第102話:規格の守護者
「ようし、じゃあ俺はこの治具を完璧に作ればいいんだな」
叫ぶように言うやいなや、ガラムは図面を掴み、そのまま走り去ろうとした。
(待て待て待て……まだ半分も説明が終わっていないよ。よく話を聞かずに動くから定規も失敗したんだよ。せっかくの決め台詞も台無しだ)
俺は慌てて、ガラムの逞しい腕を掴んでソファに引き戻した。
「フェルゼンには次のフェーズに移行してもらおうと思ってるんだ」
もう一度はっきりと言った俺の言葉に、ガラムが怪訝そうに眉を寄せた。彼は手に持った治具の図面と、俺の顔を交互に見つめている。俺は椅子から立ち上がると、ソファの裏に隠しておいた設計図をテーブルに広げた。
「ガラムさん。治具はあくまで、正確な作業を定義するためのソフトウェアだ。でも、それを動かすためには巨大なハードウェアが必要なんだよ」
「……ハードウェア? またあんたの妙な言葉が出たな。おい、この図面……なんだこれは。建物の中心を、巨大な鉄の棒が貫いているじゃねぇか」
「これはラインシャフトという動力伝達システムだよ。建物を貫くこの太い棒が、工場の背骨になるんだ」
俺が指差したのは、現実の産業革命初期、リチャード・アークライトが築いた水力工場の仕組みを、この世界の技術レベルで再現できるように落とし込んだ設計図だ。
「背骨だと? ただの棒が、どうやって機械を動かすんだよ」
「フェルゼンを流れるあの豊かな川に巨大な水車を設置して、まずは安定した回転エネルギーを生み出す。その力を傘歯車で垂直の回転に変え、工場の各階を貫くこの主軸に伝えるんだ」
「……待て。垂直に上げた力を、どうやって個別の作業場に繋ぐんだ。まさか全部に歯車を噛ませるのか? そんなの、すぐ噛み合わせが狂ってガタが来るぜ」
ガラムが鋭い指摘を飛ばす。さすがは現役の職人だ。伝達ロスとメンテナンスの難しさを直感的に見抜いている。
「それじゃあコストがかかりすぎる。だから、天井裏に一本の長いシャフトを通し、そこから革のベルトと滑車を介して動力を『分配』するんだよ」
「ベルトと滑車か! なるほど、それなら滑車の径を変えれば、機械ごとに回転の速さも調整できるってわけか……」
ガラムは身を乗り出し、食い入るように図面を見つめた。単なる想像図じゃない。摩擦抵抗を抑えるための軸受の配置や、張力を維持するための計算まで、俺が現実の機械工学に基づいた数値を基に書き込んだものだ。
「これ一基で、数十台の切断機や研磨機を、人間の手を一切借りずに一定の速度で動かし続けることができるんだよ」
「……一本の棒を回すだけで、工場中の機械が全部動く。これなら職人が一日中踏み車を回して汗を流す必要もねぇし、刃の回転が鈍ることもねぇ」
ガラムが感嘆の声を漏らし、武骨な指で図面の線をなぞる。だが、すぐにその指が止まった。
「……だがよ、ゼクトさん。これだけの規模の建物を川べりに建てるとなると、土木作業の規模が半端じゃねぇ。領主のグスタフ様に泣きついて、予算と人員を動かしてもらうしかねぇ。領主命令でありったけの作業員を集めてもらえば、形にはなるだろうが……」
「だめだよ。グスタフに頼っちゃ。彼は今、『外交』という名のセキュリティ対策にリソースを全振りしてもらっている最中なんだ」
「なんでだよ! 予算も人員も、グスタフ様にお願いするのが一番早ぇだろうが」
「ダリル公爵をはじめとした外部の連中からフェルゼンを守るために、チェスという名のプロトコルを定着させる大事なフェーズだからね。今、バックエンドのインフラ構築まで彼に丸投げしちゃ、システム全体がパンクしちゃうよ」
俺はコーラを一口飲み、戸惑うガラムの目をまっすぐに見つめた。
「このプロジェクトは、ガラムさん、あんたが中心になって進めるんだ。領主主導の公共事業じゃなく、現場の人間が自律的に動かす『民間産業』として立ち上げなきゃいけないんだよ」
「バカ言え! 俺は鉄を叩いて木を削るのが専門だ。工場の建設だの、資材の調達だの、大量の人員管理だの……そんなの、考えただけで頭の回路が焼き切れちまうぜ」
(……確かに。スペシャリストにPMまで兼任させるのは、ブラック企業の典型的な失敗パターンだな。開発者が仕様書を書きながら、予算交渉と進捗管理までやらされたら、誰だって発狂するよ。俺だってお断りだ)
「だれかいないの? ガラムさんがCTO……技術面の責任者として君臨して、それ以外の面倒な実務を全部引き受けてくれるような、理屈と数字に強いパートナーは。あんたに足りないリソースを補完してくれるバックエンドエンジニアみたいな人がさ」
ガラムは唸り、短くなった髭を何度もいじった。しばらくの間、リビングに重苦しい沈黙が流れる。膝の上で寝ていたたまが、面倒くさそうに片目を開けて俺を見た。
「ニャォン(……この頑固なドワーフに数字を扱わせるのは、確かに無理があるわね。算盤を金槌で叩き割りそうだしね)」
たまの鳴き声に反応したかのように、ガラムが再び口を開いた。
「……一人、心当たりはある。だがよ、あいつは……理屈っぽくて、一分一秒まで時間を管理しやがる。おまけに金に細かくて、俺たち現場の人間とは死ぬほど反りが合わねぇんだ。」
「へぇ、最高じゃないか。その理屈っぽくて金と時間に細かいっていうのは、この工業化プロジェクトには喉から手が出るほど欲しい資質だよ」
「あいつは数字さえ合ってりゃ職人の苦労なんて知らねぇ冷血漢だ。そんな奴と組めってのか?」
(技術畑と営業畑の対立、か。定番だけど、これがないプロジェクトはだいたい空中分解するんだよ。お互い嫌い合っているくらいが、チェック機能としては丁度いいんだよね)
「じゃあ、今度その人を一緒にここへ連れてきてくれる? 工場の詳細なスペックと収支計画について、三人で詰めようよ」
「……気が進まねぇが、この図面の化け物を動かすためだ。背に腹は代えられねぇ。あいつを説得して連れてくるよ。……だがよ、ゼクトさん。もしあいつが途中で『予算が足りねぇ』なんて泣き言を言ったら、あんたが黙らせてくれよ?」
「いいよ。予算が足りないなら、予算を創り出す仕組みを提案するだけだからね。それが俺の本業だよ」
ガラムはどこか複雑な、それでいて新しい戦場を見つけたような表情を浮かべながら、全ての図面を丁寧に丸めて抱えた。今度こそ、彼は職人から産業の先駆者へと脱皮するために、嵐のように家を飛び出していった。




