第118話:共有される知、あるいは閉じた鎖
フェルゼン杯という名の「大規模な負荷テスト」を終えてから数日。
膝の上では、たまが「ミャウ」と気の抜けた声を上げながら丸まっている。
俺は、氷が溶けかかったコーラを一口飲み、その炭酸の刺激で辛うじて意識の覚醒を維持していた。
(文化によるサンドボックス化は成功だ。彼らは今、六十四のマス目の中に閉じ込められている。しばらくは平和な演算に没頭していてくれればいい。策謀とかいう悪性ファイルを走らせるより、パズルを解いている方が彼らにとっても健全だろうしね)
「ゼクトさん。お休み中のところ、失礼します。……嬉しい『異常事態』の報告に来ました」
やってきたのはグスタフだ。その手には、派手な封蝋が押された、分厚い羊皮紙の書簡が握られていた。
「嬉しい異常事態……。それ、言葉が矛盾してないかい、グスタフ。……で、何? ダリル公爵がチェスの負けを認められなくて、再戦の直訴でも送ってきたの?」
「いいえ、逆ですよ。……公爵閣下は、完全にフェルゼンの『理』に魅了されてしまったようです。見てください。閣下の領地から、優秀な文官を五名、フェルゼンに『留学』させたいという正式な要請が届きました。……アラビア数字と代数式、そして我が領の事務管理体制を、根本から学びたいのだと」
グスタフが差し出した書簡を、俺はリクライニングに寝そべったまま受け取り、ざっと目を通した。そこには、老練な軍略家らしい、力強くも謙虚な筆致で「旧来の知恵の限界」と「新しき理への渇望」が綴られていた。
「……なるほどね。ダリル公爵は、アルゴさんという『実行エンジン』の性能を見て、自分の領地のOSが古すぎることに気づいたわけだ。……悪くない判断だね」
「閣下は、滞在費も教育費も惜しまない、と仰っています。……それでゼクトさん。この留学生たちですが、やはりアルゴやエリシュアに、特別に講義をしてもらう形になりますか?」
グスタフの問いに、俺は少しだけ考え、ニヤリと笑った。
「いいや。彼らには、フェルゼンの学校に通ってもらうよ。……そう、あの子たちが『1+1』を学んでいる、一番下のクラスからね」
「……えっ? 公爵領の重鎮たちを、子供たちと一緒に机を並べさせるのですか?」
グスタフが絶句する。無理もない、この世界では身分や年齢が知識以上に重んじられる。だが、俺は首を振った。
「グスタフ。基礎を飛ばして応用だけ学んでも、それは『歪なパッチ』にしかならないんだよ。彼らには、数字という新しい言語の『文法』から叩き込まなきゃいけない。子供たちと同じレベルから学んでおかないと、後で彼らが自領に戻って運用する時に、必ず致命的なエラーが出る。……基礎のインストールに妥協は禁物だよ。それに……愉快じゃないか」
「……確かに、ゼクトさんの仰る通りです。……屈辱的かもしれませんが、公爵の文官たちには、まずは子供たちという『先輩』に、数字の書き方から教わってもらうことにしましょう」
グスタフは苦笑しながら、手帳に「留学生の入学手続き」と書き込んだ。
「でも、これでいいんだよ、グスタフ。彼らがフェルゼンの数字で予算を組み、フェルゼンの定規で建物を建て、フェルゼンの論理で法律を書き始めたら……。彼らはもう、フェルゼンというシステムなしでは国を維持できなくなる。……いわゆる『ベンダーロックイン』だね。武力で支配するより、規格で依存させる方が、よっぽど堅牢で、優しい侵略になるんだよ」
(一度特定の言語やツールに依存したら、移行コストが高すぎて他へは行けない。世界をうちのコードで埋め尽くして、フェルゼンという名のプラットフォームの一部にしてあげるのさ)
俺の言葉に、グスタフは深く感銘を受けたように頷いた。
「ナォン(……でも、学校の給食が美味しくて、案外喜ぶんじゃないの?)」
たまが欠伸をしながら、床で伸びをした。全てが計画通りだ。そう確信し、俺が再びスリープモードに戻ろうとした、その時だった。
「……ですがゼクトさん。……すべてが順調のように思えるのですが、一つだけ、厄介な問題が発生しておりまして」




