第112話:未来への参加料
「社会保障基金」という、この世界の誰一人として聞いたことのない概念を前にして、グスタフは希望と戸惑いが入り混じったような顔をしていた。俺はバキバキに固まった腰を叩きながら、リクライニングを倒したまま天井に向けて人差し指を立てた。
「いいかい、グスタフ。勘違いしちゃいけないよ。社会保障ってのは、領主様からの慈悲深い『贈り物』じゃないんだ。……それは、領民一人ひとりが結ぶ『未来の自分を守るための契約』なんだよ」
「……契約、ですか。誰との、契約なのですか?」
「自分自身、そして社会全体とだよ。……グスタフ、さっきのパン屋の例を思い出してごらん。もし、その町で唯一のパン屋が病気で倒れたらどうなる?店は閉まり、家族は飢える。そして町中の人間がパンを食べられなくなるよね。……これは個人の不幸であると同時に、社会というシステムのエラーなんだよ」
俺はテーブルに残ったパンの欠片を指で示した。
「でも、毎月ほんの少しずつ……たとえば銅貨の端数一枚分をみんなで出し合えば、誰かが倒れても、そのプールから治療費が出て、家族も飢えずに済む。そうすればパン屋は安心して休めるし、治ればまた美味しいパンを焼いてくれるだろ?リスクを分散して、システム全体の稼働率を維持する。これが『互助』を巨大スケールで回す“社会保障”の正体だよ」
「……互助の制度化。なるほど、個人の善意に頼るのではなく、仕組みとしてそれを回すのですね」
アルゴが眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、羊皮紙に『組織化された相互扶助』と走り書きした。だが、俺はあえて彼らの高揚感に冷や水を浴びせた。
「ただね、一つ大きな問題がある。領民たちにしてみれば、自分の懐から金が消えることに変わりはない。彼らは間違いなく、この徴収を『領主が新しく始めた卑劣な税金』だと思って、君を恨むだろうね」
グスタフが息を呑んだ。この世界の人間にとって、公権力による徴収はすべて、領主を太らせるための略奪でしかないからだ。だが、グスタフはすぐに何かを思い出したように顔を上げた。
「……! いえ、ゼクトさん。それなら『水道代』と同じロジックが使えるのではありませんか?あの時、市民は『水』そのものに金を払うのではなく、重い桶を運ぶ重労働から解放される『利便性』の対価として納得しました。今回も、将来の病や老いの不安から解放されるための『参加料』だと説明すれば、彼らも受け入れるはずです!」
「飲み込みが早いね。その通りだね、グスタフ。ここは絶対に履き違えちゃいけない。税は『領主や行政を動かすための金』だ。でも、保険料は『自分たちの未来を守るための金』なんだよ。似ているようで、そのパケットの宛先はまったく違う。税は義務だけど、社会保障は権利を得るための投資なんだ」
「税ではなく、未来への『参加料』……。これなら、領主への献納ではなく、自分たちのための積み立てとして誇りを持たせることができます」
グスタフがその言葉を噛みしめるように繰り返した。俺は話を一歩進めて、より具体的な「実装」の話に切り替えた。
「さて、その参加料……保険料をどう集めるかだけど。大きく分けて三つの方式がある。まずは、全員一律で同じ額を払う『定額方式』。シンプルだけど、貧しい人には重すぎる。次に、収入に応じて金額を変える『所得比例方式』。公平だけど、一人ひとりの所得を把握するのには、事務のコストが大きい」
(……現代でも議論が絶えない部分だ。だがフェルゼンの現状なら『混合方式』が最適だな)
「だから、俺は『混合方式』を提案するよ。基本となる最低限の参加料は全員一律。その代わり、ガラ=モン・ファクトリーの利益の分配分から、自動的に一定割合を天引きして基金に積み立てるんだ。これなら領民の財布から直接奪う痛みは最小限で済むし、工場の稼働が上がれば上がるほど、個人が負担する分は減っていく。……うまくいけば、いずれ自己負担はゼロになるよ」
「……なるほど。最初は少しの身銭を切らせて、自分が『参加している』という意識を持たせる。そして残りは産業の利益で補塡し、いつかは完全無償へと繋げる……」
「……どうだい、グスタフ。これなら、みんな進んでこの契約書にサインしてくれると思わない?」
グスタフの顔から迷いが消え、代わりに新しい時代を創る高揚感が溢れ出していた。
「はい。これなら領民も納得するでしょう。税ではなく、自分の未来を予約するための参加料。フェルゼンの新しい『理』として、直ちに検討に入ります!」
グスタフとアルゴが熱心に仕様書を抱えて去っていくのを見送り、俺は再びリクライニングを深く倒した。
「ふぅ……。俺が病気で寝込んでも誰も文句を言わない世界にまた近づいたかな……」
「ナオン(あんたはいつも寝てるじゃないの)」
俺の独り言に、たまが欠伸を一つ返した。フェルゼン社会保障制度。世界初の『未来を予約するシステム』の構築が、具体的な数値となって動き出そうとしていた。




