第116話:深淵の教壇
「……次だ」
ダリル公爵の、低く掠れた声が広間に響いた。
盤上では、彼のキングが逃げ場を完全に塞がれ、無惨に横たわっている。終局。だが、ダリルは盤面をリセットする手すら惜しむように、すぐに次の対局を求めた。
二局目、三局目、そして四局目。 広間に詰めかけた貴族たちは、もはや言葉を失い、ただ目の前で繰り広げられる「一方的な蹂躙」を凝視していた。
対局は、驚異的な速度で進んでいた。
ダリルがひねり出した「執念の一手」に対し、アルゴは考慮時間など最初から存在しないかのように、一秒の遅滞もなく応じる。駒を掴み、置く。その動作は一切の迷いがなく、まるで最初から最後まで、すべての手順が記された楽譜をなぞっているかのようだった。
しかし、対局を重ねるごとに、ダリルの顔から険しさが消えていった。最初は「魔族への敵意」と「負けへの恐怖」で強張っていたその表情が、回を追うごとに、どこか憑き物が落ちたような、穏やかなものへと変わっていく。
「……なるほど、そう来るか。……次だ」
五局目、六局目。ダリルはもはや、目先の勝利を求めてはいなかった。
アルゴが繰り出す一手一手に、フェルゼンが構築した「論理の正解」が詰まっている。ダリルは盤上を通じて、この魔族の青年から「教え」を受けている自分に気づいていた。
一手打つたびに、自分の思考が洗練されていく。軍略家として長年抱えてきた「曖昧な勘」という名の霧が、アルゴの冷徹な演算によって、一枚一枚剥ぎ取られていく快感。
何度目かの終局を迎えた時、ダリルは深く、長く息を吐き出した。
彼は椅子の背もたれにゆったりと身を預け、目の前のアルゴを見つめた。そこにはもはや、魔族に対する偏見も、負けたことへの屈辱も微塵もなかった。
「……まいった。全く勝てる気がしないな」
ダリルの口から漏れたのは、清々しいまでの降参だった。
西の猛将と呼ばれ、周辺諸国にその名を轟かせた男が、ただの事務官を名乗る魔族に、文字通り手も足も出ずに敗北した。その事実を、ダリルは受け入れたのだ。
「公爵閣下、恐縮です。……あなたの指し手、中盤から非常に鋭くなっていました。私の方も、演算の優先度を引き上げる必要がありましたよ」
アルゴが静かに頭を下げた。その無機質だった声に、微かな、だが確かな敬意が混じる。
静まり返った広間に、異質な足音が響いたのはその時だった。
「アルゴ先生! やっぱり先生は負けないね!」
その純粋な声に、客席の貴族たちが一斉に振り返る。
そこには、マルタに連れられた数人の子供たちがいた。フェルゼンの学校に通う子供たちだ。彼らは対局を終えたアルゴの元へ、何の躊躇もなく駆け寄っていく。
「いつもの練習の時より、ちょっとだけ難しそうな顔してたけど!」
「相手の人も凄かったの? でも先生が勝つって信じてたよ!」
子供たちが、魔族であるアルゴの衣服の袖を掴み、親しげに笑いかける。
他領の貴族たちは、その光景に、チェスの敗北以上の衝撃を受けていた。彼らにとって魔族は恐怖の象徴であり、子供を近づけるなど言語道断の蛮行だ。だが、目の前のフェルゼンの子供たちにとって、アルゴは差別すべき人外ではなく、算術や論理を教えてくれる「大好きな先生」に過ぎなかった。
「……ええ。閣下は、素晴らしい打ち手でしたよ。……皆、静かに。今はまだ大会の最中です」
子供たちの頭を、アルゴの浅黒い手が優しく撫でる。
その穏やかな表情を見た瞬間、ダリル公爵は、自分たちが抱いていた「偏見」というプログラムがいかに古く、いかに非効率なものであったかを悟った。
「……グスタフ殿」
ダリルが、傍らに立つグスタフを仰ぎ見た。
「貴殿の勝ちだ。……フェルゼンは、単に便利な道具や新しい遊びを作っただけではない。……人々の『心根』そのものを、別の何かに書き換えてしまったのだな」
ダリルは立ち上がり、自身の優勝トロフィーを卓に置くと、快活な笑い声を上げた。
「グスタフ殿。今度の我が領地での晩餐会のときには、必ずこの男……アルゴを連れてくるように。いいか、絶対だぞ」
ダリルはニヤリと笑い、グスタフの肩を親しげに叩いた。
「なんなら、お前は来なくてもいい。……この『深淵』の続きを、我が領の者たちにも見せてやりたくなった」
冗談めかして言ったその言葉に、広間の貴族たちから驚きと、そして微かな同調の苦笑が漏れた。
第一回フェルゼン杯。
かつての宿敵が、魔族の青年を最高の賓客として招くと宣言する。
その象徴的な光景は、観戦していた貴族たちの脳裏に、フェルゼンという名の「新しき理」を、抗いようのない決定的なものとして刻みつけた。




