第108話:デバッグ・イン・ザ・ダーク(前編)
書斎の扉を閉め、鍵をかけた瞬間、俺の「万能感」は霧散した。
デスクの上に置かれたPC。青白く発光するその液晶画面は、あっちの世界の叡智が詰まった魔法の鏡だが、同時に俺を嘲笑う冷徹な審判でもあった。
「……さて。どうするかな、これ」
俺は「怠惰の玉座」とは対照的な、いかにも「仕事用」の木製椅子に座り、キーボードを叩いていた。
グスタフが提示した仕様はシンプルだ。『全ての領民に、ガラ=モンの利益を均等に配る』。あっちの世界でいう「ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)」の実装。
だが、その一文の裏側に潜む「致命的なバグ」の群れを想像するだけで、俺の頭の中は警告のビープ音が鳴り続けている。
「安請け合いしすぎたな……。二、三日なんて、開発スケジュールとしては完全に炎上案件だ」
俺は画面に表示された「ハイパーインフレの歴史」というファイルをスクロールした。
第一次世界大戦後のドイツ、あるいは末期のジンバブエ。それらの国を襲ったのは、無策な通貨発行が招いた「価値の崩壊」だ。
「お金っていうのは、それ自体に価値があるんじゃない。『何枚出せばパンが一個買えるか』っていう、市場との合意で成り立っているんだ」
「ナァ(……あんた、また独り言? 相当追い詰められてるわね)」
足元でたまが欠伸をしながら、俺を見上げている。
「今、フェルゼンの流通貨幣量は安定している。そこにガラ=モンが稼ぎ出した金を、利益が出たそばから全住民に配ったとするだろ?住民は大喜びで酒場へ行く。市場に流れる『金』の総量が一気に跳ね上がる。……結果、どうなる?」
俺は画面上のシミュレーターに数値を入力し、エンターキーを叩いた。
グラフが垂直に跳ね上がる。それは「豊かさ」の指標ではなく、パンの値段の「急騰」を示す赤い線だった。
「酒場のオヤジは、客がみんな金を持ってるのを見てパンや酒の値段を上げる。物価が上がれば、配られた金の価値は相対的に下がる。結局、住民の生活水準は変わらず、貯金だけが紙屑になる。……ただの数値のインフレだ。市場へのDDOS攻撃だよ、こんなの」
俺は髪を掻きむしり、空になったコーラの缶をデスクの端へ追いやった。
あっちの世界でも、UBIはまだ「理論上のベータ版」に過ぎない。一部の先進国が実験を繰り返しているが、それはあくまで安定したインフラと税制の上での話だ。
住民登録すらまともに終わっていない、銀行も証券取引所もない、この中世レベルの「レガシー環境」でそれを動かそうなんて、最新のOSをそろばんの上で動かそうとするような暴挙だ。
「……それに、もう一つのバグがある。労働意欲の低下。……モラルハザードだ」
画面を切り替え、過去の社会実験の失敗例を眺める。
働かなくても食える。それは俺にとっては理想だが、社会全体がそれをやれば供給側が止まる。パンを焼く奴がいなくなれば、いくら金があっても食えない。
「……あ。ダメだ。考えれば考えるほど、市場がデッドロックに陥る未来しか見えない。グスタフ、あんたがやろうとしているのは『全自動幸福供給システム』じゃない。『国を丸ごと溶かす高負荷ウイルス』だよ」
俺は椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見た。窓の外はいつの間にか暗くなっている。二階建ての家の静寂の中で、PCのファンの音だけが虚しく響く。
「……いっそのこと、『やっぱり無理でした』って言ってバグ票を投げ返そうか。……いや、ダメだ。グスタフのあの目は、本気だった。断れば彼は彼なりに無理な分配を始めて、本当にフェルゼンを壊すかもしれない」
開発者が仕様を拒否しても、クライアントが勝手に本番環境を弄り始めたら最悪だ。それなら、どんなに汚いコードでも、俺が「安全装置」を組み込むしかない。
「ナォン(……あんた、怠けるために引きこもったのに。自分の首を絞めるようなことばかりしてるわね。自業自得よ)」
「……でもさ、たま。もし、もしこの世界に『貧困』っていう致命的なエラーがないOSをインストールできたら……それは、あっちの世界の誰も成し遂げられなかった、最高のデバッグだと思わないか?」
俺の独白に、たまの返事はない。ただ、冷たくなった床に腹をつけ、俺の苦悩を眺めている。
夜中の二時。俺の目の下には酷い隈ができ、頭脳はコーラの糖分とカフェインだけで辛うじてクロック数を維持していた。
画面には、かつてあっちの世界で「理想論」として切り捨てられた数々の論文が浮かんでいる。
「待てよ……こっちの社会レベルだからこそ、できることがあるんじゃないか?」
混濁した意識の中に、一つの論理的な回路が浮かび上がった。
それは、あっちの世界でも完成しきれなかった、しかしこのフェルゼンという特殊な「閉じた経済圏」なら、あるいはコンパイルが通るかもしれない……。
「……これだ。このパッチを当てれば、インフレのスパイクを抑えつつ、住民の幸福度を最大化できる……」
俺は、再び画面を睨みつけた。三日目の朝日が昇るまで、俺とたま、そして青白く光る魔法の鏡だけの、孤独なデバッグ作業が続いていく。




