第69話:歯車は濁流を望む
フェルゼンの旧市街は、今や巨大な脱皮の途中にあった。
瓦礫の山は整理され、ひび割れた石畳の上には正確な測量に基づいた白線が引かれている。その光景を、一人の男が建物の屋上から見下ろしていた。
ヴォルグ。
かつてこの場所を闇で支配し、地下組織「黒の回廊」の牙として振る舞っていた男だ。
彼の手には、領主グスタフから手渡された正式な書状が握られている。フェルゼン免税特区管理人、兼、諜報組織指揮官。表と裏、その両方の境界線に立つ許可証だった。
(……大したもんだ)
ヴォルグは、前髪の隙間から街を眺め、皮肉げに唇を歪めた。
この短期間で、物理的にも構造的にも街を書き換えてしまった「あの男」の影を、至るところに感じる。
ヴォルグにとって、聖域の主・ゼクトとの出会いは、それまでの人生で積み上げてきた価値観を根底から覆される体験だった。
当初、ヴォルグはゼクトを「正体不明の賢者」か、あるいは「強大な魔力を持つ傲慢な隠者」だと推測していた。だが、実際に会ってみれば、そこにいたのは「怠惰の玉座」と名付けられた椅子に沈み、コーラを啜る、覇気の欠片もない青年だった。
何より衝撃的だったのは、ゼクトがヴォルグに向ける眼差しだ。
そこには、犯罪者に対する嫌悪も、利用してやろうという狡猾な野心も、改心を期待する慈悲もなかった。
ゼクトはただ、ヴォルグという人間を「どのような出力が可能な、どのような特性を持ったリソースか」としてのみ眺めていた。
『彼にとって、従うメリットが裏切った時のリターンを上回るように設計すればいいだけだ。俺が信じているのは、彼の強欲さという名の、確実な演算結果だけだ』
グスタフから伝え聞いたその言葉を思い出すたび、ヴォルグは背筋に冷たいものが走る。
あの男は、人を信じない。ただ、人が持つ「欲望」と「損得感情」という計算式を信じている。ヴォルグをこの地位に据えたのも、彼が有能だからではなく、ここで働くことが、裏切って逃げ回るよりも遥かに「割に合う」ように環境を構築したからに過ぎない。
神や王のような絶対的な支配ではなく、逃げ場のない「合理性」という檻に閉じ込める。
それが、ゼクトという男のやり方だった。
「――そこにいたか」
階下から響いた声に、ヴォルグは思考を遮られた。
屋上へ現れたのは領主グスタフだ。かつての清廉潔白さが服を着て歩いているような若き支配者の面影は、今の彼にはない。その瞳には、現実的な統治者としての鋭い光が宿っていた。
「領主様直々にお出迎えとは。俺も出世したもんだな」
「軽口はいい。ヴォルグ、例の『再配置』の進捗はどうだ?」
グスタフが歩み寄り、ヴォルグの隣で街を見下ろす。その距離感には、かつての敵対者に対する警戒よりも、共通の「目的」を共有する共同経営者のような事務的な信頼があった。
「順調だよ。特赦を与えられた幹部どもは、今や新都市の『清潔さ』に怯えながら、こっちの特区で必死に動き回ってるよ。あいつらにとっちゃ、闇に戻ってゼクトさんの計算から外れるほうが、地獄に落ちるより恐ろしいらしい」
「……あの方の影響力は、時に猛毒のようだな」
グスタフが自嘲気味に笑う。
二人はそのまま、カジノの建設予定地を指し示した。
「ゼクトさんから聞いた『カジノ』の運営規則、あれを読み解くのに一晩かかった。……ヴォルグ、君はどう思う」
「寒気がしたよ。イカサマを捨て、数学を信じろ、だろ? 運なんて不安定なものに頼るから、博打は荒れる。だが、試行回数を増やして『確率』を固定してしまえば、そこには確実な利益が残る。……あいつが言ったのは、博打の場じゃない。『金を生み出す工場』だ」
「ああ。そして、その工場が『公正である』という信頼こそが、最大の集客装置になる。我々は客に夢を売り、その対価として統計学に基づいた端数を徴収し続ける……」
グスタフは手元の書類に目を落とす。そこにはエリシュアが術式を組む予定の、偽造不可能な「カード」の仕様書も含まれていた。
「ヴォルグ。君に任せる『影』の仕事も同様だ。暴力による支配ではなく、情報の循環を制御しろ。誰が、どこで、いくら使ったか。特区に流れ込む金の動きを全て捕捉する。それが新都市を守るための、最強の盾になる」
「わかってるよ。あんたが表で胸を張れるように、泥水はこっちで濾過してやるさ」
「ああ。……それと、王都のレオナール卿から連絡があった。近々、彼個人がこちらへ向かう可能性がある。……目的は不明だが、例の『貸し』に関わることかもしれん」
ヴォルグは懐から、一束の報告書を取り出し、グスタフに突きつけた。
「そいつはちょうどいい。初仕事の成果だ。王都から紛れ込んでいるネズミが数匹。ただの商人じゃない。身のこなしからして、どこかの貴族の飼い犬だろうな。泳がせてある。レオナールってのがその飼い主かどうか、確かめてやるよ」
「……対応は任せる。わかっているだろうが、ゼクトさんの手を煩わせるような事態にはするなよ。あの方は今、黒猫との時間を何よりも優先されている」
「はっ、全くだ。世界をひっくり返すような仕掛けを作っておきながら、本人は猫を撫でて不気味な黒いモノを飲んでるだけ。……最高に狂ってる」
ヴォルグの口角が、愉悦に吊り上がった。
このフェルゼンという巨大な歯車が、異物であるゼクトの存在によって加速し、誰も見たことのない場所へと突き進もうとしている。
その濁流の中に身を投じることが、これほどまでにヴォルグの心を昂ぶらせるとは、数ヶ月前には想像もしていなかった。
「面白いことになってきた……。なあ、グスタフ様よ。あんたの主君は、この街をどこまで化け物にするつもりなんだろうな」
「……さあな。だが、止まるつもりはないようだ」
沈みゆく夕陽が、新旧二つの街を赤く染め上げる。
建設の槌音と、影に潜む者たちの息遣い。
フェルゼンという名の巨大な実験場は、夜を前にして、さらなる熱を帯び始めていた。




