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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第二章:怠惰の辺境

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第40話:ゼロから始めよう


 想像してみてほしい。ローマ数字のような「位置によって重みが変わらない」不便な記号で、桁の多い掛け算や割り算をする苦行を。

 計算するたびに複雑な計算板を持ち出し、専門家が額に汗して数分かける……。そんな非効率が、この世界の「当たり前」なのだ。

 そこに俺が「位取り記数法」という劇薬を投入すればどうなるか。


 帳簿の不正は中学生レベルの知識で暴けるようになり、建築の設計や薬の調合の精度は跳ね上がる。物流も税制も、すべてが「正確さ」という名の鎖で縛り上げられるだろう。

(……正直、この歴史の歯車を強引に回しすぎる気もするが。まぁ古代バビロニアでは使われていたらしいし、いいでしょ)


 そんな事を考えていたら、グスタフが一人の女性を伴って現れた。


「ゼクトさん。市民連合代表の、マルタです」

「初めまして、ゼクト様。……いえ、この街の改革者様とでもお呼びすべきでしょうか」


 マルタは五十代半ば、厳しい医療現場を潜り抜けてきた者の鋭さと、理知的な落ち着きを兼ね備えた女性だった。


「ゼクトでいいよ。……グスタフから話は聞いてるよね? 三部制の学校兼診療所、やってくれるかな」

「仕組みそのものには異論はありません。ですが……」


 マルタさんは俺の前に置かれたメモ用紙をじっと見つめた。


「グスタフ様から伺った『ゼロ』という概念。それがどうしても腑に落ちないのです。無を数えることに、一体何の意味があるのですか?」


 やっぱりそこか。

 俺は新しい紙を二枚並べ、ペンを走らせた。

 左の紙には、この世界で使われている記数法――ローマ数字に近い、大きな単位ごとに記号が変わる方式で『一〇二』と書く。右の紙には、アラビア数字で『102』と書いた。


「マルタさん。この世界の書き方だと、百二(102)と十二(12)を書き分けるのに、特別な記号や広い空白が必要だよね。もし書き手が少し手を滑らせて空白が狭くなったら? あるいは記号を書き忘れたら?」

「……それは、別の数字として誤認される原因になります。医療現場では、それが致死的な薬の調合ミスに繋がることもあるわ」


「そうだね。でも、この『0(ゼロ)』という記号を『空席』として置けば、数字は書かれた『位置』だけでその重みが決まる。一の位、十の位、百の位……。どんなに大きな数でも、たった十種類の数字の組み合わせだけで、絶対に読み間違えない形で記述できるんだ。これを『位取り記数法』って言うんだけど」


 俺はさらに、紙の上で筆算を書き殴った。

 複雑な三桁同士の掛け算。この世界のやり方なら、算盤を使い、熟練の算術士が数分かける作業だ。


「ゼロがあるおかげで、数字は『縦の列』でピタリと整列する。位を揃えて、機械的に手順をなぞるだけで、誰でも同じ答えに辿り着ける。これがあれば、計算は一部の天才の秘術じゃなく、ただの作業になるんだよ。子供にだって正確な計算ができるようになる」


 マルタの顔色が、目に見えて変わった。

 彼女は医師だ。正確な計量、正確な記録、それから何より「再現性」の重要さを誰よりも理解している。


「……計算が、特権ではなくなる。帳簿の不正は一目で暴かれ、薬の配合は一滴の狂いもなく全土で共有される。ゼクト様、あなたは……『無』という名の楔を打ち込んで、この世界の秩序そのものを固定しようとしているのですね」


 彼女は俺の手からペンを取り、紙に大きく『0』を書いてしばらく考えていた。


「分かりました。午前は子供たちに教え、午後は保健室で命を救い、夜は大人たちの無知を啓蒙しましょう。……ただし、夜間学校の夜食のスープは特大の鍋で用意させてもらいます。学校に来る連中の胃袋を掴むのも、合理的な戦略でしょう?」


 『ゼロ』の概念を数分で飲み込む理解力。マルタなら、期待以上に優秀な校長になってくれそうだ。

「話が早くて助かるよ。費用はグスタフに請求しといて」


 二人を見送って、俺はソファに沈み込んだ。

 ……ふぅ。これでフェルゼンの全住民が、将来的に俺の事務作業を肩代わりしてくれる予備軍になったわけだ。


「……ミャウ」


 膝の上のたまが、俺の腹をふみふみした。

 分かってるよ、たま。俺はいたって真面目に、自分の安眠のために世界を書き換えてるだけだ。


 でも、まあ……。

 ゼロという概念に震えたマルタの瞳や、希望に燃えるグスタフの顔を見ていると、この何もない『ゼロ』の状態から、新しい街が組み上がっていく景色を、もっと眺めていたい気もする。

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