第115話:言質の罠と、盤上の静寂
「……魔族だと!? グスタフ殿、正気か!」 「知の競演と聞いて参じれば、よもや人外の類を貴族の列に並べるとは!」
広間を埋め尽くす貴族たちから、悲鳴に近い怒号が湧き上がった。
アルゴの浅黒い肌。その姿は、この世界の人間にとって「対等な対話の相手」ではなく、恐怖と忌避の象徴でしかなかった。
「無礼も極まれり! このような不浄な存在と同じ卓を囲むなど、貴族の誇りが許さぬ!」
「フェルゼンは魔族を飼い慣らしているとでも言うのか? 狂気の沙汰だ!」
招待された周辺領主の一人が椅子を蹴って立ち上がり、広間を後にしようとする。それに同調するように、次々と他領の貴族たちが席を立ち始めた。彼らにとって、魔族と同じ遊戯に興じることは、自らの社会的地位を根底から汚す行為に他ならなかった。
罵詈雑言の嵐が吹き荒れる中、アルゴは静かに立っていた。
眉一つ動かさず、自身の身なりを整えることもせず、ただ無機質な瞳でダリル公爵を見つめている。その佇まいは、周囲の感情的なノイズを一切受け付けない、堅牢な城壁のようでもあった。
「――皆様、そこにお座りください」
広間の喧騒を切り裂くように、グスタフの鋭い声が響いた。
彼は壇上で凛とした姿勢を崩さず、退場しようとする貴族たちを、そして何より呆然とアルゴを見つめているダリル公爵を、射抜くような眼差しで見据えた。
「フェルゼン杯は、一切の不純物を排した『知の戦場』です。そこに種族という名の盤外の事情を持ち込むことこそ、この遊戯に対する最大の無礼ではありませんか?」
「ふざけるな、グスタフ! 魔族と知を競うなどという話、聞いてはおらんぞ!」
食ってかかる伯爵の一人を冷徹に一瞥し、グスタフはゆっくりと歩を進め、ダリル公爵の正面へと立った。
「公爵閣下。……忘れたとは仰いますまい。以前、あなたが私に突きつけた言葉を」
ダリルが、ハッとして息を呑んだ。 グスタフは、朗々と、しかし刃のような鋭さを持って、ダリルの放った「言質」をその場に叩きつけた。
「『ならば、その知性の化け物を連れてくるがいい。そいつもまとめて、私の執念で捻り潰してやる』……閣下は、そう仰いましたね?」
「……それは」
「あなたは『まとめて』と仰った。相手が何者であろうと、その知を凌駕して見せると。……今さら肌の色が違う魔族だという理由で逃げ出すのは、自らの『言の葉』を汚すこと……。ひいては、軍略家としての敗走と同義ではありませんか?」
グスタフの言葉が、ダリルの逃げ道を完全に塞いだ。
周囲の貴族たちは、自分たちの代表であるダリルが、魔族を拒絶することを期待していた。しかし、ダリル公爵という男の根底にあるのは、軍人としての誇りと、強者に対する異常なまでの執着だ。
ダリルは、目の前に座ろうとしているアルゴを見つめた。
罵倒されてもなお揺るがぬ、その圧倒的な知性の気配。この数ヶ月、自分が死に物狂いで研鑽してきた「理」の深淵が、目の前の男の瞳の奥に、確かに存在していることをダリルは直感した。
「……黙れ!」
ダリルの一喝が、騒ぎ立てる貴族たちを黙らせた。彼は、震える手で自身の椅子の背を掴み、力強くそれを引き寄せた。
「私に背を向けて逃げろと命じるのは、どこのどいつだ。……私は『最強』と戦いに来たのだ。相手が神であろうと悪魔であろうと、この六十四のマスの上に座るならば、それはただの打ち手よ」
ダリルの宣言に、広間は墓場のような静寂に包まれた。 退場しようとしていた貴族たちも、その圧倒的な威圧感に気圧され、固唾を呑んで事の成り行きを見守るしかない。
ダリルが重々しく腰を下ろすと、アルゴもまた、音を立てずに椅子に座った。
「……来い、フェルゼンの深淵。貴殿の論理が、私の執念を凌ぐか。今ここで見定めてやる」
「――承知いたしました、公爵閣下」
アルゴの無機質な声が、対局の開始を告げた。ダリルが震える指先で、最初の一手を打つ。
それに対し、アルゴは考慮時間など皆無であるかのように、一秒の遅滞もなく応じた。
カツ、カツ、と駒が木板を叩く音だけが、不気味なほど静まり返った広間に響く。
観客たちは、先ほどまでの怒りを忘れ、異様なプレッシャーに息をすることさえ忘れていた。
ダリル公爵は、戦慄していた。
アルゴの手が早いのではない。自分が一手打つごとに、まるで最初からそう指すことが決まっていたかのように、流れるような無駄のない動きで「正解」が返ってくるのだ。
それは対局というより、精緻な機械に、自らの思考を解体されていくような感覚。
フェルゼンが構築した、冷徹なる演算の暴力が、ついに周辺領主たちの「常識」を侵食し始めていた。




