↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱夫妻
第五章:怠惰の統治

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
119/203

第110話:黄金のデッドロック(前編)

 三日三晩、俺の脳内CPUをフル回転させて書き上げた『社会保障パッチ』。その最終行にピリオドを打ち込んだ記憶を最後に、俺の意識は強制終了されていた。


 視界がゆっくりと、解像度の低いモニタが立ち上がるように戻ってくる。まぶたが重い。体中の節々が、長時間座りっぱなしで固まった廃品のように悲鳴を上げている。


「……あ、ゼクトさん。気がつきましたか」


 リクライニングのすぐ横で、グスタフが祈るような顔をして俺を覗き込んでいた。その表情には、領主としての威厳よりも、友の安否を気遣う一人の青年の色が濃く出ていた。背後では、アルゴが俺の書き残した膨大な計算メモを食い入るように見つめ、空中で指を弾きながら検算を続けている。


「……おはよう、グスタフ。俺、どれくらいオフラインだった?」


「数時間です。息をしているか心配になりましたよ」


 飲みかけのぬるくなったコーラを一息で飲み干す。コーラの糖分で、ようやく神経の回路が繋がり、霧が晴れるように思考が明瞭になってきた。俺はふらつく手で、テーブルの上に置かれたグスタフの『理想』……すなわち『領民全員への、工場の利益の均等分配』と書かれたメモを指差した。


「……それについて、話さなきゃいけないんだよね。君のその『最高の善意』が、なぜこの国を物理的に破壊する毒物になるのかをさ」


「ゼクトさんが眠っている間、私も考え続けました。ですが、やはり納得がいかないのです。ガラ=モン・ファクトリーは富を生み出す。その富を領主に献上し、商人が独占するのではなく、等しく領民に分かち合う。……これほど正しく、美しい行いがあるでしょうか。なぜ、それがいけないのですか?」


 グスタフの声には、純粋な痛みがあった。目の前に腹を空かせている人がいる、そして手元には有り余るパン(金)がある。それを配って何が悪いのか、という混じり気のない正義感だ。


(……ああ。その『正しさ』が、一番タチが悪いんだよ。仕様を理解していない管理者による善意のコマンドが、一番確実にシステムを更地にするんだ)


「ニャォン(……あんたのその死にそうな顔、鏡で見せてあげたいわ。その状態でまだ理屈をこねるつもり?)」


「……たま、静かにしててよ。今、大事なデバッグ中なんだから。……いいかい、グスタフ。君は今、『数字が増えること』を『豊かさ』だと勘違いしているんだよ」


 俺はリクライニングを少しだけ起こし、テーブルに置かれたパンのバスケットを手に取った。


「……俺がいた場所ではね、『経済成長』っていう得体の知れない神様がいたんだ。一国の生産力を数字にして、去年より何パーセント増えた、なんてことに国中の大人が一喜一憂していた。……でも、その数字の正体は何だと思う? ただの『表示上の数値』だよ」


「……数値、ですか?」


「そう。数字なんて、いくらでも誤魔化せるんだ。お金を刷りまくって、無理やり消費を煽れば、一見すると国は豊かになったように見える。でも、その裏側で人々の暮らしはどうなったか。……物価は上がり、労働時間は増え、数字を維持するために絶えず走り続けなきゃいけない地獄が出来上がった。中身のないバルーンを膨らませ続けるような、虚しい数字ごっこだよ。君がやろうとしているのは、その『虚無』をこのフェルゼンに無理やりインストールすることなんだ」


 俺は棚から取り出したパンを一つ、グスタフの前に置いた。


「フェルゼンには中央銀行というお金の流通量を調整する機関が存在していない。だから利益分配はそのまま『貨幣量の増加』になる。ここまではいいかな?」


「ええ、現実のフェルゼンはそのとおりですね」


「では、少し論理遊びをしてみようか。今、フェルゼン全体で食べられるパンが一万個しかないとする。お金はパンを買うためにのみ使われるとする。一方で、市場に流れているお金の総額が、銀貨十万枚だとしよう。……この場合、パン一個の市場価値は、論理的に銀貨十枚になるよね?」


「……はい。パンにしか使われないのだから、計算は単純ですね」

 アルゴが冷静に答える。


「じゃあ、ここでグスタフが『利益を配る』というコマンドを叩く。工場の利益を注ぎ込んで、市場に流れるお金の総額を一気に百万枚に増やしたとする。……でもね、パンを作る職人の数も、小麦の収穫量も、一晩で十倍にはならない。……さて、パン一個の値段はどうなるかな?」


 グスタフの表情が、凍りついた。


「……パンの数が一万個のままで、お金だけが十倍になる。……パン一個が、銀貨百枚になる、ということですか」


「その通りだよ。これが『インフレ』……貨幣価値の希釈だ。領民は懐にたくさんの金貨を持っているけど、昨日まで一枚で買えたものが、今日は十枚出さないと買えない。……君は領民の財布に数字を書き足しただけで、彼らの腹を満たす『パン』は一個も増やしていないんだ。……これのどこが『美しい救済』だい?」


 俺はちぎったパンを口に運び、ムシャムシャと咀嚼音を響かせた。


「さらに最悪なのはね、供給のプロセスが死ぬことだよ。……考えてもみてよ。働かなくても国から金が配られるなら、誰が粉まみれになって朝からパンを焼くんだい?誰が泥にまみれて畑を耕すんだい?……パンを焼く職人が『もう働かなくていいや』と思って店を畳んだ瞬間、市場にあるパンの数は一万個から千個に減る。一方で、お金だけは大量にある。……そうなれば、お金なんてただの汚れた金属の塊だよ。誰も売ってくれない、何も買えない。……これが、国が丸ごと溶ける『システムクラッシュ』の全貌なんだよ、グスタフ」


 グスタフは絶句し、自分の両手を見つめた。その手が領民に握らせようとしていた金貨が、彼らの生活を支える基盤そのものを焼き尽くす炎に見えたのだろう。


「……私の善意が、彼らの生きる糧を奪い、フェルゼンを無に帰す毒だったというのですか……。では、私たちは何のために、この巨大な富を生む工場を作るのですか!富がありながら、それを民に渡せぬのなら、私は何を守ればいいのです!」


 グスタフの叫びは、書斎の壁に虚しく反響した。その絶望を待っていたかのように、俺は手元に置いてあった『真の仕様書』を引き寄せた。


「だからさ。数字なんていう不安定なプロトコルを通さずに、もっと『低階層』で直接パッチを当てるんだよ。……グスタフ、君がやるべきなのは金を配ることじゃない。彼らが金を貯め込まなきゃならない理由……その『不安』という名のバグを、システム側で無効化することなんだ」


 俺の言葉に、絶望に沈んでいたグスタフの瞳に、微かな光が戻ってきた。ここからが、現代の失敗を乗り越えた、本当の『国家設計』の解説だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。