第109話:デバッグ・イン・ザ・ダーク(後編)
三日目の朝日が、書斎の厚いカーテンの隙間から無慈悲に差し込んできた。
俺の脳内メモリは既にパンク寸前で、視界の端には、あっちの世界のバグ取りの記憶が走馬灯のように流れている。
(……配るな。溜めろ)
俺の指が、重力に逆らうようにキーボードの上で微かに動き始めた。
「……医療。……老後。……事故。……あるいは、教育」
俺は画面に浮かぶ、現代北欧の福祉モデルや、シンガポールの強制積立基金(CPF)のデータを注視した。
領民が金を欲しがるのは、贅沢をしたいからだけじゃない。彼らが本能的に恐れているのは、人生における「予期せぬエラー」だ。病気、怪我、老い……それらに備えるための『保険』として、彼らはなけなしの金をタンスに溜め込んでいる。
「これらは全部、人生におけるコストだ。……なら、そのコストを国がシステムとして肩代わりして、不安を消去すればいい」
画面を切り替え、フェルゼンの人口統計とガラ=モンが将来生み出す利益を、関数でリンクさせていく。
「……そうだ。ガラ=モンの配当は、直接領民の手に渡さない。その代わり、国が管理する巨大な『互助のプール』……つまり社会保障基金に全額リダイレクトするんだ。領民には『金貨』の代わりに、『医療費の負担を軽減する権利』や『働けなくなっても飢えない保証』を担保する」
これが、俺の導き出したパッチ、『投資型領民皆保険制度』だ。市場に余分な現金は一銭も流れない。だからインフレのスパイクは起きない。
だが、領民の生活水準は「不安の解消」によって上がる。
「……しかも、このパッチにはもう一つ、攻めの機能がある」
俺は熱を帯びたPCの排気音を聞きながら、数式を書き足した。
この巨大な「プール」に溜まった膨大な資本を、ただ眠らせておくなんて勿体ないことはしない。これを次の工場建設やインフラ拡張の原資として、さらに産業に『再投資』するんだ。
「……投資型の、領民皆保険。基金が産業を育て、産業がさらなる利益を基金に戻す。運用益が上がれば上がるほど、領民が負担するはずのわずかな社会保険料も安くなり、やがてはゼロになる。……配当を現金で配るより、遥かに効率的な富の還元だ」
ノルウェーやシンガポールが資源や労働力を背景に実現した、「国家レベルの資産運用」。
それを、このフェルゼンという環境で、ガラ=モンという最強のエンジンを核にして実行する。
「……これだ。これなら、通る。……フェルゼンを、一つの巨大な『互助型投資法人(DAO)』にしてしまうんだ」
俺は、最後にエンターキーを強く叩いた。
画面には、フェルゼンの数十年先までの収支予測が、計算上の誤差を飲み込みながら、美しい右肩上がりの放物線を描いて表示されていた。
「ナォン(……お疲れ様。その目の隈、鏡で見せてあげたいわ)」
「……グスタフ、……ベータ版の仕様書は、書き上げたよ」
俺はPCをシャットダウンすると、力尽きたようにデスクに突っ伏した。
数時間後、リビングのチャイムが鳴る。そこに現れたのは、約束の刻限を待ちきれずにやってきたグスタフと、数字の化け物・アルゴだった。
俺は、幽霊のような足取りでリビングへ向かい、翻訳プリンタで作成した『フェルゼン社会保障基金』の分厚い仕様書を、テーブルにそっと置いた。
「グスタフ……これが、あんたの理想を現実にするための、バグ取りの成果だよ。俺は少しだけ眠るから、二人で確認してみて」
グスタフは俺の変わり果てた姿に絶句し、アルゴがその仕様書を、ゆっくりと読みはじめる。
数分間の沈黙。ページをめくる音だけが響く中、アルゴの目が、次第に驚愕と法悦に染まっていくのを、俺は薄れゆく意識の中で眺めていた。
(……さあ、未だ誰も成し遂げていない『貧困というバグが存在しない社会』。……デバッグ、頼んだよ)
俺はリクライニングを倒し、二日ぶりの深い眠りへと、ゆっくりと沈んでいった。




