第111話:黄金のデッドロック(後編)
絶望に肩を落とすグスタフと、空中に描いた数式を消せずに固まっているアルゴ。二人を見つめながら、俺はわざとらしく溜息をついた。
「そんなに落ち込むなって。俺が本番環境に耐えうる堅牢なコードを書き直してるから。……アルゴさん、これを見て」
俺は膝元に置いていた、数枚の図解入りの資料をテーブルに滑らせた。そこには、巨大な『基金』を中心に、いくつもの矢印が循環する図が描かれている。
「……ゼクトさん。これは、先ほどの権利の三等分とはまた別の……?資金の『流し先』の指定、ですね?」
アルゴが眼鏡を指で押し上げ、その鋭い目で仕様書に目を走らせる。
「そう。名前は『フェルゼン社会保障基金』。……いいかい、グスタフ。さっき言った通り、お金を直接領民に配れば、それは市場を焼き尽くす炎になる。だったら、その炎を一旦、この巨大な『冷却水槽』に溜め込むんだ。……ガラ=モンが生み出す莫大な利益は、領民の財布に直接流し込まず、まずこの基金に全額リダイレクトする」
「……お金を溜める水槽?それでは、結局領民の手には一銭も渡らないということではありませんか。それでは彼らは豊かさを実感できません」
グスタフが食い下がる。無理もない。中世の人間にとって「豊かさ」とは、手の中にある重たい硬貨のことだ。
「甘いよ、グスタフ。……領民が必死に金を貯め込むのはなぜだ?贅沢をしたいからじゃない。明日、病気になったら。怪我をして働けなくなったら。年老いてパンが買えなくなったら。……そんな、人生という名のシステムに潜む『予期せぬエラー』が怖いからだ。だから彼らは、市場にお金を回さずに、タンスの中に隠し持つ。……これを俺のいた世界では『予備的動機』なんて呼んでたけど、要は将来への恐怖心だよ」
俺はコーラを一口飲み、喉を潤してから、このパッチの真髄を語った。
「この基金はね、その『不安』を肩代わりするための保険システムなんだ。病気になれば治療費を出し、働けなくなれば最低限の生活を保障する。……つまり、領民に現金を渡す代わりに、『一生、最悪の事態にはならない』という絶対的な安心感……セーフティネットをインストールするんだよ」
「……!治療費や老後の生活をシステムが担保する、というのですか?」
「そうすればね、領民は将来のために金を隠し持つ必要がなくなる。今までタンスに眠っていた『既存の銀貨』が、安心して市場に流れ出すんだ。……いいかい、ここが重要だよ。君が新しく金を配るのと違って、これは『既に市場にあるお金』が回り出すだけだ。供給(パンの量)の成長に合わせて、少しずつ、なだらかに消費が増えていく。……急激な発火を起こさずに、市場の体温をじわじわと上げる、理想的な暖機運転だよ」
グスタフがハッとしたように目を見開いた。アルゴのペンが猛烈な勢いで計算を始める。
「……さらに。……ゼクトさん、この基金の本当の目的は、単なる貯金箱ではありませんね?」
アルゴが震える声で、仕様書の後半部分を指差した。
「その通り。この基金に貯まった膨大な資本……その大部分は、ただ眠らせておくなんて勿体ないことはしない。これを次の紡績工場の建設や、道路の整備といった『設備投資』の原資として即座に再投入する。……いいかい、グスタフ。領民の不安を消して『需要』をじわじわ上げながら、基金の金で工場を建てて『供給』も同時に増やしていくんだ。……この『需要と供給の同時スケーリング』。これこそが、数字ごっこじゃない、本物の経済成長だよ」
「……領民の不安を消すことが、そのまま次の産業を興す力になる。……運用益がさらなる保障を厚くし、保障がさらなる労働意欲を生む。……これは、一度回り始めれば、永久に止まらない自己増殖型のシステムだ……」
「さらに、基金の運用は、フェルゼン全体の生産性を高める投資に限定する。消費に回さず、供給能力を底上げするための資本形成に使う。」
「ニャォン(……巨大な生簀を作って『一生エサに困らない権利』を配ったわけね。それでいて、余ったエサでさらにデカい生簀を建てるってことなのね)」
「……どうだい、グスタフ。これなら君のやりたかった『全員への分配』を、国を壊さずに、むしろ国を強化しながら実装できる。……フェルゼンを、一つの巨大な『互助型投資法人』へとアップデートする準備、いいかな?」
(……まあ、構造としてはノルウェーの政府年金基金とか、テマセクとか、ああいう“国家が巨大な投資法人になるモデル”をとりいれたんだけどね)
俺がニヤリと笑うと、グスタフは仕様書を抱きしめるようにして、深く、深く頭を下げた。
「……ゼクトさん。あなたは、この世界の『支配』という言葉の定義すら、変えてしまおうとしているのですね。……承知しました。この仕組み、私の全権を以って、フェルゼンの基幹システムへと組み込ませていただきます」




