第117話:歴史のデバッグ
フェルゼン杯の興奮が冷めやらぬ、大会翌日の朝。カジノ・フェルゼンの貴賓室では、帰路に就く準備を整えた周辺領主たちが、最後の一杯を酌み交わしていた。
「……公爵閣下。昨日のお言葉、正気ではありませんな。本気であの魔族を、自領の晩餐会に招くおつもりか?」
不快感を隠そうともせず口を開いたのは、ダリルの隣領を治めるバラン伯爵だった。彼は手元のワイングラスを乱暴に置き、手元のチェス盤を睨みつけているダリルを詰問するように見た。
ダリルは、手元に目を落としたままだった。そこには、昨日のアルゴとの対局の棋譜が記されていた。だが、そこにはこの世界では見ることのない記号が書かれている。
『1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 ...』
ゼクトが持ち込み、アルゴが普及させた「アラビア数字」と、マス目を座標で捉える「代数式棋譜表記」だ。
「……伯爵。昨日、会場の隅にいた子供たちを見たか?」
「子供? ああ、あの魔族に媚びを売っていた不気味な連中のことか」
「伯爵、貴殿の目は節穴か。……彼らは掲示板に刻まれるあの『棋譜』を読むことで、盤上の戦況を、貴殿の領地のどの軍師よりも早く、正確に理解していたのだぞ」
ダリルは棋譜をテーブルに叩きつけた。
「我々が『騎士を王の前に進め、敵の歩兵と対峙させる』などと、まどろっこしい記述をしている間に、あの子らは『e2-e4』という数文字で、戦場のすべてを把握している。……アラビア数字というあの十種類の記号は、桁がいくら増えようとも計算の正確さを失わない。その『理』を、フェルゼンの子供たちは当たり前のように使いこなしているのだ」
バラン伯爵が言葉に詰まる。ダリルの指摘は、感情論ではなく、圧倒的な「事務処理能力の差」という恐怖の提示だった。
「魔族の血だ、灰色の冬だ、と貴殿が過去の因縁を並べ立てている間に、フェルゼンは『知の規格化』を済ませてしまった。……もし今、我が領とフェルゼンが戦えばどうなる? 我々の伝令が長い報告書を綴っている間に、彼らは数字数文字で完璧な命令を全軍に行き渡らせるだろう。勝敗は戦う前に決している」
「……だからと言って、魔族を招く理由にはならん! 奴らは敵だ!」
「閣下、三年前の『灰色の冬』を忘れたのですか? 魔族の軍勢が北の国境を越え、人々がどれほどの血を流したか。あの冬、我々は同胞を、家族を、そして誇りを奪われた。その憎しみを捨て、魔族を招くなど……。領民たちへの裏切りではありませんか?」
周囲の数人の貴族も、バラン伯爵の言葉に重苦しくうなずいた。彼らにとって魔族とは、生存を脅かす「災厄」であり、その記憶は今なお生々しい傷跡として残っている。
「ならばバラン伯爵。私は貴殿を、二度と我が領地へ招くわけにはいかんな」
ダリルは初めて顔を上げ、冷徹なまでの静寂を宿した瞳でバランを射抜いた。
「数十年前の『霧の渓谷』の戦いを忘れたか? 貴殿の父上が率いる騎兵隊が、我が領の守備隊を全滅させたあの戦いだ。今の領境は、あの時流された双方の血によって引かれたものだ。……あの戦いも、三年前の『灰色の冬』に勝るとも劣らず悲惨だったぞ」
「それは……昔の話だ! 今はこうして手を取り合っているではないか!」
「三年前は『昨日の敵』で、三十年前は『昔の話』か。……その基準は一体どこにある?」
ダリルは、手にしていた駒を盤上に置いた。
「このチェスという遊戯を学んで、私は一つ悟ったのだ。盤上の駒に、かつての恨みは関係ない。あるのは、その駒が『今』どこにあり、どのような『機能』を持っているかという事実だけだ。……アルゴは、この世界の誰よりも深く、あの『アラビア数字』と『代数式表記』という最強の武器を使いこなす。……彼は我が領にとって、過去の恨みなどというガラクタより、遥かに価値のある『最善の一手』なのだ」
「理屈だ! 感情を無視した、あまりに冷酷な理屈だ!」
「ああ、理屈だな。……だが、感情という名の古いしきたりにこだわって、自領の時計の針を止めるほど、私は丸くなっていない。……伯爵、貴殿も昨日のアルゴの指し手を見たはずだ。あの子らが彼を『先生』と呼ぶ理由を考えろ」
ダリルは立ち上がり、驚愕に固まる貴族たちを見下ろした。
「私は、我が領の学者たちをアルゴに学ばせる。魔族から学ぶのではない。フェルゼンが定義した、最強の『規格』を学ぶのだ。……もし貴殿が過去の冬から一歩も動きたくないというのなら、勝手にするがいい。だが、その間に私は、渓谷の向こう側で、数字の力によって次の時代を築かせてもらうよ」
ダリルはそう言い残すと、貴賓室を後にした。
歴史という名の「レガシーな負債」を、論理という名の「パッチ」で上書きしていく。
フェルゼンの外側でも、確実に、新しい理が世界へとデプロイされ始めていた。




