分散する内部構造。そして何より、座っているだけで精神が凪のように静まり返るこの感覚。五千万Lという、かつては想像もできなかった大枚を叩いた価値は十分にあった。
俺は玉座に深く沈み込み、膝の上で丸くなるたまの背中を、無意識にゆっくりと撫でていた。
目の前のモニターには、フェルゼンの「現在」がデータとして流れ続けている。
ヴォルグが「影」として不穏な芽を摘み取り、カジノの設営が「期待値」通りに進み、グスタフが「変数」として人間を捌く。学校には子供たちの声が響き、上下水道は詰まることなく街の老廃物を流し、新税制は一文の誤差もなくフェルゼンの蔵を潤している。
(……完璧だ)
このまま俺が指一本動かさなくても、フェルゼンという巨大なシステムは勝手に最適化され、自律的にアップデートを繰り返していくだろう。俺という「管理者」が何もしないことこそが、この街の最大の安定に繋がっている。その報酬として、俺のルミナポイントは、今この瞬間も秒単位で増加し続けている。
「ナァ」
「ん? どうしたたま。お前もこの椅子の良さがわかるか? 最高だろ、これ。もう一生ここから動かなくていい気がするよ。……いや、動く必要そのものがないんだ」
「ニャォン(……あんた、いよいよ椅子と一体化して置物になってきたわね。そのまま化石にでもなって、数万年後の冒険者に発掘されればいいのに)」
「そうかそうか、お前も気に入ったか。よし、もっと撫でてやろう。……平和だな、たま」
「ナァ(……話を聞きなさいよ、この引きこもり)」
俺はたまの喉をゴロゴロと鳴らしながら、コーラを一口飲んだ。
外がどれほど騒がしくなろうと、俺の秩序はこの玉座の上で完結している。
俺が動かない。それだけで、世界はこれほどまでに美しく、静かに回る。
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――神界・主神庁舎。
「ルミナァァァ!! 今すぐ、今すぐあの男を椅子から引き剥がせ!!」
主神の絶叫が、庁舎の重厚な壁を震わせ、中央に鎮座する巨大な水晶盤を激しく揺らしていた。
主神が指差すモニターには、不吉な真っ赤なエラーログが滝のように流れ続けている。
【警告:フェルゼン領における『不確定要素(運命)』が消失】
【事象:数学的必然による富の固定化を確認】
【脅威:新しいフェルゼン闇組織による『影の秩序』が世界の裏側を侵食開始】
【ターメイン(勇者)の現在地:ゼクトの膝の上(旅の進捗:0%)】
「何が『順調』だ! ゼクトは、ついに『運命』そのものをシステムに組み込んでしまったぞ! ギャンブルを数学でねじ伏せるなど、神が作った『不条理な面白さ』に対する冒涜だ!」
だが、担当女神であるルミナはどこ吹く風。カジノのディーラー風のきわどい衣装に身を包み、ホクホク顔で神力の集計表を主神の鼻先に突きつけた。
「主神様、これを見てください! 神力の増加率がカンスト(限界突破)しましたよ! もうゼクト様を拝むだけで、全宇宙のインフラが維持できちゃうレベルです! 主神様が毎年ヒーヒー言いながら調整してた予算案、もうシュレッダーにかけても大丈夫ですから!」
「お、おのれ……! 神力の問題ではない! あいつが『怠惰の玉座』に座り続けているせいで、フェルゼン周辺の因果律が『停滞』という名の最強の安定に固定されているんだぞ!」
主神は、水晶盤の隅で異様な輝きを放っている一つのデータに目を剥いた。
「……ルミナ。あの『怠惰の玉座』という椅子は何なのだ一体? 適当な家具を流しただけかと思っていたが、魔力数値が測定不能になっているぞ」
ルミナはてへっ、と可愛らしく片目をつぶってみせた。
「はい、ゼクト様は『甘美な座り心地だ』と言って大変満足されていますよ!」
「そうじゃない! お前、また何かおかしな機能を付けたんじゃないだろうな!? あの椅子が置かれてから、聖域周辺の因果律が鉄板のように固まっているんだぞ!」
「えー、大したものじゃありませんよぉ。あの聖域の結界機能をちょっと強化しただけです。……まあ、少しやりすぎてしまったかもしれませんが」
「……何だと?」
嫌な予感に襲われた主神は、震える手で神界最高精度の測定装置――『因果律測定柱』を起動し、フェルゼン北方の森にあるゼクトの家に向けて照準を合わせた。
直後。
ピーーーッ、という耳を劈くような警告音と共に、測定装置からバチバチと火花が散り、真っ黒な煙が上がった。
「な……な、なんだと!? 測定不能だと!? 私の……主神たる私の権限をもってしても、聖域の内部が覗けない!? ど、どういうことだ、ルミナ! あれではこの私ですら、入れないのではないか!?」
「あはは、当然ですよぉ。私は制作者だから入れますけどね! あの椅子、ゼクト様に『敵意』や『下心』、あるいは『労働の強要意志』を持つものは、たとえ神だろうが魔王だろうが何だろうが、絶対に入れないようにしてありますから! 主神様は『あいつを働かせよう』って思ってるでしょ? だから弾かれます!」
「……」
主神は絶句した。
もはやゼクトは、神の干渉すら届かない、因果律の外側――物理的な「絶対安全圏」へと完全に引きこもってしまったのだ。あの椅子に座っている限り、彼はこの世界のいかなる法則からも守られる。
「……おのれ、ルミナ。……これでは、これではもうあやつを誰も止められんではないか……!」
主神は震える手で、最も強い成分の胃薬の瓶を鷲掴みにし、中身を直接口に流し込んだ。
モニターには、ついにエルフの里へ向かおうとするエリシュアと、王都から近づくレオナールの影が映っている。
「……ついに、エルフの里まであの『効率化の毒』が回るのか……。そして王都のレオナール、あやつが余計な刺激を与えて、ゼクトが万が一にも椅子から立ち上がったりしたら……」
「立ち上がったら?」
「あやつの『怠惰』という名のシステムが世界全土に同期し……この世界の『神の理』ごと、再起動させられてしまうわ!!」
主神は胃薬を流し込み、ガクガクと震えながら天を仰いだ。
「……ルミナ。監視を続けろ……。そして、いいか。……絶対に、あの椅子から彼を立たせるな。……あやつが本気で『面倒事を片付けるために動く』決意をした時が、この世界の理が完全に書き換わる日だ……」
「大丈夫ですよ。ゼクト様は絶対に動きませんから!」
「どうしてそんなことがお前にわかるのだっ!」
「彼はそういう人だからですよ!」
「黙れぇえええ!!!」
神界での不毛な会話を余所に、フェルゼンの夜は更けていく。
出来上がるカジノの眩い明かりと、影の者たちの囁き。
そして聖域の玉座に深く沈み、「明日のコーラ、少し炭酸が抜けてる方がいいかな……」と、この世で最も些末なことに悩む男。
フェルゼンに「秩序」がもたらされた結果、物語の歯車は、その静かなる侵食を広げようとしていた。
第三章 怠惰の秩序 完 ~第一部完結~




